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ダブルバインド(二重拘束)について

ダブルバインド(二重拘束)について

 
 
最終更新:2018/06/04
 
当人の主観や日常では、
1:「この世は嘘つきが多い」「誰も本音で語らない」
2:「言われたとおりにしてるのに怒られる」「空気が読めないと言われる」
3:「人に話しかけられるとイライラする」「緊張するから話しかけられたくない」
の3つのうちどれかかもしれない。
 
・両立できない命令をされた際の、ストレスを感じる状態。
例:質問したら「そのくらい自分で考えろ」 → 自分で考えて意見を述べてみたら「出しゃばるな」
 
・このような「どちらも正解じゃない状態」で耐え続けることによる緊張やストレス。この状態が常となり、無関係な場所でも消極的な態度、緊張状態などになる。
 
・重症化すると「言葉」そのものに対して不信感を抱くようになる。
 
・親子や上司と部下と言った、いくらかの「パワーバランスがはっきりしている人間関係」で多く見られる。
 
・当人の意志がどちらでもなくても「どちらかを選ばせる」効果がある。このため恋愛テクニック、ビジネススキルとして紹介されている場合もある。
 
ただこの場合は「選択の提示の仕方」としてのダブルバインドの応用であり、矛盾した命令に拠るストレス状態とは意味が違ってくる。尤も、仕掛けられた側は「勝手に話を進められた」くらいは感じるかもしれないが。





§ダブルバインドとは

 
・「二重拘束」と訳される。その名の通り、「○○をやれ」「やるな」といった矛盾した2つの命令を押し付けられている状態。この状態になるとストレスを感じたり、どうして良いか判らず思考停止になったりする。
 
・よくあるのが、
何かやらかして「説明しろ」
→ 説明する 
→「言い訳するな!」
の理不尽コンボとか。説明を言い訳とされるので、「説明しろ」と「言い訳するな」が両立できない。
 
これを簡単に言えば命令A「話せ」と命令B「黙れ」の矛盾した2つの命令を同時に押し付けているということ。で、黙ったら「話せ」にループする。
 
普通に考えれば「どっちだよ」と突っ込めば済む話なのだが、2つ目の命令は後述の理由で「隠れている」場合が多い。加えて命令に従う強制力が成り立つ関係の場合には「何かしなければならないが、どうしたら良いかわからない」となる。
 
・後は親が子に、
「怒らないから正直に言いなさい」 
→ バカ正直に白状する 
→ 超怒られる 
だとか。この場合でも「しゃべらないほうが良かった」後悔と「正直に言え」という命令とで次回からはダブルバインドの状態となる。
 
・或いはDV、パワハラやモラハラ加害者。加害行為を加えた上で「これはお前のため」。これは後述する「言葉を信じられなくなる」には十分だろう。また、自己評価の低さなどにもつながる。人間は基本、コミュニケーションに失敗し続けると自信を失う。
 
1956年にグレゴリー・ベイトソンによって発表された説。家族内コミュニケーションがダブルバインド・パターンであると、その状況におかれた人が統合失調症に似た症状を示すようになる、と指摘する説。
 
・統合失調症の原因も判明しているわけではない。あくまでも「似たような症状になる」としたほうがいい。現状ダブルバインドとの因果関係は証明されていないが、ダブルバインドの状況では強いストレスを感じることもまた確認されている。
 

◆ダブルバインドの条件

・ベイトソンの定義に拠ると、ダブルバインドの発生条件は6つある。主に家族・親子関係を想像して読むと理解が早いだろう。
 
1:二人以上の人間(そのうちの一人は『犠牲者』と呼ばれる)
 
2:習慣的に繰り返される
 
3:命令。◯◯するな、◯◯しろ、じゃないと罰を与えるぞ、と。「禁止命令」と呼ばれる。
 
4:3と矛盾する「抽象的なレベルでの」「両立できない」さらなる禁止命令。非言語的なメタメッセージ。
 
5:「この選択から逃げてはならない」とする第三の禁止命令。
 
6:犠牲者が、この状況を「世界観」として認識した場合、ダブルバインドの症状が出るために1~5が全てそろう必要は無くなる。
 
 
・4は殆どの場合「言語化するのが難しい」とされる。メタメッセージでもあるが、後述するダブルテイクも参照されたし。 
 
4が条件とされたのは、ベイトソンが「統合失調症の原因として」考えた背景が大きいだろう。矛盾した命令がメタメッセージでない限り(つまり矛盾がはっきりと認識されるのなら)統合失調症にまではならない、という考えからだと言われている。
 
ただ、現状では統合失調症との関連性は決め手にかけている。個人的には分けて考えたほうが良いものと思っている。
 
1~5の経験を通し、6を持って「完成」した場合、世の中はこうだ、人とのやり取りはいつもこうだ、自分はいつもこうなる、とする世界観となるだろう。これは「認知の歪み」や「人生脚本」にかなり近い。
 
・ベイトソンの仮説では、この6つの条件を満たした場合に「いかなる人間であれ」、言葉に対しての判断能力に支障をきたす、とされている。
 
・「ストレスを与える命令」という観点からは、必ずしもその命令そのものにメタメッセージがある必要もない。例えば「アレを盗んでこい」と命じられるのは社会的ルールや法律と矛盾する時点でダブルバインドと言える。この場合でも命令の「レベル」は違うわけだが。要は無茶振りするだけで条件は満たす場合がある。
 
・命令や脅迫といったなんらかの強制力のある形を取る(少なくとも受け手にはそう捉えられる形)ので、親子関係、上司と部下などでよくある。その他でも何らかの力関係の上下がある所で発生しやすい。
 
例えば「仲良しグループ」にしたって「中心人物」がいるものだ。彼/彼女の発言力は、他のメンバーと同じではない。この時点で1,2、3の条件は緩やかだが満たしている。「真意が他にありそうな」場合、4を満たす。そしてハブられることを極度に恐れるなら、5を自らに課すだろう。繰り返せば6となる。
 
条件だけ見ればパワハラや精神的DVでもない限りは成立しそうもないのだが、その実普通の日常的やり取りの中でも「どこでもありえる」ということ。悪意云々とは無関係に立場的に有利な者が気づかぬうちに相手を苦しめていた、という形になりやすい。
 

◆3つの症状:ダブルバインド

・ダブルバインド、つまり矛盾した命令に従わなければならない状況に長く曝されて発症する症状は以下。
言葉に表されていない意味にばかり偏執する(妄想型)
 
言葉の文字通りの意味にしか反応しなくなる(破瓜型:はかがた)
 
コミュニケーションそのものから逃避する(緊張型)
 
・妄想型は「言葉を信じない」。
・破瓜型は「言葉しか信じない」。
・緊張型は「言葉を避ける」。
 
どれも極端だ。被害者の中では「人とは/コミュニケーションとはそういうものであり、だから自分はこうするべきだ」との結論が出てしまっているのだろう。
 
・妄想、破瓜、緊張型は「統合失調症の分類」としての知名度のほうが高い。むしろダブルバインドでのこの呼称が、統合失調症の分類から拝借したものだと思う。意味も似てはいるが違ってくることに注意。
 
妄想型:言葉通り妄想・幻覚の症状
 
破瓜型:思春期・青年期に多い。慢性的に感情・意志の鈍麻。アメリカ精神医学会では「解体型」と呼ぶ。
 
緊張型:興奮、混迷、筋肉の硬直。突然叫んだり、奇妙な姿勢で硬直したりする。
 
過剰な想像、形だけの対応、全く関係ない行為による現実との断絶、と考えれば、ダブルバインドの方がエスカレートすれば「繋がる」と考えられてもおかしくはないか。
 
・破瓜との呼称についてだが、この言葉は本来「女子16歳」を指す言葉。転じて統合失調症ではその年頃(思春期から二十歳頃)に多い症状として「破瓜型」と呼ばれる。更にダブルバインドが統合失調症と関連付けて考えられたためそのまま使われているのだろう。近代で使われている意味とは一切関係ございません。
  
(ちょっと脱線して警告しておくが、この手の心理的な状態/症状を調べる際に心得ておいてもらいたいことがある。「バーナム効果」と言って、誰にでも当てはまっていることを「自分だけに当てはまっている」と感じるバイアスが人にはある。
 
この手の話は過剰に気にしやすい。「気にしないで済むならそれに越したことではない」というのを忘れないほうが良いだろう。それが精神衛生上最も良い。)
 
・興味深いのが、元から人間はこの3つをメタメッセージが判別できない際の緊急手段として「日常的に行う」とされている点だ。失敗などからの自己防衛として。
 
つまり、
妄想型は本来は「裏の意味を優先する」判断
破瓜型は本来は「表の意味を優先する」判断
緊張型は本来は「判らないから避ける」判断
であると言える。本来は。
 
おそらくダブルバインドの条件を読んだ際、3~5の「矛盾した命令」に目が行っただろうが、重症化させる原因となるのはダブルバインドの2つ目の条件、「習慣的に繰り返される」だろう。
 
これによって「『言葉』に対してはこう判断する」という、いわば脳のクセのようなものが出来上がる。つまるところ、「全て」を妄想型、破瓜型、緊張型で判断する、と。
 




・これは根本的な「人間」に対しての不信感だ。他人のアクションに対して嘘だ、裏の意味がある、何か目的があるはずだ、と。そして「自分にはそれはわからない」と。或いは人がいるというだけで「何か理不尽な目に合わされるかもしれない」という警戒・恐怖感。「人間とはそういうものだ」と。
 
そして残念なことにその通りの場合も結構ある。良い人に思われたいから人にやさしい言葉をかける、何か下心があって近づくなど。
 
・その上でも「人の全てはこうである」とまでになってしまうと不都合がある。その人間観はあながち間違っちゃいないが、すべてではない。
何かしら表現して発表してみればきっと分かる時が来ると思うが、「自分と同じように感じ、考えている者」は必ず見つかるだろう。完全一致とはいかないが、共感し合える程度の距離には「人間」はいる。
 
・「何をやっても否定する」ことを繰り返せば相手を「指示待ち人間」にできる。相手の自主性を破壊する。何をやっても間違いで、答えは「相手」が持っているという環境を継続するのだから。
 
モラハラやパワハラの加害者、或いは自称教育熱心な親がやりがちな手だ。
 
以前見かけた話なんだが、ある母親が子供にネットで勉強の調べ物をするよう指示し、そして途中で辞めさせた。なぜか? 
 
「子供が楽しそうだったから、『勉強』じゃないと思った」だそうだ。全く下らない。指示を出す奴の考えがまともだなんて保証はない。理不尽を感じたら悩むのではなく、「馬鹿をあやすような対応」のほうが正しいのだろう。実際、機能不全家族の一つに「子供が親のケアをすることがある」なんてのもある。
 
・パワハラモラハラに至っては、ダブルバインドは「手口」そのものでもある。混乱させ、答えを決める自分に従順になるよう促し、「自分の付属物」とする。まぁ狙ってやってるのではないだろうが、彼らの言動は結果的には、洗練された心理学的攻撃になってたりすることが多い。
 
こういった「手口」は親から子へと受け継がれやすい。「言うことを聞かせる方法」として。実際に自分が「言うことを聞かされた」のだから。効果は実証済みってね。
 
・一見「その場で」「矛盾した命令」がなければ発生しないように見えるが、そんなこともない。片方は自分の世界観として既に設定されていることのほうが多い。
 
元からの自分の倫理観や世界観と、それと相容れない命令を親や上司から出された場合。
例えば比較的良心的な人間が営業として就職。昼間年寄りしかいない時間を狙って民家を訪問し、ゴミを無理やり売りつけることを会社から指示されたら。まぁ最近は貴金属を強引に買い取るとかが多いらしいが。
 
この場合は「行動」としては会社の指示を優先するだろう。だが、内部的な葛藤は? 自分の「やってはいけないようなこと」に抵触しているようなことを行い続けることは、精神に良いとは言えないだろう。
 
これは厳密にはダブルバインドとは言わないのだろうが、心理的なストレスが「矛盾」から発生するという点で同じだ。単純に命令の片方側が「自分」というだけの違い。
また、「両方が」自分が発した命令の場合もある。或いは過去の「誰かの意見」のエコー。このページはこれらを同列として扱う。強迫的という点では同じだからだ。
 

§ダブルバインドの原因

・6つの条件の6つ目、それが「世界観」となった時、ダブルバインドの症状は被害者の「性格的特徴」になる。少なくとも他者からは「そういう奴」だと思われるに十分な言動となるだろう。
 
・つまり「似たようなやり取り、似たような結果」を繰り返すと重症化する。このため定期的に顔を合わせるような関係で発生しやすい。
 

◆メタメッセージ

・「メタメッセージが異なる水準で」の部分の補足。メタメッセージは「二次的なメッセージ」。意味は広く、その言葉以外の要素と思っていいだろう。交流分析で言えば裏面交流
 
例えばあなたが誰かにプレゼントをしたとして、すっげぇ嫌そうな顔で「ありがとう、こういうの好きなんだよ」と言われた場合、「ありがとう」という言葉=表のメッセージ、嫌そうな顔=裏のメッセージ、となる。
 
人間は言葉以外、特に表情の方を「本当だ」と思う傾向がある。上記の状況もどう考えてもプレゼント選びに失敗しているようにしか思えないだろう。
 
異なる水準で、というのもこの場合の「言葉」と「表情」の違うレベル水準のメッセージということ。並行して同時に受け取っているのに、それが矛盾している。両立は有り得ないということはつまり「どちらかが嘘」、「どちらかを本当として採用しなければならない」。
 
まぁここまではよくあるだろう。ここでは「言葉の意味以外のものでもメッセージとして扱われる」ことを把握してくれればいい。つまりは態度、表情、仕草、語気、言い方、タイミングなどなど。
 
・この点は察しが良いタイプ、顔色が読めるタイプ、或いは人の顔色を伺う癖があるタイプにはダブルバインドが発生しやすいといえる。表情を読む、空気を読むと言っても、結局は連想・想像の域を出ない。厳しい言い方をすれば想像に過ぎない。つまり過剰ならそれはもう、妄想型と一致する。
 
尤も、証拠がないからとメタメッセージで攻撃性を発揮しまくる連中もいるのだが。こういった者たちの存在もダブルバインドが悪化する一つの要素だろう。
 
・メタメッセージそのものは別に原因ではない。
むしろメタメッセージを禁止される(言われたとおりにできなきゃいけない/誤解の余地無く全て明確に説明しなくてはならない)ことや、メタメッセージによるコミュニケーションの不足などから、予測したメタメッセージの成否確認ができず「想像するしかない」場面が続くことで悪化する。(このため、うざいくらいに細かい奴とも距離を取ったほうがいいだろう)
 
加えて答えは相手によってそれぞれ違う。だから「真意を確認できない/し辛い相手」、教師、親、上司などが「加害者」になりやすい。強権的なら尚更だ。
 
・重要なのは、「一つの命令しかしていないのにダブルバインドになる」点。これは後述するダブルテイク、トリプルテイク(言語に複数の解釈の余地があること)に由来する。
 




 

◆日常的なダブルバインド

 
誤解を承知でわかりやすく喩えると、親が子供に「おいで」と(言語的に)言っておきながら、いざ子供が近寄ってくると逆にどんと突き飛ばしてしまう(非言語的であり、最初の命令とは階層が異なるため、矛盾をそれと気がつきにくい)。
 
呼ばれてそれを無視すると怒られ、近寄っていっても拒絶される。子は次第にその矛盾から逃げられなくなり疑心暗鬼となり、家庭外に出てもそのような世界であると認識し別の他人に対しても同じように接してしまうようになる。
 
 
・どうも脳からいくつかの異なる水準で同時に動いているらしい。意識と無意識とかね。この場合、ロジカルな水準では「『来い』と言われたから行かなくてはならない」となる。
その水面下では実際それで突き飛ばされた=裏切られた経験があり「嫌な目に遭うからもう行きたくない」となるだろう。
つまり「矛盾した命令」を受けた結果、「矛盾した意思」が被害者の内部に生まれる、というか意志分裂する。この段階ではどちらか選べば済む話だ。もう一度信じてみるか、もう信じないか。
だがこの上で状況から逃げることは許されないとしたら、それは多大なストレスになる。信じるフリをしながら、その心の裡は。
 
・虐待と言えなくもないが、こういったことは頻繁だ。親子関係に限らず、上下関係でも友人関係でも「からかい」と言ったニュアンスで扱われるコミュニケーション。
 
・こういったコミュニケーションに「加害者側」が中毒になりやすい。簡単にストロークを得、自分が相手に影響を与える「力」があると確認でき、これらを得ることができる「確実性」が、他と比べて高いからだ。まぁ日本語でこれを「いじめ」って言うんだが。
 
ダブルバインドの被害者を「いじめ被害者」に、ダブルバインドの各症状を「いじめのせいで人間不信」と置き換えると、そのまま通るんだよね。
 
・話を戻すが、「からかい」だとか「ちょっとした悪戯心」の果てにこういった結末がありえることは、忘れないほうがいいだろう。或いは自覚がないほどに「自然に」やらかす可能性は十分にある、というかやってない人間がいないくらいにありえる。この手法は厄介なことに「コミュニケーション」として生存権を得ている。
 

◆社会的なダブルバインド

・直接的な「わかりやすい命令」とも限らない。それは立場や状況に対しての「義務」や「責任」、或いは「今こうしておかないと酷い目に遭うだろう」という「予測」の形を取るかもしれない。
 
例えばサービス業の場合はキチガイ相手にも丁寧にしなくてはならない(とする風潮がある。私は叩き出して良い思うが)。この際に罵詈雑言を放つキチガイそのものには別に我慢してやる価値はないが、立場としては我慢しなければならないと当人が思っている場合、矛盾する。
この上で仕事中だからね。逃げるわけにもいかんし。はっきり言うが、それがわかってやってるキチガイは多いよ。
 
・或いは社会規模で。
「不景気で収入が減った」という状態で、「カネを使わないと景気がさらに悪くなるぞ」という意見を見たとする。
この場合も「無駄遣いはしたくない」のと「カネを使わないと景気がさらに悪くなる」のダブルバインドになる。まぁ簡単に言えば板挟み。
 

◆正解を選ばなくてはならないという圧力

・日本では察する美学だとか、空気読むだとか、気を利かせることが持ち上げられている背景がある。裏を返せばメタメッセージを読むこと前提になっている。「しくじった」ら過剰な叱責を受ける機会も多いのかもしれない。海外の事情は知らんが。この国に生まれ育ったというただそれだけで、空気を読まねばならない、気を利かせなければならないといった強迫観念はあるだろう。相手にその価値がなくても。
 
・だがイカれたクレーマーとかモラハラ加害者を見りゃ分かるが、「ゴネれば構ってもらえる」と学習し実践する彼らへの対応は最初から「答えがない」。彼らの主張は「自分が満足するようにしろ」といった形だが、「何をやっても気に入らない」。
 
目的は相手が自分のために右往左往していることを確認することであり、満足したらその「至福の時間」が終わってしまうからだ。こういった輩に対しては「察する美学」が途端に「付け込む隙」に変わる。通常の人間は自分がこの「弱点」を持っていることを自覚した方がいいだろう。
 
・根本的なことを言うが、殆どのルールやマナー、美辞麗句や道徳はこういった連中の隠れ蓑に使われている。簡単に言えば「綺麗事は悪用されやすい」。その最たるものが「被害者は弱者で同情するべき存在だ」という概念だ。だから「自称被害者」が腐るほど湧く。加害者も被害者を名乗る。ゴミに埋もれて本当の被害者が見えないことも多いし、本当の被害者に限って叩かれることもある。
 

◆自発的なダブルバインド

・ダブルバインドを他人に仕掛けられた心当たりはないが、症状に対しては自分に一致する、と言った場合に考えてもらいたいこと。
 
・例えば過去に他人に強く叱責された、或いは恥をかかされたなどで「二度とこれはやらない」と自らに禁止令を出すと言うのは普通にある。印象が強ければ強いほどその禁止令も強くなるだろう。トラウマだとか、苦手意識だとか。
 
だが基本的には相手もある程度は我慢するだろう。許容範囲があり、それを超えた時初めて叱責の対象とされるもので、それに対して「一切やらない」と禁止令を出す時点で極端な判断だ。簡単に言えば、バランスや力加減の問題が「やるかやらないか」の両極端な命令にすり替えられている事が多い。
 
ここまでならただの強迫観念だ。まぁこれはこれで相当厄介なんだが。この上で、何かを禁止されていることによって歪な言動になった場合、新たに叱責だとか、恥を掻くだとか、矛盾して動けないだとかの問題が発生する機会が生まれる。
 
例えば色々あって「他人を避けるべきだ」と思ったとする。
しばらく経って、改めて自分の状況や将来を考えて「このままじゃいけない、人に慣れなきゃいけない」と言った考えになったとする。
前者の命令が根強く残っていた場合、「気が変わった」のではなく、「両立できない2つの命令が頭の中にある」という状態になる。
 
その状態で表面上は「人嫌い」が継続するなら、これは緊張型の状態といえるだろう。一見他人を避け続ける「選択」をしているように見えるが、彼/彼女の中では現状の克服という願望もまた残っている。現状もまたストレスなのだから。
 
「選択の機会そのものを避けている」。どちらの選択肢も「ろくでもないことになる」からだ。現実はともかく、本人の世界観では。言動としてみれば人嫌いのままだろう。ただしこれは選んだ上での現状維持ではない。本人の中では保留の状態でまだ決断していないことになっている。
 
・このような、トラウマ、フラッシュバック、強迫観念などからの矛盾した複数の命令に対しての内部的な葛藤。つまりは自発的なダブルバインドの状態。
「心構え」を持つなら、その内容を精査するべきだろう。
 




 

ダブルバインドを仕掛ける側について。意図的に行った場合、確実に「悪意」だ。だがそれよりは「結果的に」そうなってしまうことのほうが多いだろう。信じないかもしれないが、大抵の「問題」は悪意よりも、無関心や無知な上でアグレッシブだったりしつこかったりする奴が原因であることのほうが多い。結果論だけどね。
 

◆無自覚にダブルバインドの加害者になる/される理由:ダブルテイク・トリプルテイク

精神科医であるミルトン・エリクソン。彼は幼少期ポリオに罹り、医者に「この子は一生歩けません」と言われた。
 
宣告通り病状は進行し、目以外の全身が麻痺して寝たきりになった。暇つぶしに家族を観察して気づいたことが、「言葉には二重、三重の解釈を許す余地がある場合がある」ことだった。これをダブルテイク、トリプルテイクと呼ぶ。
 
例:
「のどが渇いた」 
→ 「飲み物が欲しい」と解釈する余地がある。
 
「そこの窓に手が届きますか?」 
→ 「窓を開けてくれ/閉めてくれ」と解釈する余地がある。
 
Q「旅行は何処へ行きたい?」
A「どこでもいいよ」 
→ 「どうでもいい」とも「どこでも楽しめる」とも解釈できる余地がある。
 
よくある話だろう。「よくある」ってことは、日常的に我々はこれをやりまくってる。相手側の解釈に委ねられるので問題は多く起こっている。最後の例で「関心ないのか」と凹んだり怒ったりされるなんて最たるものだろう。
あとは
「何食べたい?」
→「なんでもいい」
→激怒、とか。
 
「もう一つの(言葉通りじゃない)捉え方」は、基本「命令・欲求」または「本音・意図」と捉えられることが多い。
 
また、発話者側も自分で意図がわかっていないこともかなり多い。自然と言ってみた、なんとなく聞いてみた、と。このため「言葉通りに取られたらむしろ困る」ような発言も珍しくない。
例えば空気を読めない・人の気持ちがわからない奴と言われるのは、相手がダブルテイクやトリプルテイクを用いた際に「表の意味でだけ」で解釈しているからとも言える(この状態が既に破瓜型だが)。
 
もっとも他人がどう解釈するかもそれぞれだし、自分の普段の言い方が常に通用する、と期待するのも客観的に見れば厚かましいが。
反対に「言葉通りに受け取って欲しい場面」で、意図していない解釈をされることもあるだろう。やりすぎだとか。これは妄想型に近いと言える。
 
また、「強く受け取りすぎる」こともある。「強さの解釈」が間違っているケース。その場のちょっとした注意を、その後過剰に気にし続けるだとか。「二度と言われないように」としているように見ることもできる。となるとこれは緊張型に似ている。
 
ぶっちゃけてしまえば、ダブルテイクの「解釈を許す余地」というのはそのまま、受け手次第で「誤解の余地」になる。
ダブルテイクは「日常的」である。逆を言えば「誤解の余地のない言い方」は絵に描いた餅に近い。言葉は不完全だ。意見の全てを網羅はできない。「余白」は常に存在する。
 
結果として、相手が緊張、恐怖、萎縮などの状態にある限り「悪く/オーバーに取られる」余地は非常に大きくなる。自身の立場が上にある、ただそれだけでダブルバインドの「原因」になる可能性がある、が。
逆に「他人の言葉を気にしすぎる傾向」を持っている場合、誰が相手でもダブルバインドになってもおかしくない。
 

-◆言語行為

また、言語学においては「言語行為」と呼ばれるものがある。別名発語内行為。
簡単に言ってしまえば、言葉そのものが目的を果たすための手段であること。例えば「宣言」、「約束」、そして「命令」、「脅迫」など。
要は、元から言葉は「このような使われ方」をしている。
 
加えて「間接言語行為」と呼ばれるものがある。
前述のダブルテイクの「もう一つの意味」が「目的」である場合がそれに当たる。
 
例えば人の動作に向かって「遅い」と文句を言うのは、大抵は「早くしろ」と言う意味だ。これに異論はないだろう。
だが言葉だけで見ればただの「事実の描写」だ。言葉通りに受け取るなら「対応の必要はない」。しかし現実には改善/要求を目的とした言語行為であり、加えてそれを「表立っては言っていない」ため、間接言語行為となる。
 
後はエリック・バーンの「裏面交流」もダブルテイクや間接言語行為に類似している。個人的にはこの3つ、大体は同じものとして扱っていいと思うが。
 
これらは「空気を読む能力」にだいぶ依存している。また「受話者にわかるつもりがあるかどうか」と「発話者が伝える意図を自覚しているか」も関連する。
 
つまるところ、日常的なコミュニケーションそのものが悪意一つで崩壊する脆さを持っている。悪意とまでは行かずとも、反発心、悪戯心程度で。厄介なことに主導権を握るためにこれを行う者は少なくない。「マウンティング」や交流分析の「ゲーム」はその代表だろう。
 
そういった「崩壊するコミュニケーション」に巻き込まれ続ければ、ダブルバインドの症状の妄想、破瓜、緊張型になるのは自然だろう。根本的には言語不信、人間不信だ。
 
 

§ダブルバインドの対策

・多かれ少なかれこのような矛盾は受けることになるだろう。
 
・ダブルバインドは、受話者視点では発話者の言い分が破綻していることになる。冒頭の「喋れ」+「黙れ」を同時に押し付けるとかは、ぶっちゃけ「お前何言ってんのどっちかにしろよ馬鹿じゃないの」で終わる話だ。
裏を返せば、これが「言えない/言わせない/聞けない/無視できない」立場関係では蔓延る余地がある。
  
ただ、厳密に言えばこのように誰かに何かを強制する権利を有するケースはかなり少ない。上司にしたって業務上の指示しか効力はない。「口答えするな」すら「命令」としてはその権利はない。
 
この上でダブルバインドが発生するのは、
1:加害者が自分に権利があると思いこんでいる
2:被害者が自分は従わなければならないと思いこんでいる
この2つが両立していると思われる。
 
「本当にそうなのか」は考える価値があるだろう。実際には当然ながら「その内容に拠る」とするべきなのだが、頭がチンパンジーだと「自分は偉い」「自分の立場は上だから何を言っても従うべきだ」となっている事が多い。
 
◆気にしない 
・相手にたとえ無意識だろうが悪意がある場合には。スルースキルは精神衛生を保つにおいてかなり有効になる。
 
精神的な動揺をさせようとする一心で思いついたことを口にするというのは実際にはいる。精神年齢が低く、普段から性格悪い言動が目立つから気付ける余地はあるとは思うが。
 
つまり適当に合わせて、後はレアケースとして記憶の海に簀巻にして沈めろということ。超訳「あいつだけ特別頭おかしい。普通はああじゃない」と結論付けること。その者を自分の「人間観」に組み込まないこと。
 




◆矛盾の正体を知る
・確信犯的なダブルバインドについては「後出しジャンケン」だと表現するのがわかりやすい。正解は後から捏造されるので何を選んでも間違いとされる。八百長からは降りるが吉だろう。
 
意図的な場合は一種の示威行動と言える。「他人に驚異を与えることが出きる自分」の自己確認、相手への刷り込み、周囲への宣伝。字面で見れば物騒だが、これが「ちょっとしたからかい」程度の気持ちで行われることが多い。
 
・非常に馬鹿馬鹿しく、その上で有り得る話なのだが、「命令」を受けた際の経緯や状況をちゃんと把握しているだろうか。実際にたまに見かけるが、親の言うことを守っていたのに親自身はそれを守っていなかったから親は碌でも無い嘘つきだ的な話があるだろう。
 
でもこれ、言われてからそう思うまでに数年間が開いてるケースがある。客観的に見たらねちっこい。まぁ結構誰にでもこういうことはある。だが相手からしてみれば(そして客観的に見れば)そうとう昔のことを引っ張り出して何言ってんだとかそんな感じになる。
 
・前述の親子の「おいで」と呼んで突き飛ばす例え。あそこまで露骨じゃなくても、「来るな」と扱われるのは多いはずだ。交流分析の禁止令でそのものズバリ「その場にいるな」ってのがあるし。
 
ただこれ、例えば包丁持ってる時とか火を使ってる時とかに、体当たりが趣味みたいな年頃の子供相手に言うんだったら不思議じゃないだろう。それ以外は余裕があるから「おいで」くらい言うかも知れんな。
 
この状況で、子供の主観では「来るなって言ったり来いって言ったりする」となっているのは「非常に多い」。親から見たら「さっき言ったことを根に持っている」ように見えるが、多分、時間感覚の違いによる解釈の齟齬だと思う。
 
・「命令状態が持続しているから新しい指示を与えられるとパンクする」状態には、自然となりえる。受話者側が「勝手に永続命令だと思っている」ことは多い。
 
 




 

◆治療的ダブルバインド

・ダブルバインドを有効利用しようとする考えがある。前述のミルトン・エリクソンが考案した。
 
何をやっても失敗にされるダブルバインドではなく、何をやっても成功するダブルバインド。

例:
「自分は命令されると断れない」
「では、ここにいる人達に命令してもらうから断ってください」
 
これは結果としては、
1:
「無理」
「今断れたじゃん。できたね。よかったね」
 
2:
「言われたとおりに断ってきました」
「できたね。よかったね」
 
となる。・・・まぁそんなスムーズかよとも思うが。いくつかサンプルを見たが、「自由を強制する」形が多い。それを断ったところで自分の意見を表明したことになる。当人としても「自分で選んだ」感覚を持てるだろう。
 
本来のダブルバインド(否定的ダブルバインド/ベイトソンのダブルバインド)同様に、異なる階層での複数の意味がある。この場合は「断れない」人に対して「断ってこい」と言っている(一つの命令)が、実質「今断るか、後で断るか」の二択を迫っている。
これは結果的に「やっても克服でき、やらなくても克服できる」という結果に終わる。
 
自由を強制する選択の形が多いが、加えて「この命令に従うな」というメタメッセージを含めることもある。上記の例だと沈黙するだけである意味指示はこなしている。
見方を変えれば肯定的ダブルバインドの場合、妄想/破瓜/緊張型の全ての判断で「正解」できる余地を作っていることになる。
 
 

・まとめると、ダブルバインドの主な原因は2つ。
1:「命令」に複数の解釈の余地があること(ダブルバインドの本来の意味)
2:「命令」に時間差があり本来は矛盾しないが、受話者にとって区別がつかない、または両立しなければならないと思っている状態(擬似的なダブルバインド。症状としては本来のものと同じになる)
 
・「日常的なコミュニケーション」に於いてダブルバインドは発生しうる。発言力だとか立場とかはどうしても生まれるし。ただ、他人が仕掛けてきた場合は、発言を洗い直せば相手が頭が悪いことを言ったか、ただの気まぐれか、或いはダブルバインドそのものを狙ったか、自分の勘違いか程度には絞れるだろう。
 
それよりも注意すべきは内発的なダブルバインド、つまり自分の中の義務感や使命感、「やらねばならない/やってはならない」といった命令が、矛盾したままあり続けることだ。何も起きていない素の精神状態がストレス発生装置になるのだから、健康に良くはないだろう。どちらかといえばこれは「認知の歪み」に近い。
 

§メモ

・ちなみにミルトン・エリクソンは、紫色以外は認識できない色覚異常、音楽が理解できない失音楽症も持っていた。これらのことがわからない分、観察力が磨かれたと言われている。成果の一つとして、その後彼は歩けるようなる。「赤ん坊はどうやって歩けるようになるか」を観察し、自分に適用したそうだ。最終的に、相手の首筋を見るだけで脈拍が数えられるレベルにまでなっている。
 
・「日本人ははっきり物を言わない」ってのは嘘なんじゃないかねこれ。言語行為もダブルテイクも外国発祥の概念だぞ。人間はみんなはっきり物を言わないんじゃないのかね。
 
・原因となるような出来事はそこら中にあるだろうが、現在進行形でない限りは「自分の内部の問題」と捉えたほうがいいかもしれない。これは、自分の責任という意味ではなく、「自分にはなんとかする力がある」と認識するということ。
 
・「自分の言動がダブルバインドにならないように注意しよう」とか思う人がいるだろうが、多分無理。というか限度がある。相手の捉え方の問題である部分もかなり大きい。逆に被害者ぶって相手を支配しようと考える人間からしてみればそれは「弱み」ともなる。頭に「今のところは」とか「この場では」とか付ける程度でいいんじゃないだろうか。
 
・「パターン化」は無意識に行われるのでかなり警戒した方がいい。簡単に言えば「命令」をずっと覚えてずっと守ろうとする傾向が元から人にはある。相手がその場限りのつもりで言ったとしてもだ。「勝手なことするな」「前にこれでいいって言ったじゃないですか」的なやりとりはほぼこのせいだろう。まぁ見分けがつかないような言い方や強さのことはかなり多いから、片方の責任とも言い切れないが。
 
この状態で新しく命令を受けたら、ほぼ矛盾する。ただこの場合、「勝手にずっと覚えてるせいだ」とも言える。親子だろうが上司部下だろうが、どの道自力で判断できるようになるまでは確認も含めて指示を仰ぐしかないだろう。
 
余計なことを言うとしたら、「一々聞かないとわからないのか」って言葉は現状最上級の褒め言葉だと思っておいたほうがいいだろう。汚名返上とばかりに博打なんぞしようものなら大体火傷する。もちろんこの言葉は不快だろう。マウンティングともディスカウントとも取れる。これをありがたがれなんてイカれた事は言わない。脳内で相手の鼻にボールペンでも突き刺しておけばいい。
 
というか「一から十まで聞かないとわからないのか」とか言ってる方が「一と十しか教えてない」状況がザラにある。まぁ暗黙知だとかすっぽ抜けてるのもあるんだが、二と九くらいは教えとけ。当たり前+αの歩み寄りって大事よ。
 
それはともかくその評価以上になるとしたら、聞かなくても分かること=自力で適切な判断ができるようになること、つまりは一種の「独立」を目指すことになる。これは一朝一夕では身につかない。非言語的なものや当たり前すぎて誰も言語化していないものもあるかもしれないからだ。教わる部分ではなく「自力で気づかなきゃいけない部分」が必ずある。パターンでも勇気でも度胸でもない。それだけじゃ足りない。
 
まぁ独り立ちできるまで我慢して、独り立ちできたらポイしましょうねと。
 




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