自分がない/自分の考えや意見がない人
最終更新:2017/07/07
自分がしたいことが分からなかったり、何か言うべきタイミングに何も言葉が出てこなかったり。
そんなことが続いて「自分の考えがない」だとか、「自分がない」なんて悩む人もいるようだ。
彼らはどうしてそうなったのか。
そもそも、本当に自分がないのだろうか。
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◆自分の考えを持ちたくて悩んでいる人たち
■欲しいモノ、やりたいことが思い浮かばない
人間、なんらかの「欲」を原動力として動くものだが、自分がないと悩む人は欲がかなり薄い傾向がある。
欲しいモノもやりたいことも思い浮かばなかったりする。
おそらくは「ない」のではなく、「察知できない」。つまり自分の気持ちが「わからない」だけだと思う。これは「自分のことを考えられない」と言い換えることが出きる。
■周りに合わせすぎる
自分がないと悩む人は必要以上に、強迫観念のように「人に合わせなくてはならない」と思っているようにみえる。
一生懸命そう考えるから、なおさら自分のことを考える余裕がなくなってしまう。
この場合、「自分」の優先順位が他人よりも下になっていく。何かをやろうとした際、真っ先に他人が気になるようなら注意した方がいい。
結果的に意見がないから誰かに言われたとおりに行動し、「他人が満足する人生」を過ごすことにもなりかねない。
それは親かもしれないし、「世の中はこうあるべきだ」と声高に主張する赤の他人かもしれない。
■あえて「自分」に気づかないようにしている可能性
自分が気づきたくないような自分の心の中の「何か」から目をそらすために、気づかないふりをしているケースもあるらしい。
例えば本当は将来の夢、なりたい自分、欲しいモノがハッキリと自分の中にあるのかもしれない。
だがそれを叶えるためには周囲との「闘争」が必要になる場合。
親に反対されるかもしれない。
周りに馬鹿にされるかもしれない。
誰かに先に奪われるかもしれない。
戦う以上、敗北する可能性が出てくる。
で、絶対に負けない方法がある。戦わないことだ。
だって自分のことだから。
諦めてしまえば、それで終わる。
でも気づいてしまったらそのまま我慢なんて出来ない。
じゃあ、気づかなければいい。
こうして自分自身に関心を向けず、表面上の「普通」を維持することに注力する。
これが続くと何も感じなくなる。
「意欲」そのものにフタをすることと同じだからだ。
これは実際の「敵」に対してではなく、敗北そのものへの恐怖だろう。
ある意味、その夢や目標は本当は何よりも大切なのではないか。
絶対に失敗したくない、壊したくない、そうなるくらいならいっそ心にしまいこんでおきたいほどの。
人生をかける価値があると、自分自身で思えるほどの。
それを「なかったこと」にしてしまうのは、なんだか悲しいね。
◆
◆ 以下は相談サイトなどで見つけた特徴的な例。
※
昔から自分の考えを持てない事で悩んでいます。
意見交換の場がすごく苦手で基本だんまりです。
緊張して言葉が出ないのではなく自分の考えが分からないので言葉が出ないのです。
誰に対してもそうで(母以外の家族に対してもどっか引き気味です)
「自分」を発信することがとにかく苦手です。
自分の発言に自信がないので、自分の発言を取り消したくなります。嘘じゃなくても嘘を言ってるような気になるのです。
※
・「自分の発言を取り消したくなる」というのは、「自分の意見を否定される恐怖」だろう。
これはそのまま自分自身を否定されることに対する恐怖に繋がる。
或いは「責任を取らされるかもしれない」と言った考えかもしれない。
意見を「言わされている」と感じているとこう考える。
・彼女は「昔から作文は酷い出来だった」みたいなことを書いているのだが、見た限りでは別におかしくもない。
作文のときは「何を書いたらいいかわからなかった」だけではないか。
その上で無理やり書けば誰が書いても残念な出来になる。
要するに「考えられない」ことが能力的な問題とは思えない。
※
僕は、自分の意見がよくわかりません。~かな?と思うことがあっても、人が否定すると、確かに、と思い、納得してしまいます。
そして、判断基準として、権威になびく傾向があります。というのも、最近バカの壁を読みました。なるほど、いいこといっぱいかいてあるなー、良い本に会えた!と思い、インターネットでレビューを調べてみると、否定的な意見が多いんです。すると、あれ、これ信じても良いのかな、と疑わしくなります。
なんとなくどこか100%の正解が欲しくて、どちらかの意見に落ち着きたい、というのがあり、ベストセラーであるバカの壁にすがりたい心境です。
こうして決められなくなると、神様の存在を望むようになり、絶対的な答えがほしくなってしまいます。
なんかちそれってちがうなーって思うのですが、かといって俺はこう思うとも思える自信もなくて、苦しいです。
自分の意見って、間違ってるかもしれないと思う気持ちを心に抱いてもつものなのでしょうか。なんかそれが気持ち悪いです。
※
・前半についてはこれで普通、なんだけどね。
この例はつまるところ、自分と違う視点での意見を見て、それをきっかけに再考しているだけだ。
これ自体は普通、というかまともな思考だろう。
・「絶対的な答え」が欲しい、というのがポイント。
これさえ知ってれば大丈夫、みたいなものが。
それを持っていない不安感に耐えられず、より有効そうな意見に飛びついてしまう。
自分の考えに自身が持てないせいで、他人の意見に本当に「飛びつく」かのように、今までの自分の考えなどを投げ捨てる傾向が強い。
・また、そう思いつつも「それは違うかな」とも言っている。
自分が思ったことに対しての再評価、つまりはメタ認知が出来ている。
・自分を客観視する能力が高い。これも共通点だろう。
まぁこの場合一番いいのは「もう一回読んでみる」ことだろう。
今の視点で改めて読むと、印象も変わる。
ちなみに「ベストセラーだから」という理由で鵜呑みにしようとした場合、
「ハロー効果」という認知バイアスだ。
※
私は日頃から他人と会話をしていても、自分の素直な気持ちを伝えるというよりは、この様なことを言われた場合はこの様に返答すればいいという形で他人と会話をしております。
ですが、高校時代の友人または同期からお前の素をみたいなどと言われることがあると、自分の素直な気持ちがわからず少し悪ぶって話したりすることが多いです。
これも素直な自分なのか?と言われるとわかりません。
※
・興味深いことに、彼らはとても言語化がうまく、自分を客観視できているし、そこからの自己分析もできている。
後ちょっとQ&Aサイトを見ていて気になったのが幾つか。
- 過剰な丁寧さが見え隠れしていること
- 理由として辻褄が合いすぎている(後述)
- 基本的に文章が事細かいこと(Q&Aサイトには「何が聞きたいのかすらわからない」レベルの雑な質問も多いがそういったものがない。そして文章量はかなり多い傾向がある)
恐らくこれらは「他人に説明する必要が多い日常」を過ごしていたはずだ。つまりは圧迫的な人間関係。
・「素の君を見たい」と言われて悪ぶるというのは、逆を言えば普段は意識的に丁寧にしているということだ。
それは誰だってそうなんだが、それを強く意識しすぎている気がする。強迫観念のような。
※
実は思い当たる節があり、子供の頃から自分の好みをおかしい、普通はこれが好きになるんだよ。みたいな言い方をされて、あ、じゃあ自分の好みは勘違いだったのか...と好きでもないものを好みだと思い込んでたことがあります。
また子供の頃から自分の思いや行動を客観的に見る癖があり、例えば吃りが一時期酷いときももしかしたら、自分はこれをわざと演技でやっているのではないか?と疑っておりましたし、父親には「てめぇわざとやってるんだろ?!」と怒鳴られてしまい、やっぱり自分は無意識に演技でやってるのかも思った記憶があります。
※
・「普通はこれが好きになるんだよ」。と言う言葉について。
まぁ親は思いつきで口にしただけなんだろうが子供にとっては、
「でもお前は違うんだね?」
「じゃあお前は普通じゃない」
と言う脅迫に聞こえるわけだ。
じゃあ、「自分は間違ってるから人をお手本にしよう」と決めたって不思議じゃない。
リンク先を読めば分かるが、親の顔色を窺って意見を変えてきた、みたいな話も彼はしている。
反対に「絶対に言うことを聞かない子供」になることもある。
それが出来るのも「親が何を期待しているか」が分かるからだ。
一部の人間は積極的に「自分では何も決められない人間」を作りたがる。
そして子供はそれを汲み取り、それを演じ、そのうちそれが「素の自分」として定着する。
頭の中まで親に合わせるレベルで「やりすぎてしまう」、つまり親の意にそぐわないことは「考えすらしないようにする」子供もいるし、それが自然体になってしまうこともある。
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◆自分の考えがない・持てない・わからないと思っている人の特徴
まず、大抵の場合過去に原因を求めていることが挙げられるが、人間大体そうだからカウントには入らないか。
基本的に人間不信というか、対人恐怖症というか、表面上はどうあれ自分の意見がない(わからない)ことにコンプレックスを強く持っている。
この反動で「信じていいもの」を欲しがる傾向が強い。時には信じるに値しないものを、「信じたいから」信じてしまう。
というか、信じる信じないの二択がやたら脳内に出てきてるようにみえるんだが、「信じる」ってこと自体が「わからないけど決める」という博打に近い。
また、表面上は他人に同調する傾向は強い。これが「上手すぎて」相手が勝手に盛り上がってしまい、戸惑うことも。
◆「同調」というクセ
大体コミュニケーションにおいて。特に「発言を促された時」。
コミュニケーションにおいてテンポは大事だろう。
すぐにリアクションを返したい。
で、特に何も思い浮かばないからどういうリアクションが良いのかも浮かばない。
結論として相手の意見に同意しとけば一番「無難な答え」になるだろうね。
◆言語化能力が高い
見た感じ彼らは私よりは文章能力高いだろう。私は自分の過去記事見直すと「うわぁ」ってなるし。
まぁそれはともかく、「自分の考えを言葉にする」スキルが発達している傾向が見られる。
実際、彼らは自分の考えがないと言う割には周囲とのコミュニケーションを取っている。
「数をこなしているから発達した」と考えるのが自然だろう。
結構人に話しかけられることは多いのではないか?
と言うか、好かれているのではないだろうか。
あるいは変なやつに絡まれ安かったりしないだろうか?
その上で考えてもらいたいのは、「他人を不快にさせてはいけない」という強迫観念が自分にあるかどうかだ。
もしかしたら、だからこそ言葉を尽くして来たのではないか。
ついお世辞を言ってしまうことは?
相手を褒め過ぎてしまうことは?
自分が話しているときに相手の表情が変化することに注目している?
正直な所、他人に話しかけられると緊張する?
実は自分から話しかけることは滅多にない?
・まず間違いなく、あなたは頭がいいだろう。
それ故の落とし穴があるのは知っておいてもらいたい。
言語化能力が高いほど、言語化出来ないもの(言葉未満の感情、閃き、想起などを含む)に対して鈍くなる。
頭の中に限って言えば、「始めに言葉ありき」ではない。
むしろ茫洋とした「言語化できないもの」がまずあり、それらに形を与えるために言語化をする。
これらに気づけなくなってくれば、何も思い浮かびはしなくなるだろう。
無意識に「言葉に出来ないもの」を全て「無い」ことにしていないか?
だからこそ、そこが「空白」に見えるのではないか?
◆
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◆自己分析も出来ている(?)
自己分析が出来ている……っぽく見える。
確かに彼らが自分で語る原因分析はそれっぽい。
「それっぽすぎる」。
まるで「お前は(自分は)昔ああだったから今こうなんだ」と誰かに言われたか、自分に言い聞かせているようにも見える。
冒頭の3つの引用、引用元ページを読めばわかると思うが、彼らは自分で原因を特定し、結論づけている。
その上で何を訴えているかと言えば「今の自分が苦しい/嫌いだ」「自分はこのままでいいのか」と言ったようなことだ。
つまり、「原因」の特定は出来ている(ぽくみえる)が、「じゃあどうしたらいいのか」は自分では思いつかないようだ。
そもそも、「どうなりたいのか」から見えてこない。
「自分の意見を持ちたい」だけじゃアバウト過ぎる。具体性がない。
それでも彼らの文章は「SOS」に見える。
これは今のままでは何かが違うという「漠然とした不安」がそのまま居ても立ってもいられないほどに強くなってしまった結果に見える。
・また、この「自己分析の結論」と言語化能力の高さが組み合わさるとちょっと厄介なことが起こり得る。
「予言の自己成就」、まぁ要するに自己暗示に近い。
ハッキリと「今の自分がこうである理由」としてそれっぽい(もっともらしい)ロジックが組み上がり、それが理由だと思い込んでいると、ずっとそのままかもしれない。
現状の原因は大抵過去に求められる。
過去は変えられない = これからも治らないし変われない という図式になる。
言語化での「補強」で、この暗示は更に強いものになってしまう。
特に人間の「性格」「人格」については「幼少期に自動的に周囲のせいで作成され、その後一生続くもの」とした「運命論」的な認識が強い。
だが実際にはそうではない。
人は変わることが出来るし、過去はただ「在っただけ」だ。
人は「何故自分はこうなのか」と疑問に思った瞬間を起点として、過去を逆算する。
この際、「現状」が結論に成り得る要素を探す。
つまり、つじつまを合わせることを目的として思考、想起をするので大体それっぽいものが見つかる。
そして大抵、それっぽい答えが見つかればそこで満足して思考は終わる。ハッキリと言ってしまえば、人は難しいと思った問題に対して「もう諦めてしまいたい」と言った気持ちを持つ。その時に選ばれるのが大抵は「過去」だということ。その上で自分が「諦めた」とは思いたくない。だから「仕方がない」と思える理由を無意識に探しやすい。誰に限らず、誰でもそうだ。
・ある意味、その結論こそは彼らの思考の産物であり、ちゃんと自分で考えて、「これが原因だと思う」という意見でもあるじゃないかと言える。
だが、問題は「今」にあり、どんな「未来」になりたいか、だ。
実際に高確率で「自分の考えが持てない人」を作るような環境というものは在り得る。
やろうと思えばそういった人間を作れるだろう。
あなたと同じ環境で生まれ、同じ人生だったら、多くの者があなたと同じような人間になったかもしれない。
確かに原因となるきっかけや環境は他者にあり、その人は何かしらの「被害者」だったかもしれない。
だが、「あんなことが有ったから今、自分はこうなんだ」というロジックには未来はあるだろうか。
そこで考えることを止めてしまっていいのだろうか。
考えるべきこと、そして出来ることは「これからどうなりたいか」のはずだ。
◆
◆
◆自分に自信がない
先に行っておくが、実力以上の自信はただの狂気だ。
自分の考えが正しいかどうかわからないし、それ故に口にすることも少ない。
だが実際には自分と同じ考えを他人が口にし、それがそこそこ良い答えや評価だったのを傍観者として見ている、そんな経験もあるのではないか?
このような人は大抵の場合、人並みかそれ以上に答えを出す実力はある。
それなのに自信がない。自信だけがない。
大きな要素として2つ挙げられる。
1.自己主張を「したくない」
他人と意見をぶつけ合うということをしたくない。
相手を説得する自信がない。
2に繋がるが、説得した結果の責任を持ちたくない。
2.責任を取らされたくない
自分の意見が原因で何らかの決定が下されるというのが怖い。
そして、自分の意見が間違っていた場合、「すべての責任」を背負わされると思いこんでいる。
こういった人間がいる場合、ある意味トラウマのようになってこんな性格になることがある。
一部の人格障害、精神障害は周囲の人間に『感染』する。
全く同じになるとも限らず、上記のようにトラウマとなって別の形の強迫観念や苦手意識になることもある。
また、自信だけがない人は正反対の人間、つまり「自信だけが有る人間(要するにアクティブなバカ)」と絶望的に相性が悪い。
大抵日常的に言いくるめられているか、利用しようと粘着されているか、実際に引きずり回されている。
実力的には上下関係が逆だとしてもだ。
◆「他人に合わせる」傾向が強い(強すぎる)
残念ながら人間は群れの生き物であり、群れてないと(周りと同じじゃないと)不安を感じるのは本能レベルだ。
多少は周りに合わせて意見を出すか引っ込めるか決めたり、軌道修正したりは誰だってしている。
本人たちに自覚があるかどうかは知らんが。
だが、この「周りに合わせる」ということに一生懸命になりすぎている人がいる。
それこそ「必死」と表現できるレベルで。
自己認識として「自分がない」と考えている人はこういった傾向が強い。
・後天的に「周りに合わせすぎる人」になることが有る。
例えば疑い深いパワハラ上司に四六時中粘着されるとかだと高確率でこういった人間、というかこういった状態になる。
要するに、「心からの賛同」を「強制され続ける」とこうなる。
その上で自己評価が低い(自信がない)と、誰も彼もが自分に「危害を加えかねない人間」に見えて、誰に対しても「心からの賛同をしなければならない」となる。
◆絶対的な「答え」があると思っている
やることは既にある答えを探すか、他人に聞くかになるからだ。
重症だとコピペや丸暗記で「覚えた」「身につけた」「理解した」と考える。
そもそも「課題」自体に コピペや丸暗記で解決するくらいにお膳立てされた物を求める。
別記事(考えない人)でも書いたが、自力で解決する前に片っ端から「先回り」をして答えを与える、または答えの「後出し」をしてその者の答えを「不正解」に仕立て上げ、片っ端から自尊心をへし折るとこうなる。
つまり「自分には答えを出す力はない」という認識に落ち着くか、「答えは他人が決めるものだから、そいつの言うとおりにしてりゃいい」という認識かだ。
まぁ、困ったり考えたりする前に「答え」を口の中にねじ込まれるようなことをされ続けたらそうなるだろう。
やられる側は「そいつがまずどう動くか」を警戒して非活動的になる。
何かしようと思った時、人目を気にするクセがないか?
・所謂「初心者」の状態だと一時的にこういった傾向が強まる。
右も左も分からないならとりあえずは情報を集めよう、周りに合わせようとするのは自然なことだ。
問題は、いつまでもこの状態に留まる者。
いつまでも自信が持てないのか、それとも自主性が皆無なのかはそれぞれだろう。
・本人だけが悪い、とも言えまい。
大抵は前述の通り考える機会を潰されまくったか、「自分で考えることが出来る」という認識をボコボコにされたかだ。
だが、自覚の有る無しは分からないが、今現在本人自身が間違いなくそんな自分に苦労している。
これらの「犯人」を責めた所で、そいつらにはあなたを何とかする力なんて無い。
結局のところ、自分で自分の面倒を見て、自分で自分を育てていくしか無い。
◆
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◆自分の気持ちがわからない・自分が何をしたいのかわからない
・前述の通り、周りの目を気にしすぎる人は自分が何をしたいのかわからなくなってくる。
「人の目」は無数にあり、その全てに対応しようとするならば明らかに意識のリソースが足りないからだ。
自分の気持ちがわからない、本当は怒っていたり、泣きたいのに自分でそれがわからない、そんな人もいる。
・また、特に親が代表格だが「先回り」をする傾向が強い者がそばにいる場合、こうなりやすい。
何かを疑問に思う前に答えを出される。
何かを欲しいと思う前に貰う。
何かに迷う前に道を決められる。
愛情なのか何なのかはそれぞれだろうが、こういうことが続くと何も思わなくなる。
思考回路は脳、つまりは肉体に依存したものであり、鍛えることもできれば鈍ることもある。
自分が何をしたいのか、自分が何を欲しいのか、それがなぜなのか。
こういった事を「考えたこともない」ならば、「自分」というものは育たない。
まぁ、手遅れということもないだろう。
自分がない、と悩めるのも自分がある証拠だ。
手遅れだったらそんな自分を疑いもしない。
・自分が何を感じたのか、嫌悪なのか、怒りなのか、悲しみなのか、呆れたのか、そういったことを探ることから初めて見るのもいいんじゃないだろうか。
こういうこと言うと「本気で何も感じない」とか言う人もいるんだが、隣で見ている分には結構、喜怒哀楽はあったりする。
要するに、大抵は「感じない(知覚してない)」だけで「ないわけじゃない」。
一応こうなる「病気」みたいなものもある。症状や由来は参考になるだろう。
参照:内部リンク:
→
自分の気持ちがわからない原因や要素
・タロットカードを知っているだろうか。
ウェイト版では8、マルセイユ版では11番目のカードは「力(Strength)」のカードなんだが、図柄にはバリエーションがある。
先に言っておくとタロットカードは歴史が古すぎて伝統的な構図はあるが、それを破棄したバリエーションも多い。
昔見た図柄は「ヘラクレスがネメアの獅子を締め上げている」ものだった。
まぁマッチョなおっさんがライオン締め上げてる構図をイメージして欲しい。
「感情管理」とはこういう構図だ。自分で「自分の気持ち」を締め上げて操作・管理している。
ついでにいうとタロットの意味的にもこのライオンは自分自身の「本能」の部分だ。
アレキシサイミアまで行っちゃうと「噛まれてるけど痛くない」みたいなものだろう。怪我はしっかりする。「感じないだけ」だから。
で、本来の「力」のカードの伝統的な構図は、「女性がライオンを手懐けている」構図。
先程の「力」はネメアの獅子を締め上げるヘラクレスが「力」だった。
だがこちらではライオンが女性の支配下にあり、女性の「力」となっているといえる。
「感情」に対してもこういった態度が望ましいのだろう。
「感じちゃいけない」と思うのはライオンの存在否定だ。
そうではなくて、感じたことは認め、「その上でどうするか」をコントロールすることが。
◆「自分の考えを持つ」と言う言葉の落とし穴
・まぁ結局のところ、この問題の本当のゴールは「自分の考えを持つ」ことではない。「自分で考える」ことだ。
この2つは一見同じだが、前者には少々誤解の余地が在る。
特に言語化能力が高い場合には、自分で口にする言葉に振り回される可能性がある。
思春期で多く見かけるが「自分の考えを持つ」ことに拘っていると、オリジナリティや個性に執着するようになる。
良いことだって? まさか。
・オリジナリティに拘った結果、人の真似をしたくなくなる。
エスカレートして「人と同じなのは嫌だ」、となる。
これは 人がやっている → じゃあ自分はやらない だ。この時点でただの反抗期と変わらない。
・そして「多くの人間がやること」というのは、ミーム(情報を遺伝子にたとえたもの)の生存戦略的に見れば「生き残った優秀な情報、価値観」である。
最適解じゃないかもしれないが、あなたが今いる環境下においては最適解に近い。
勝算もなくわざわざ切り捨てる意味が全く無い。
大多数の人間がどう動くかで物事の正否が後から変わる。
勝算もなくその流れからわざわざ外れることはデメリットしか無いだろう。
逆に勝算があるのなら構わないのだが。
・「人がやっているから嫌だ」なんて言ういい加減な理由でわざわざマイノリティ(少数派)になる理由は全く無い。
マイノリティ側からも歓迎されない。
本当にそれが良いとしたり、好きである結果マイノリティになった彼らから見たら「偽物」に過ぎないのだから。
特にネットでは「にわか」の「知ったか」なんてサンドバッグである。ガン無視かもしれない。
・特に、「自分の考えがない」と自ら感じている人間は本質的に謙虚過ぎる傾向がある。
自信喪失状態と言ってもいい。
大抵こういう時は、なんか解決法っぽい物を見つけると「やり過ぎる」傾向にある。
何か見つける度に「これで人生が変わる!」的な興奮をしているようならちょっと落ち着こう。
・一部ではスローガンのように言われる「自分の考えを持つ」と言う言葉にはこのようなリスクを自ら背負う行動選択をする可能性がある。
要するに、ただ単に「変なやつ」になるだけで「芯」がない。
違うだろう。
あなたが欲しい「自分」は。
むしろ「芯」こそが欲しいものなんじゃないのか?
◆
◆
◆「Cogito ergo sum」
だからこそ、掲げるなら「自分で考える」という言葉を勧める。
この場合は「自分の考えを持つ」という結果が目標なのではなくて、考えるという行為自体が目的になる。
だから直ぐにできるし、自分で出した答えはあなたの精神の血肉となるだろう(尤も、その答えの刷新や取捨選択も後々必要になってくるが)。
出した答えが他人と同じでも全く構わない。
それが間違いだったとしても、必ず次の思考の材料となる。
これは経験しなきゃわからないことだが、自分で決断して自分でやったことに対しては、失敗しても自分で自分を許せるものだ。
後悔するのはほとんどが、流されたか、迂闊だったか、「決めさせられた」かだ。
で、今あなたの頭の中にある懸念も大体分かる。
「失敗したら周りが許してくれない」
「何か意見を言ったら、それにずっと責任を持たないといけない」
こんな感じだろう。
薄々気付いているかもしれないが、自分で考えられない、自分の意見を言えないというのは、今まで積み重ねてきた「コミュニケーション」の成れの果てだったり、それに対しての苦手意識だったりする。
つまりは相手がいてこそ発生する部分が大きい。それが「頭の中の誰か」だった場合には一人でいても自分の意見は見えないかもしれない。
「自分の意見」に対して必要以上に緊張を感じる人は、自分で出した答えが「一生変更してはならない誓いや宣言のようなもの」みたいな認識をしているように見える。
だから意見をハッキリ言うことを避ける。責任が重いからだ。
本来、判断材料が増えれば結論が変わって当たり前だ。
ぶっちゃけ、どこまで言っても仮決定だ。確信を持てるのを待ってる暇はないことのほうが多い。
確かにあなたの失敗をいつまでも許さない者がいる。
「あの時こう言ったよね? 言ったよね?」といつまでもそれを続けることを強制する者がいる。
実際にそういった人間たちを見てトラウマになっている人も多いだろう。
これらの「嫌な奴」、まぁ当人の主観的に見たら「敵」は確実に存在するし、明確に悪意を持って(大抵被害者ぶる)それを行うものもいる。
他人を冤罪で罰したり、自分ルールを強制することに対して快感を得る者すらいる。
なんというか、そういった粘着気質のストーカーや変態になる「種」そのものは人間誰しもが持っているのだが。。
普通は自分の中のそういった物に嫌悪感を感じて自制する。
とりあえず言えることは、ここまで色々とおかしい連中は少数派だということだ。
大抵ラウドマイノリティ(声が大きな少数派)だから多数派に見えるかもしれないが。
多くの者はあなたと同じように、こういった奴らにうんざりしている。
周囲の人間の殆どは、少なくとも「加害者予備軍」ではない。味方でもないかも知れんが。
要するに、あなたが自分を取り戻したとして、そのせいで周りの全ての人間が敵に回る、ということはないよ。
ああ、よほど偉そうに断言したんだったら、意見を変えれば嫌味を言われても自業自得だとは言っておく。
傲慢なのは有害だ。あなたが元から持っている謙虚さは大切にした方がいいだろう。
とりあえず無難な言い方として「自分はこう思う」と前置きし、ちょっと何か言ってみる所から始めればいいんじゃないか。
それでも不安なら「今のところは自分はこう思う」と言えばいい。
暫定なら何も問題ないだろう? それでもケチを付けてきたら相手の頭がおかしいと決めつけていい。
◆車輪の再発明
「自分で出した答えなら、結果が他人と同じでもかまわない」ということについて補足しておく。
英語の慣用句に reinventing the wheel(車輪の再発明)という言葉がある。
現存している「車輪」の存在を知らずに(或いは無視して)わざわざゼロから考えて発明すること。
言葉の使われ方としては既存の物に対しての無知や誤解により、全く無駄な努力をする、みたいな感じなのだが。
特に「完璧な答え」を欲しがる者にとっては絶対にやりたくないことだろう。
だが、ちょっと考えてみて欲しい。
「車輪の再発明」をした人間は、この世で一番車輪のことを理解している。
車輪を知っていて使える「だけ」の人間と、車輪を「発明できる」人間。
同列に並べて扱うのもおかしな話だろう。
つまり車輪の再発明とは「物事の理解」のプロセスそのものだ。
改悪バージョンとして「四角い車輪の再発明」なんて言葉もある。
発明したはいいけれど、現行品より劣化しているという話。
これだって「輪にする」と言うところ以外は自力でできた分、知っているだけの人間より優れていると思うね。
要するに自分で考える時、ベストを尽くしたのなら結果にはそれほど拘らなくていい。
目的は「芯」を作ること(或いは取り戻すこと)、つまりは「自分で考えること」だ。
・車輪の再発明という言葉はシステムエンジニアやプログラマの間で使われることがあるらしい。
既存の便利なシステムやツールを知らなくても1から作れてしまう彼らの業界では、特に車輪の再発明は発生しやすいようだ。
既存の物がクライアントの意向で使用できない場合など、再発明をしざるを得ないケースもあるそうな。
ここが重要なのだが、理解を深めるため・技術の向上のために、意図的に車輪の再発明をする場合もあるらしい。
要するに、車輪の再発明は 理解/修練 のプロセスとして既に採用されている実績がある。
◆
◆
◆自分の意見・考えを持つための方法
気づきとインプット
・自分の考え、意見を持つため、つまりは「思考」するためには、状況把握や今までの経験といった「材料」が必要になる。
・状況把握は、「空気を読む」ことも含める。空気次第で意見を変える、と言うよりは言い方を変えたり、口にするのをやめておくかどうかの判断に使う。
これをやらずに自分の意見を持とうとすると、周りから見たら「言っちゃいけないことを必ず言う奴」になるだろう。
・インプット、普段からの情報の取り入れを怠っていると「何もわからない」状態になりやすい。
想定できる事態なら予め前例を検索する程度には予習しておいたほうがいいだろう。
・大抵の場合、こういったものは本来は直感レベルの閃きだ。後から理屈や証拠をべったらべったらくっつけて「意見」とする。
思考にしたってベクトルは状況把握をした瞬間に既に頭のなかにあるものだろう。
だから「自分の意見がある」というよりは「我が強い」と言ったほうが正確だ。
度が過ぎるのも良くない点。
何にせよ、自分の頭の中に閃いたことに気づけるくらいには自分の精神活動に関心を持とう。
何も閃かなかったというのなら、フラットに状況判断し、最適解を考え、口にすればいい。
別に「ここまで考えたけど後わからん」でもいいだろう。別に責任者でもなんでもないはずだ。
それが「怖い」というのなら、やっぱり責任を押し付けてあなたに何とかさせようとする奴が近くにいるのだろう。
あるいはバカにしたりしそうな奴か。まぁ、そいつらがいない時にだけ喋るのも手ではある。
自分の好き嫌いを考える
・自分を作る、育てるまでもなくある程度はとっくに「出来ている」可能性も十分にある。
・個性が別れるところと言えばやはり好き嫌いだろう。
世の中カレーにジャガイモが入っているのが絶対に許せないやつも居れば、納豆スパゲティを食うやつもいる。
いくら「自分がない」と悩んだ所で、全く好き嫌いがない人間もいないだろう。
まぁ、食べ物に限らずとも人や物、色でも本でもなんでもいい。
自分の好き嫌いを考えてみよう。
そしてそれが「なぜ好きなのか/嫌いなのか」を考えてみると、一種の「法則」が見つかる。
これがあなたがとっくに持っていた「芯」だ。
「何が好きなのか」ではなく、「どうして好きなのか」を考えること。何が好きなのかはぶっちゃけどうでもいい。
こういった、自分を作っていくのとは別に「自分を掘り下げていく」ことも十分に可能だし、やる価値が有るほどには人間の無意識は広大なものだ。
自分の考えを持っちゃいけないとか思わないこと
ハッキリ言ってしまえば、一部は対人恐怖症の気配がする。
積極的に付和雷同を心がけるというか、「状況や派閥がまず先にあり、自分は正解/勝つ側を選ばなくてはならない。選ぶからには心からの賛成でなければならない」とか思ってないだろうか。
まぁそれが正解な場面も多いのだが。
だが頭のなかで「こいつら馬鹿だなー」と思いながら意見を合わせるのと、上述の様な強迫観念とでは全く違う。
後者は頭の中までの不自由を自ら強いている。これでは出てくる閃きもそのうち出てこなくなるだろう。
「バレる」のが怖いだろうか。確かに危険性はあるかもしれないが、多分必死過ぎて逆に怪しいぐらいになっていると思う。
まぁ過去あるいは現在、身近にバレたら何してくるかわからないような奴がいるのかもしれないが、せめても一人の時にボロクソに陰口言うくらいはしておかないと心のバランスが取れないだろう。
◆まとめ
・「分からない」「知らない」「考えてない」限り、最終的に他人の言いなりになるか、誰かの真似をして凌ぐしかない。
これは現実だ。
決断を迫るような場面、意見を迫られる場面は向こうからやってくる。
・だが「何も考えられない」と言うのはまずありえない。
人間の(自動、受動的なものを含む)思考は一日に2万回とも6万回とも言われている。
仮に思考が他人より幾らか少ない程度で「何も考えられない」と言う状態にはならない。
問題は「自分で考える」という習慣が何らかの理由で退化、或いは未発達な状態であることと、何よりも「自分で決めるのが怖い」という点である。
それらの原因については……もういいだろう。散々言った。
何れにせよするべきことは、答えがどうなるにせよ「自分でも考えてみる」ことと、少しずつでいいからその「自分で出した答え」を発信していくこと。
これらを繰り返し、「実績」を積むことで「自分の意見」と言う概念に対する苦手意識は消えるだろう。
・大人しく、自己主張しないと言うのは、人間社会という畜生道においてある意味「答え」でもある。
あなたは今の自分が嫌いかもしれないが、今のあなたには並の人間よりも発達した部分があるということは忘れないほうがいい。
それら全てを投げ捨ててはいけない。
まぁ話を色々並べたから、もしかしたら何かにやる気が出てきたかもしれないが、くれぐれも張り切りすぎてやらかさないように。
過ぎたるは及ばざるが如し。あなたはその実例を色々と「体験」しているはずだ。
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