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外向的・内向的という言葉とユング

外向的・内向的という言葉とユング

 

 
一般的には外向内向って言葉は性格を表すものとして使われている。大体あってはいるんだが、本来はもうちょっとこう、「お前はこうだ」では終わらない概念だった。
 
§目次
◆外向型・内向型について
◆1.一般で言われる外向・内向
◆2.個人の本質的な外向・内向
◆3.ユングの外向・内向
◆補償
◆カール・グスタフ・ユングについて
 


 

 

◆外向と内向

・ユングの外向型、内向型という言葉は、現代で使われる外向的、内向的という言葉の由来となったものだ。いつもながらに本来のものと日常的に使われるこの言葉とは少し意味が違ってきている。
  
現代では外向的と言えば活動的、内向的と言えば消極的といったイメージだろうか。
  
・ユングが見た限りはフロイトは外向的、アドラーは内向的だったそうな。
というか、ユングがフロイトとアドラーを見て思いついたとされている。
フロイトが外向型のモデル、アドラーが内向型のモデルということになるね。
  
ユング自身がどう見ても内向型だし、アドラーとユングは後にフロイトとは別れているのも興味深い。
  

◆外向型・内向型について

  
・この言葉の使われ方は3つ。
  
1.一般で言われる性格や嗜好を指したもの
2.どちらが本質的なあり方か
3.ユングの外向・内向
  
・いずれも言葉の由来としてはユングの外向型・内向型が元になっている。別にどれも間違いではないだろう。
  

◆1.一般で言われる外向・内向

まぁ…。わかりやすいところからってことで。
この場合「型」ではなく内向的とか外向的とか言われることが多い。
  
外向=社交的
内向=消極的
  
程度の意味。
  
・で、外向的な人間は内向的な人間を甘く見て、内向的な人間は外向的な人間を軽蔑している傾向がある。
  
面白いことにこの点はユング本来の意味の時点で既に言われていたようだ。
えらい簡単に言ってしまえば
  
外向→内向「根暗で何考えてるか分からない」
内向→外向「騒がしくて薄っぺらい」
  
とまぁ、そんな感じのイメージをお互い持っているとされている。よし、お前ら喧嘩しろ。
  
・真面目に言えば、価値観をどちらにおいているかという違いだろう。
「行動」に重きを置く外向は、それがない内向は軽く見る。
「内面」に重きを置く内向は、それがない外向は軽く見る。
まぁ流石にゼロってこともないだろうがね。
  
で、どちらが良いのかなんて考えるのはナンセンスだ、というのは後述。
  

◆2.個人の本質的な外向・内向

  
・自分がどのような状況で活力を得ることが出来るかという話。あるいはどちらの状況が気楽か。自然体はどちらか。
  
・内向と外向の両方にある大きな特徴として、「逆の振る舞いを続けているとものすごく消耗する」点が挙げられる。
  
・判断基準としては、内向的な場面、外向的な場面、どちらで「疲れるか」。
まぁ1人でいるのと人と会うのとどっちが疲れるかで考えればいい。
  
1人でいると疲れるまたは1人でなんていられないなら外向だし、人と会うと疲れるとか集まりが苦手なら内向型。どちらにせよ苦手分野の面を使わなければならないから疲れる、と。
 
・ただこれ、他人から見た姿と一致しないことも多い。すごく人当たりがよくて人気もあって本人も楽しそうなのに内向型、とかある。つまり「上手か下手か」と内向外向は必ずしも一致しない。
 
・また、外向だろうが内向だろうが流石に限度もある。ずっと1人じゃ辛いだろうし、いつでもベタベタしてたらうざいだろう誰だって。あくまでもベースはどちらか程度だと思ったほうがいい。
 
・内向型の人付き合いに対しての疲弊だが、単に下手だの苦手だのと言ったケースも有るのだが、「最適な振る舞い」がわかりすぎて、つまり空気読みすぎた上に「最適解」を実行するからものすごく疲れるというケースもあるらしい。どうも「わかっちゃうから手を抜けない」んだとか。ただし力加減を考えるのが苦手という意味では、やはり外向が苦手分野で内向的なのだろう。
 
この場合は「加減がわからないから全力でやってしまう」とも言えるか。そして外的な「最適解」は結局のところ「自分を押し殺す」ことにつながり、まぁ潤いが一切ないね。このタイプ、多いんじゃないだろうか。
 
この点については自分が内向外向どちらか把握した上で、
内向型=1人の時に充電できる
外向型=人と会ってる時に充電できる
と覚えておけばいいだろう。また、反対側も別に無理じゃないことも。
 
 

◆3.ユングの外向・内向

 
大きな特徴としては、
 ・外向型=外部に価値観を求める
 ・内向型=内部に価値観を求める
 
・ただこれは「何に対して」「どう振る舞うか」の状況とのセットで考えなくてはならない。要は人付き合いには内向的、趣味に関しては外向的とかあるってこと。いつでもどこでも内向/外向ってわけじゃないという話。
 
・ユング自身が行った例え話として伝えられているのがだいたい以下のような内容。
 
1.外向と内向の二人の人間が旅行していた。
 
2.見慣れない古びた建物を見かけた。
 
3.外向型は「探検してみよう」と言い、ズカズカと中に入っていこうとする(積極的=外向的態度)。
一方、内向型は「勝手に入っていいのか」と外向型を見て不安に感じる(消極的=内向的態度)。
 
4.その建物は古書を収集しており、珍しい書物が大量にあり、管理者もまた豊富な知識を持っていた。
 
5.内向型は目を輝かせ、古書を閲覧し、管理者と語り合う(内向型の外向的態度)。
一方、外向型は退屈し、やることなく、自分をほったらかして他所に夢中になっている内向型に対して不満に思う(外向型の内向的態度)。
 
よし、お前ら喧嘩しろ。こうしてみると判断基準が価値依存なのが内向型で状況依存なのが外向型にも見える。
 
また、この際の内向の外向的態度、外向の内向的態度は素が内向・外向の人間とはまた別物だ、ともされている。
 
・「態度」自体はこのように対象に拠る。ただし得手不得手は依然としてある。特に内向型の人間にあると思うが「楽しかったんだけど疲れた」みたいな状態だとか。
単純に脳の使い慣れない部分が活発になった影響じゃないかなとも思う。
 
・最重要なのは「1人の人間がどちらも持っている」ことだ。右利きにだって左手ついてるだろう。片手が塞がってるならもう片方の手を使えばいいし、両手を使うなら出来ることも増えるだろう。
 
つまりは自分が内向外向の「どちらが優勢か」を気にするのは結構だが、取り違えて「自分はどちらか」と考えたり、拡大解釈して「どちらかしかない」と思い込むのはナンセンスだろう。
 
・また、どちらのタイプだろうがそれが上手いか下手かとは話が別だったりする。突き詰めれば「素質は外向型なのにコミュ障」とか、「内向型なのに自分の気持ちがよくわからない」とかあるよねと。この場合日常のほとんどで消耗するだろう。「充電」出来る環境がないということだから。※1
 
・また、ユングがこれを掘り下げた8つの「タイプ」なるものがあるが(ユングのタイプ論:思考、感情、感覚、直観+内向か外向か)、そちらでは得意なもの=優勢機能を伸ばし、苦手なもの=劣勢機能もまた育てるべきだ、とされている。
 
特に外向性に於いては社会生活を営む以上、及第点レベルにはあったほうが良いだろうし。内向性にしたってわりと個人主義な現代に於いて「一秒も1人じゃいられない」ってのはアレだろう。
 
誰しも課題はあるってことだね。
 

◆補償

ユングは外向・内向という人間の心理的「機能」について、過剰に働いた際にはバランスを保とうとして「揺り返し」が発生すると考えていたようだ。反動と言えば早いか。 これを「補償」と呼ぶ。
 
周囲と一緒に盛り上がっていれば満足なはずの外向型が自分の「個性」に拘るだとか、自分の世界を守れてれば良いはずの内向型が外部の「批判」を意識しすぎるなどはこれである可能性もある。※2
 
ただ、この際の外向内向は本質的なそれとは違い、どちらだろうが「使いすぎた結果」だと思ったほうが良いだろう。極論、内向型がタレントにでもなったら「外向的な面を使いすぎた疲労状態」になってもおかしくないだろう。元から外向でもこれはあり得るし(耐久力の違いはあるだろうが)、そういった意味では人間大して変わらない。
 
・ユングは東洋思想に理解・関心があったこともあり、こういった陰陽・中庸のような「バランス」に注目したのかもしれない。
 
「無意識」の立ち位置もフロイトのそれとは違い、意識を「補償」するようなものだ、としていたようだ。
 
ユングで有名所なのは「シャドウ(自分の中にある見えないふりをしている部分)」だと思うが、アレにしたって和解というか受け入れることがゴールだし。ちなみに夢の中で同性の人物(あるいは安直に『嫌いな相手』)が出てきたらシャドウである可能性があるんだとか。夢の中でそいつと上手いことコミュニケーション取れてるようなら特別問題はないそうな。
 
 

◆カール・グスタフ・ユングについて

・おまけ。
 
・ぶっちゃけてしまうと、ユングが精神科医や心理学者であるかは意見が別れるところだったりする。理由はシンプルで、オカルト方面に偏りすぎていたから。彼自身幼い頃から「内なる世界」を重視する傾向はあったようだ。※3
 
というか、信心深かった。父親は神父だったりする。自分が父の跡を継ぐか、それとも医者になるかで迷う時期で父が亡くなり、母から「父はお前にとって一番いい時期に亡くなったのだ」と言われたことから父と同じ道ではなく医者を志したとかなんとか。
 
彼自身、科学者であろうとしていたようだが、いかんせん彼の内面は豊かであった。
科学者たらんとしていた所に、患者である女性に「先生は芸術家なのですね」と言われて(もちろん褒めたつもりだった)へこんだこともあるそうな。フロイトにオカルトから離れろとも言われていたらしい。
 
晩年にはふっきれてるようにも見える。易経にはまったり、曼荼羅描いたり、共時性(意味のある偶然の一致)について発表したり。
 
もちろん時代的に、「精神」という分野の境界線は今以上に混濁していた点もある。むしろ彼らが踏み込み切り開いた結果、今があるとも言えるし。別件だが、イギリスだったかな、「妖精」が「昆虫図鑑」に平気で載ってた時代もあったらしい。羽があるから虫じゃろとかそんなノリだったんだろう。
 
・ユングが何をしたかったのか、どうありたかったのかは、晩年の彼の言葉がヒントになるかもしれない。
 
「私は、他の孤独な人たちのために執筆しているますます孤独になっている老人です」
「誰も私を理解してくれません。私の仕事は失敗でした」※4
 
これらの思いが集合的無意識や共時性などの「見えないつながり」を示唆するような考えに繋がったのかもしれない。
 
確かにユングの理論は特に「元型」がそうだが、「手探り感」があるのは否めない。※5
発見した物に名前をつけ、理論として取り込み、発展させてきた感じがある。
だからこそ「わかりやすさ」もあるし、受け入れやすさもあると思うが。
 
まぁ、「きっとこれで多くの人が救われる」と信じた、1人の老人が人生を捧げた世界観として考えてもいいかもね。
 
・ただ、一周回って斬新なのではなかろうかと思わなくもない。現代の「精神活動の研究」って大体は脳のMRIで活発なところを見たりだとか、過活動やら鈍化やらホルモンがどうたらとかで医学的、物理的、あるいは「客観的」ではある。
 
確証も得やすいしこれはいいことだろうが、その分当人の「主観的決着」としての思考的解決、イメージ的解決ってのは、その補助がカウンセラーの仕事とかになって「医学・科学」からは置いてけぼりな気がする。浅学な私が知っている限りだと近いのは認知行動療法とかそのくらい?
じゃなきゃ信仰だとか迷信だとかそっちの話になるしかなくなってしまう。
 
で、それらを自力で決着付けるためには内面の把握(あるいはイメージ化)は役立つわけで、「わかりやすい」ユングはイメージ構築の骨組みとして逆に役に立つんじゃないのと。
 
実際そうだろう。コンプレックスって言葉もそうだし、この外向・内向の概念もそうだし、一般に受け入れられ広まった実績と馴染みやすさがある(集合的無意識と共時性については慎重になるべきだろうが)。
 
少なくとも私は、これらは「使える」と思っている。再解釈や再定義は必要だろうけど。
 

※※※

※1:社交的で愛想もよく、仕事も充実しており、人間関係も誰とでも仲良くできてた人間が、突然うつ病になりました、って話も結構あったりする。当人は外向的だと思っていたけど本質は内向的だったのだろうか。
 
※2:確かに「自分がない」と悩む人間は既に周囲に合わせすぎている傾向があるし、自身の内面を重視する人間が批判を恐れるのもよくある。ただこれは「前ばっかり見てたから後ろが気になってきた」みたいなものだと思うが。反対側を鍛える必要はやはりあるだろう。
 
※3:一応言っておくと、別にこれはユングに限った話じゃない。エジソンは晩年「あの世との通信手段」を研究していたって話もあるし、コナン・ドイルは偽の妖精写真を本物だって言っちゃってるし。単純に現代よりもオカルトと科学の区別がついておらず、疑似科学も多く、当時の時代での先駆者だった彼らには可能性を感じる題材だったのだろう。今我々がこれらを「ある訳がない」と断じることが出来、むしろファンタジーとして「消費」すらできるのは、彼らが体張ったからだと思ったほうが良いのではないか。
 
また、オカルトにしたって全くのデタラメとも限らない。プラシーボ効果で治療的なものは説明が付くし(特にイボはプラシーボ効果が出やすいらしい)、錬金術にしたって「鉛を金に変える」のは科学的に現代では可能らしい。コスパが超悪いからカネにはならんらしいが。
 
※4:河出文庫:著 コリン・ウィルソン・訳 安田一郎:『ユング─地下の大王』より
どうもコリン・ウィルソンはユングもまたアウトサイダーだと見ていたようだ。自己の探求者、それ故の孤独や疎外感。
 
ゆうても「モテすぎちゃって困るわー」的な内容の手紙をフロイトに送ってたりもするので別段孤高の人かというとどうかと思うが。加えて不遇な扱いを受けたかというと別にそうでもなかった気がするが。
 
※5:シャドウとかグレートマザーとかアニマとか。
手探り感あったほうが地に足がついてる感あってまだマシだとは思うんだが。

 

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