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トラウマ克服に使われる行動療法 暴露療法 

トラウマ克服に使われる行動療法 暴露療法 

暴露療法(ばくろりょうほう、Exposure therapy、エクスポージャー法)とは、不安障害に用いられる行動療法の技法である。

この技法では、不安や苦痛を克服するため、患者が恐怖を抱いている物や状況に対して危険を伴うことなく直面させることとなる[1][2]。
その技法は、オペラント条件づけにおける消去とほぼ同じである[3][4]。

全般性不安障害、社会不安障害、強迫性障害、PTSD、特定の恐怖症などの障害の治療について、さまざまな研究においてその有効性が裏付けれらている[5]。


Wikipediaより





まぁ専門記事で見るとわかりづらいが、例えば子供が犬に噛まれた経験を持ってるから犬嫌いになった、としようか。犬は全部理不尽に噛み付いてくる化物で、近づくことすら危険であると本能レベルでの認識を持ったとしよう。

あなたがその子を見て、なんとかそれを直そうとするのだとしたら、どうするか。多分やることはおとなしい犬を連れてきて、触れさせることだろう。小型犬とかの。「ほら、噛まないだろう?」なんて言って。「消去」はそういうこと。

「消去」という呼び名は誤解を招くのではないかと思っている。実際には「何も起こらない」あるいは安全であるという形での新しい記憶による「上書き」だ。まぁ条件反射を中心としてみれば確かに「消去」なんだが、トラウマやフラッシュバックに悩まされている「人間」の視点で見れば上書きだろう。

この場合において必要なのは、本人の「勇気」・・・なんかではない。決してない。それは違う。もちろん本人がその気になっているのが必要ではあるが、根拠のない勇気、思い切ってやってみるなんてのはいらない。悪化するリスクすらある。

実際に危険性が「ある」経験をしたからトラウマになった可能性は高い。それを忘れてはいけないだろう。

さっきの犬嫌いの子供で考えてみればわかる。実際に自分を噛んだ犬に対して「勇気」をだして撫でようとしたら、まぁまた噛まれる可能性はあるだろう。実際に「その犬」は危ないという認識はその段階では正しい。

気づかずに尻尾を踏んづけていただとかまぁなんかあるのかもしれないが、それらが判明しない限りはその犬は「噛む犬」という認識のほうが安全なのは間違いない。

この場合の問題は「噛む犬」という概念の範囲が広すぎて、あらゆる犬が該当していることだ。






トラウマは危険や恐怖、後悔、怒りなどの「負の感情」に紐付けられる。これは本能的な生存戦略だ。野生動物が危険な目にあったことを忘れたら、次も同じ目に合うだろう。次は死ぬかもしれない。

「人間」に於いてこれが必要かと言えば、まぁ大抵必要はない。それも事実だ。ぶっちゃけてほとんど邪魔だ。だが「生物」としては過去に必要だった。だが人間にとってそれは「やり過ぎ」の反応であり、ちょっと迷惑だったりする。

実際に見ただけで吐き気を起こすレベルのクズがいてトラウマになったとしても、「それを全力で避けることしか考えていない対処」なので副産物的な不具合、つまり人間全てを相手に頻発し、これでは社会生活に支障が出る。

話は戻るが、噛む犬が居るという記憶と経験、つまりは犬嫌いと言う名のちょっとしたトラウマは、今後「犬に噛まれる」という可能性を激減させる。それは事実だ。でもそれ以外の面で不都合が起きる。忘れる、と言うよりは「そうじゃない可能性」を知り、判断のバランス感覚を取り戻したい。

上書きに必要なのは「噛まない犬」だ。当たり前だろう? 
逆を言えば治療すること、克服することに於いて「犯人」には全く用はない。あらゆる意味で無価値だ。







じゃあ犬嫌いが人間嫌い、つまりは対人恐怖症や女性恐怖症/男性恐怖症だったとしたら、当然協力者、そこまでいかなくても「有害ではない」レベルの人が必要となる。

自力でそれを探すなら、「人間嫌いこそ人を見る目を養う必要がある」という結論になる。勝手に得意分野になった「悪い所を探すセンス」ではなく、「噛まない犬」、つまりは「まともな人」を探すセンスだ。

オペラント条件付けの消去というよりは、古典的条件付けの消去の方がwiki内としては詳しい。オペラントは「自由意志の誘導」を狙ったものに近い気がする(だからこそ「反応しない」という意思決定が比較的しやすい)、トラウマなどで悩む人間の苦しみ(唐突に、強く、本人の意志と関係なく)を考えれば、トラウマなどは古典的条件付けレベルの「刻まれ方」をしているはずだ。

こちらで言う「無条件刺激」「無条件反射」という概念のほうが、トラウマに近い気がするのだ。

参照:外部サイト:Wikipedia:古典的条件付け





一応古典的条件付けの簡単な説明をしておく。有名だと思うが「パブロフの犬」のことだ。あれが元になった理論。

ベルの音を犬に聞かせる。そして餌を与える。繰り返していると、ベルの音がなっただけで犬はヨダレを垂らすようになる。これがパブロフの犬。

この状況をちょっと整理しよう。他人がやった「何か」がトリガーとなって「生理的な反応」が現れる。これはトラウマがある人で言えば誰かの言動や自分の思いついたこと自体がトリガーとなって特定の記憶、感情、言動を強制的に再現してしまう(無条件反射)スキーマができたことと同じ。

wikiの方にちゃんと書いてあるが、刺激によってシナプス結合が変化する。簡単に言うと「脳が変化する」。

逆を言えば「頭がそうなっているだけ」「脳のクセ」であり、トラウマの内容やトリガーについて「深読み」するのは避けたほうがいいだろう。単純に当時インパクトが強かっただけで、今では本気で意味がない可能性も高い。

ここからが「消去」の話になる。「ベルを聞かせるだけ」でエサをやらないことを繰り返していった場合、無条件反射は消える。

「トラウマの消去」、つまり暴露療法として考えてみると、これは「トリガーに対して」、「何も起こらないという新しい記憶を得る」ということになる。こうしてみれば簡単だ。だが、実際には簡単じゃない。





まず「何もない」ことに対して人は意識を向けない。ほぼ認識していない。これじゃ「記憶」にならない点。要するに何もないから印象が限りなく薄い。当たり前といえば当たり前なのだが、必要なのはこの限り無く薄い印象である「何もない」をしっかり認識することだ。

次にトラウマが発生した場合、意識は記憶や感情、それらのアウトプットを目的とした算段といった「頭の中」に向いてしまい(ダニエル・デネットの言うところ「注意のひったくり」)、これまた「何もない」ことには意識が向かない点。
更にトラウマ、フラッシュバックの「相手をしてしまうこと」は、その神経配置の存在価値に「投票する」のと同価値である可能性がある(意識の「評判」モデル)。

脳は「予測」をする。見たものから関わりの有りそうな記憶を引っ張り出す。それが過敏で、なおかつ強すぎるのが今回言うところのトラウマだ。だからその準備として「まるで既に現実に起きたかのような」感情や体の反応が起きる。

だがこれを言い換えれば、「想像に夢中になって現実を見ていない」状態だ。もっと言えば、「再現された記憶の世界」を生きていて、現実に生きていない。

この状態にする強制力がトラウマにはあるのだが、だからこそ「何もない」という現実を意識して見なきゃいけない。

難しいかもしれないし、簡単かもしれない。嫌な記憶、将来への不安などの「頭の中」ではなく、今、この瞬間、嫌いなやつはいないし、嫌なことも起きていない静かな「この瞬間」を実感すること。

人生がどうあれ、そういった時間は一日の中にあるのだという「現実」を知ること。頭の中に普段降ろしている「錨」を、現実の側に降ろす必要がある。




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