死を受け入れる五段階
医師であるエリザベス・キューブラー・ロス著『死ぬ瞬間』に記載されている、死を宣告されてからそれを受け入れるまでの五段階。「キューブラー=ロスモデル」とも。
死を宣告された約200名の患者との面談、その分析をまとめたもの。
◆目次
◆第一段階 否認
◆第二段階 怒り
◆第三段階 取引
◆第四段階 抑うつ
◆第五段階 受容
◆この説の信憑性について
◆当人の問題だけとは限らないこと
◆第一段階 否認
「自分が死ぬはずがない」という否認。頭ではそうだとわかっている上での、感情的な否定・逃避。
周囲の人間はこれを事実と認めているため、齟齬が出る。例えば周りが自分を見る目が同情を帯びているようなのも嫌だし、健康に良いと何かを勧められるのも嫌なわけだ。当人は「自分は死なない」としているのだから、そんな「対策」のようなこと自体が必要ないはずなのに。
このため周囲の者と物理的精神的に距離を取り、孤立する傾向。
死そのものへの拒絶。根本的に人の日常生活は死を避けている。見えたとしてもモニターやテキストの中のそれで、実生活とは切り離される。
頭では当然わかっていることだが、「実感」として死が日常に潜み、何処にでもあることを受け入れたくないという否定。この「現実」と「世界観」との落差は、死に限らず感情的な反応を生み出しやすい。
◆第二段階 怒り
「なぜ自分が死ななくてはならないのか」という怒り。
同じ様に好きなものを食ってるやつがいるじゃないか。同じ様に健康を顧みなかったやつがいるじゃないか。同じ様に悪いやつがいるじゃないか。いや、自分よりもっと、自分より先に死ぬべきようなやつがいるじゃないか!!
最も感情的なフェイズだろう。その分言ってることが理不尽にもなりがちである。
「なぜ自分なのか」という段階とされている。このため、健常者に皮肉・妬みの態度をとることもある。
死ぬのが自分であることの拒絶。死そのものがあるということはわかった。だが、なぜ自分が? なぜ今?
◆第三段階 取引
「どうやったら助かるのか」、試行錯誤、或いは祈る段階。
安直に「神にすがろうとする状態」とされているが、精神構造や信仰の形が西洋と違うからなこっち。民間療法とか漁る段階、と捉えていいと思うが。
身近な例で例えれば、虫歯になってから歯を磨き出す子供とか、そんな心境。周りから見れば空振りの対処。
部分的な食い下がりというか、「死ぬにしてもなんとかそれを先送りにできないか」と言った状態も。第二段階より少し進み、死ぬことそのものは部分的に、徐々に受け入れ始めている。
可能性がないことの拒絶。自分がこのままでは死ぬことはわかった。だが、まだ何かできることはあるのではないか。まだ何かすれば間に合うのではないのか。
◆第四段階 抑うつ
どう足掻いても無理だと悟り、諦める段階。
いかなる取引も無駄だと悟り、死の運命を実感する。誰もがいつかは死ぬということを頭ではわかってる。だがそれが目前に来てすんなり受け入れられる者はあまりいない。試行錯誤の果て、それを受け入れ、ダメージを受けている状態。
ここでようやく、受け入れることができ始める。といっても、それまでの段階は悪あがきとも言えない。それまでは、「それまで」を維持するために機能していたわけで。
◆第五段階 受容
「最終段階」とされている。死を受け入れ、安らかに迎え入れる心持ち。
「残りの時間で、これからできること」を考え始めるようにもなる。
◆この説の信憑性について
五段階に分けられているが全てのステップを踏むとも限らないとされている。否認から一気に抑うつ、とかもありえるということ。
注意点として、聞き方が不躾だった点を挙げておく。患者たちに「重病で死にかかっている患者についてもっと知りたいのです」と無遠慮な聞き方したもんで、まだ消化しきれていない状態なら第一段階の否認、第二段階の怒りはそりゃそうだろうって感じがする。
全体にも言えるかも知れない。その聞き方ではちょっと「加速」させたというか、過剰反応を意図的に引き起こしているよね、と。
キューブラー・ロスはこの著書のその後、あの世だの生まれ変わりだの言うようになるので、胡散臭く見られることもあるそうな。割と多いなこのパターン。
-◆受容
批判や懐疑はキューブラー・ロスの(無意識にでも)受容を目指すべきだとする態度に集中しているようだ。「段階」という言い方からも、そうでない限りは「途中で留まっている」印象を与え、フェアではないと。
極論、医者がヤブだったら受容しちゃいかんでしょ。そもそもの「受け入れるべきかどうか」が怪しい/信じられないから、否認や怒りから始まるわけで。
悪あがきした挙げ句(取引の段階)なんとかなったら儲けものだし。「最後まで諦めずに病と戦い続けた」と言うのも大衆受けするシナリオだろう。
前述のあの世だ生まれ変わりだという話も相まって、「運命論」のようなバイアスが初めからかかっている匂いは確かにする。「誰もが死の運命を受け入れ、心穏やかに死ぬべきだ」、と。端的に言えば、初めから宗教臭い感じはある。
「死を宣告された者」のストーリーとしてはできが良いかもしれないが、実際に死の運命にあるかどうかは死ぬまでわからない。安易に否認や怒りの状態で「君は受容を目指すべきだよ」とか言ったら殴られるだろう。「もう手遅れだ。諦めろ」と言ってるのと変わらん。
取引や抑うつの状態に言ったところでトドメだ。「受容を目指すべきだ」と思わせる言い回しには、本人や周りの人間をこうさせてしまう可能性がある。
-◆神
後は第三段階。「神ってなんだよ」というツッコミがあるとか。まぁ科学・医学的な話では出てこない単語だ。要は「苦しい時の神頼み」ってやつで、信心関係ないと思うけどね。
個人的にはまぁ彼らの語彙力というか頻繁に使う言葉とかの話で、単純に「自分以上に力、知識、技術がある何か」というイメージをそう呼んだだけな気がするが。だから医者とかもここで言う「神」のカテゴリに入るのではなかろうか。
だってほら、絶対同じ立場になったら医者に聞くだろ。どうすれば長生きできるか、なんとかして治らないのか、って。まぁそれを真っ先に否定するのが医者故に、医者は候補から外れているだけではないか。最初から神のカテゴリに入っていないのではなくて、「こいつは駄目だったから除外」という形の。その後セカンドオピニオンだとか、名医探しだとかしても不思議じゃないだろう。
心理学的な話でいくつかあったような気がする。うろ覚えだが、別に何も信仰しちゃいなくても追い詰められれば神にもすがる、みたいな話は。
似たようなので、生まれてすぐに捨てられた孤児で、成長し戦争に行った若者が、自分が死ぬと思った時に「母さん!」と叫んだ、なんてのを読んだことがある。当然母親の顔なんて当人は知らないはずなのにだ。ユングの「元型」に纏わる話で、当人の中にあるグレートマザーという概念は、実際の母親とは独立してるとかなんとかそんな主張だった。
実際の存在、或いは実在するか否かではなく、自分がどうしようもない時にそれをどうにかできる存在が居て、自分を助けてくれる。そういった「ストーリー」や「イメージ」に縋る、というのはあるのではないか。親、医者、或いは神。或いは幸運・奇跡。第三段階は、それらに期待し、働きかけ、そして失望するフェイズだと思う。
或いはそれは「努力」とも言えるかも知れない。祈るだけ、期待するだけってこともあるかも知れんが、大抵はそれほどじっとしてもいられない気持ちだろう。
色々と手を尽くし試していくということは、選択肢がなくなっていき可能性が潰れていくということだ。最後に残るモノは、何か。
そう考えると、第四段階に移る頃には「(その人間が縋れる)『神』は死んだ」ことになる。まぁ綺麗に段階が移行するわけでもなく、行ったり戻ったりもするらしいが(だからこそ「受容がゴール」と印象づけるような言い方は相応しくないというのもわかる)。
-◆エリザベス・キューブラー・ロス
ちょいとフォローくらいは。
キューブラー・ロスは熱心なカトリック信者の家に生まれたとされる。当人はまっすぐ医療の道に進んだと言われているが、影響は受けていたのかも知れない。親の反対を押し切り、学費も自分で稼いでいたそうな。
医療活動に身を投じた際に、死にかけている患者の扱いが酷いことに愕然とする。この時「彼ら」をどう扱うべきなのか考えさせられたらしい。その後精神科医の単位も取得し、私財を投じてホスピスの原型となるような活動も初めたそうだ。原点ではないが、その先駆けの一つだと言われている。
死に瀕した人々と接し、その中で死後の世界に関心をもつようになった。臨死体験をした人の話を聞いたのがきっかけだったらしい。その後当人も幽体離脱をしたと主張している。
ユングもそうだったが、なんかその手の経験を通して方針転換というか、路線変更ってのは珍しくないね。俗説でも臨死体験したら性格変わったって話は、別に珍しくないし。
1995年、脳梗塞により左半身麻痺に。2004年に自宅にて死去。
彼女の言葉として、こんなものがある。
まず、感情を隠さないこと。思い切り泣いて、絶望の底まで落ちなさい。
大丈夫などと見せかけの強がりはしないこと。
これ以上落ち込めないと自覚しとき、
心は静かに浮かび上がっていき、
これまで自分を支えてくれていたものに気づくことになるでしょう。
まぁなんというか、医学的な分野での発表じゃなかったなら、別にケチもつかなかったんじゃないだろうか。セルフヘルプやカウンセリングに使えそうな気配もあるっちゃあるんだが。
◆当人の問題だけとは限らないこと
これは死を宣告された者の心境と、その変化していく流れについてではあるが、周囲の者にも該当することだとも言える。愛する者を失った者の克服の過程として紹介されていることもある。
上記の五段階の「なぜ自分が?」を「なぜあの人が?」に入れ替えればいいだろう。
・死を宣告された当人と周囲の人間との段階の「ズレ」は、ほぼ間違いなくコミュニケーション上で齟齬を起こす。状況に対する認知が違うからだ。
当人が死を受け入れているのにむしろ家族がそれを受け入れられず、苦痛を伴う治療を押し付け、当人の死後そのことで罪悪感に苛まれる、など。「あんなに辛い目に会わせずに、当人の望むまま余命を全うさせてあげればよかった」ってね。
或いはそれとは反対に、当人はまだ諦めてはいないのに「もうすぐ死ぬ人間」とする扱いをしてしまう、とか。
或いはもっと簡単に、「なぜこんなことになる前に自分で気づけなかったのか」と責める、だとか。周囲の人間が「怒り」の段階で、その矛先が当事者に向かうということ。
何処かでやった話だな。
公平世界仮説の被害者バッシング。五段階のほうが柔らかい表現かもね。この場合、周囲の人間は「受容」に向かうべきか。といっても事象に対しての肯定や否定・良し悪しではなく「これが現実に起こったことだ」、ということの受容だが。
「ミニ脚本」のドライバー、ストッパー、ブレーマー、ディスペアに似ている。
総じてキューブラー・ロスモデルは、「受け入れがたい現実を突きつけられたときの人間の反応・状態」と捉えることができるだろう。
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