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成功恐怖症とインポスター症候群

成功恐怖症とインポスター症候群

 

 
・成功したくない心理。あるいは成功が「怖い」心理。それ故に実力を発揮しない傾向を含める。
 

◆目次

◆成功恐怖症と「変化」への恐怖
◆成功不安
◆インポスター症候群と「注目を集める」ことへの恐怖
◆女教皇ヨハンナ
◆「批評」
 

 

◆成功恐怖症と「変化」への恐怖

・「成功恐怖症」たる言葉は一般で使われているものであり、正式に病気扱いされているようには見えない。ただ「成功恐怖」、「成功不安」、「成功回避動機」という言葉なら、心理学者のマティナ・ホーナーが提唱している。当時は女性が抱く心理とされていた。
 
女性は男性と比べ、「成功することで周囲に嫌われるのではないか」という心配が強いと考えられていた。
 
それまでは成功の要求が失敗への恐怖を上回る時、人は行動を起こす、と考えられていたのだが、その理屈だけでは説明がつかなかったらしい。この傾向が特に女性に見られた。
 
ここから「失敗への恐怖だけではなくて、『成功』そのものに対してネガティブな認知があるのではないか」ということになった。
 
成功そのものに対してのネガティブな認知、あるいは成功に端を発してネガティブな結末になるという「予測(展望記憶)」。
 
・そのうちのひとつは失うことの恐怖。手に入れたものを失うことが怖いから、初めから得ようとしない心理。幸せ恐怖症に似ている。
 
また、自分が成功することに拠る他者からの「妬み」に対しての恐怖・警戒が一因としてあげられている。
 
・成功はポジティブとは言え「環境の変化」に変わりはない。出世すれば環境が変わる、仕事じゃなくとも成功すれば周りは「達成した者」としてその人を見るから扱いが変わる。これは人によってはストレスを感じるには十分な理由となる。それを予測・想像することもまた、十分にストレスの貯まる「心配事」となり得る。
 
・成功を意識した時点で、以上のような厄介事を無意識的に予測している、とする意見もあるが。成功することに拠る環境変化への漠然とした「不安」のようにも思える。何れにせよ、それを目指すメリットよりも不安のほうが勝っているのは確かだろう。
 
簡単に例えるなら、引っ越したら近所付き合いはリセットだ。隣人がキチガイかも知れないだとか、そういった予測は立てることが可能だろう。未知故にいくらでもネガティブに考える余地がある。そして想像だけで物事を決定するなら、大抵はリスクの方が多く見つかるだろう。
 
メリットの方は目標を立てる時点で出尽くしている事が多い。例えば「転職したい(環境改善のメリット)」と思ってからのあれやこれやの不安が湧く、という形。希望には、元から泥が付きやすいわけだ。
 
多かれ少なかれ、人はこのような不安は感じているとされる。成功は、得られるものだけではなく、環境の変化やその後の維持の苦労などを連想させる。またネガティブに考えるモジュール自体は、危険予測としては仕事はしていると言えるだろう。それ故に用心し、準備し、覚悟を決めることが出来るのだから。まぁ大体は実態より大きな危険として見えてしまうのだけれど。
 
コンフォートゾーンの概念が理解に役立つだろう。成功を目指すということは、居心地のいい安全な領域(コンフォートゾーン)から緊張や不安を感じる未知なる領域(ラーニングゾーン、またはパニックゾーン)へ自ら赴くことだからだ。
 
・Alea jacta est(賽は投げられた)たる状況が嫌なら、じゃあ賽投げなきゃいいな! みたいな。ダイスのことな。賽。

◆成功不安

・成功達成要求と失敗回避要求
心理学者ジョン・ウィリアム・アトキンソンは成功欲求ややる気について、「アトキンソンモデル」と呼ばれている一つの方程式を提唱した。大体はマティナホーナーの説と同じ。
 
達成傾向=(達成動機-失敗回避動機)×成功可能性×失敗可能性
 
ここでの「可能性」は現実のそれではなく「自分がどう思っているか」の話。
 
簡単に言えば現実の可能性に加え、成功達成要求(成功したい気持ち)が失敗回避要求(失敗が嫌だからそもそもやりたくない気持ち)を上回る場合、人はアクションを起こす、と当初は考えた。しかしここでも特に女性に於いてこの理屈だけでは説明がつかない行動が多かった。
 
当初の考察としては、成功により女性が以下の心配をするからだ、とされた。
  • 女性らしくなくなる
  • 社会に受け入れられない
  • 人に嫌われる
 
変化、拒絶、嫉妬に対しての不安だと言えるか。現代では「別に女性だけに限らない」とされている。今回こればっかだな。失敗恐怖症、敗北恐怖症とも。個人的には「禁止令」が一番近い気がするが。
 
禁止令の中でそれっぽいのは、自分自身であるな、成長するな、成功するな、重要であるな、所属するな、何かをするな、ってところか。軽く説明しておくと、親とかからそういうメッセージを受け取って、そう思い込むっていう話。直接言われるわけじゃなく、言動の端々から沿う感じてしまうこと。例えば子離れできない親はそれ自体が「成長するな」というメッセージとなる。
 
女性に限らないことから、もうちょっと人類用に拡大してみようか。
 
  • 自分らしくなくなる
  • 周囲に祝福されない
  • 嫉妬により攻撃対象となり得る
 
ってところだろうか。まぁ極論、世界に自分しかいなかったら、やりたきゃやるよな。逆を言えば「人の目を気にしてる」から成功したくないってことになる。ではそれは誰の目だ?
 
・自分らしさはちょっと厄介かな。当人が思っている自分らしさが、当人にとって間違ってる可能性も無くはない。人生脚本みたいな、幼少期に漠然と決定された自分の人生ルートが邪魔をしている可能性はあると言えばある。自分は親と同じような年齢で就職、結婚、出産を経験し、自分と同じような子供を育てるのだろう、みたいな。
 
そこまでじゃなくても親の人生と自分の人生を比べたり、「そうじゃない今の自分」に罪悪感や劣等感を抱く、とかもね。
 
そのルートから外れ、根本から自身の望む人生に舵を切ることは、まさしく未知なる領域であり、不安は募るだろう。
 
・残り2つは(実際にそういった行動に出るやつがいたとして)まぁ口で言うなら簡単だろう。あなたの成功を喜ばないのなら、そいつは仲間じゃないし。足引っ張るなら敵だしな? 「正体現してくれてありがとう! さようなら!」で絶縁でいんじゃね。理想としては、ね。
 
真面目な話、この手の連中の「許可」がない限り、自分は成功や幸福を得るどころか目指してすらいけないなんて思い込んでいると、一生を台無しにされる可能性がある。彼らは許可を出さない限りは、あなたをコントロールできるのだから。その「特権」を、彼らは手放すかね?
 
 

◆インポスター症候群と「注目を集める」ことへの恐怖

-◆インポスター症候群

・別名「詐欺師症候群」。字面が悪いが、別に人を騙したり、嘘をついたりするわけではない。いや、実力を隠すという意味ではある意味嘘はつくのか。概要としては「自分は他人を騙して不当に高く評価されている」と当人が感じる症状。要は「自分を詐欺師だと思っている」症状。
 
この結果居心地の悪さを感じたり、成果を出しても実力だとは感じられなかったり、目立ちたくなくて実力を隠す。当人は他と比べて事実として実力がある場合が多い。
 
・こちらも最初は「女性に多い」とされていたが、そんなでもないことが判明してきている。成功者の内の五人に二人は「自分は偽物だ」と思ったことがある、別調査では全体の70%が一度はそう思ったことがある、など。
 
ただ、「その多くは自覚されない」とされている。無意識に成功を避ける、という行動を取る状態だということになる。
 
・特別精神障害というわけではない。後述するが「誰にでも起こり得ること」とされている。
 

-◆既に成功してしまった場合

・「既に評価されている」または「既に成功してしまった」状態での不安感。今の自分の評価や立ち位置が嘘・不公平に拠って得られた自分と釣り合わないものだと感じており、「周囲を騙している」、または「今の評価を不当に得た」と当人が感じている状態。
 
その「嘘」がばれ、今の状態からの「転落」を恐れている…というよりは周囲に責められることを恐れていることが多く、そのまま走り続けるしかないジレンマ。
 
繰り返しておくが、「実力がある」人間がこういう心理だという話だ。能無しがコネで出世しました能無しだとはバレたくないですとかそういう話じゃない。バレるも何も嘘は始めから吐いていない状態。その上で本人が自分のことを能無しがコネで出世したと思っているような状態。
 
一種の認知の歪みのようにも見える。その中の「マイナス思考」はこの状況に当てはまる。
 

-◆成功前の場合

こちらの場合は前述の通りの「居心地の悪さ」を感じたくないから、あえて目立たないように実力を隠す傾向。あるいは成果を出しても自身の実力ではなく、「借り物の力で達成した」かのような、お膳立てされた成功(八百長や出来レース)のように感じる。
 
なんだか成功が嫌だって言うより目立つのが嫌なように見える。静かに暮らしたいみたいな。

-◆誰にでもある

・成功不安の場合は「不安だから嫌だ」というシンプルな構図だった。当人としても自覚できる余地が十分にあると思われる。
 
だがインポスター症候群の場合は、誰にでもありえて、その多くは自覚されない。
 
アレキシサイミア(自分の感情がわからない)もそうだが、自覚がなくても症状は出る。成功を避けるような言動、だけではなく、不安、ストレス、自尊心の低さ(自己脆弱性)、抑うつ、恥ずかしさ、猜疑心を抱える。
 
・これが重要なのだが、「他人からの否定的な意見、失敗や間違いに対する極端な恐怖」が見られるとされている。また、何がしかの「マイノリティ」、つまりは少数派に属しているケースが多いとも。
 
どちらも最初は「女性に多い」とされていた理由がここにあるのではないだろうか。数十年前までは、世界は男は仕事、女は家庭みたいな認識だったはずだ。現代にしたって病気のこどもを旦那に預けて出社したら嫌味を言われるだとか、そんな話は多い。女は男のサポートに回るべきだという認識がなければこのようなこと言われないだろう。
 
これを一言で言えば、「女は目立つな」となる。もちろん明言したら荒れに荒れるだろう。では「言外のメッセージ」だったら? それが未だに「蔓延」しているとしたら? 受け手としては「世界がそう言っている」ように見えているとしたらどうだろうか。まぁ差別っつーよりオスの縄張り意識なんだと思うけどな。
 
また「隠れたカリキュラム」とか呼ばれたりする概念がある。特に学校生活に於いて、明言はされないが暗に「女子はこうあるべき」的な「男子と違う扱い」を受け、その通り育つなどの説。
 
小学校の時、男子は大体団体球技やってるよな。で、その中に女子はいただろうか。女子だけでやるとかでも、そういうのはあっただろうか。興味がある子も居ただろう。足が早い子だって居る。成長期迎えてないんだし、身体能力もそれほど変わらんかったろう。男女混合でもおかしくなかったはずだが、清々しいほどそんな記憶はないな。もうこの時点で「男子はこう、女子はこう」っていうのはある程度できてるように見えなくもない。
 
…とか考えると、大人たちの扱いだけじゃなく、子供同士で男女間は割とはっきり別れてたよな子供の時って。今は違うんかね。
 
・閑話休題。ともかく、「目立ってはいけない」と思っている、あるいは周囲に(意図せずとも)思わされている状態なのかもしれない。「出る釘は打たれる」という心境。目立つことに拠る「リスク」の経験あるいはその可能性の予測と言えるだろう。
 
総じて女性の視点として世を見れば、「女性特有の成功に対する懸念」は発生しやすいか、既に萎縮させるような空気が存在しているのかも知れない。無意識にそう思わせるような何かが。目立つことに拠って、リスクが上がると思ったら、目立ちたくはないだろう。
 
また、その世界観の結論が「出る釘は打たれる」とすれば、男も女もあんまり関係なくなってくる。ただでさえ縦社会の上に年功序列の臭いがきつい国だし。まぁ上司が自分の手柄を横取りするとか、そっち系の話のほうが多いと言えば多いだろうが。
 
・インポスター症候群は、1978年に心理学者のポーリン・R・クランスとスザンヌ・A・アイムスによって命名された。ただ、クランスは後にこう語っている。
 
「もし最初からやり直せるなら、私はインポスター体験と名付けただろう。それは症候群や精神障害ではなく、誰もが経験するものだからだ」。
 
私だったら、「ヨハンナ・コンプレックス」とでも名付けるかも知れない。
 
 

◆女教皇ヨハンナ

教皇ヨハン・アングリクス。在位西暦855-858。あるいは1099年。
 
ドイツの都市マインツから、ギリシャのアテネに連れてこられた少年がいた。
 
勉学に励んだが、他を圧倒するほど聡明で、すぐに並ぶ者はいなくなった。
 
ローマに移り勉学を教える側になった。すぐに「偉大な教師」として知られ、その噂は街中を巡った。
 
次期教皇は彼しかいないと噂され、その通りになった。信心深い時代に教皇になったのだ、世界レベルでの「成功者」とみていいだろう。
 
しばらく後、移動中に突然体調を崩す。この話にはいくつかパターンがあるが、そのうちの一つはここで死亡する。
 
理由は「産気づいた」から。つまりはアテネに連れてこられた少年は、男装した少女であった。
 
ジャン・ド・マイイ はこう記した。「即座に、ローマの正義により、馬の尻尾に足をくくりつけられ、半リーグ引き摺られ、人々から石を投げつけられた」、と。
 
別のパターンでも出産により死亡。儀礼もなしに埋葬されたとされている。その埋葬された場所は歴代の教皇達は避けて通ったとも。
 
・この話ではヨハンナは「実力」で教皇になったことは間違いない。それなのにこの仕打だ。
 
・まぁ、カトリック教会では女性は司祭以上にはなれない。拠って「女教皇」はありえない。それが上記のリンチの理由でもあるが(「男装」したことがアウトとも)、史実と照らし合わせた結果「これ創作だろ」ってことになっている。
 
簡単に言うと、先代が855/7/17に死去、次がすぐに就任するが、カリスマがなさすぎて二週間でクビ、その後855/9/29に次が決まっている、というのが複数の資料で一致しており、こちらが歴史的事実だとされているそうな。
 
「ヨハンナ」の時代が1099年だった場合、たしかにこの頃次期教皇争いが激化していたが、だからこそそんな一大スキャンダルがあったら何かしら記録に残っていなければおかしい、でも前述のジャン・ド・マイイ の記述以外は一切なにもない、という話らしい。
 
また、妊娠していたという話についても、教皇は独身を貫かねばならないとされており(意味を察するべし)、そこら辺からもありえないとされている。
 
・タロットの「THE HIGH PRIESTESS(女教皇)」のモデルとも。実際カードの女性は妊婦であるとする説もある。逆とするのもあるが。意味を察するべし。
 
知識・学問とこのカードの意味も色々あるが、そのうちの一つは「秘密」であるのもそれっぽいね。「言えないことがある」みたいなね。転じて「言葉に出来ないもの」を表したりもする。神秘・叡智など。
 
・誰だって知られたくないことの一つくらいあるだろう。ないほうがやばい。人のそういうのに鈍感になる。「成功する」事によって常に注目を浴び続けることは、「秘密」を守りたい人間にとって、永続する苦痛を予測させる。それが暴かれる危険性も上がることになる。
 
また、秘密などないとしてもだ。注目を浴びるというのは、ペシミズムな物の見方をすれば「見張られている」事に他ならない。インポスターの例がまさしくそうだが、「他者批判が怖い」状態では、これは苦痛だろう。自らそうなろうとするとは思えない。
 
成功して、注目を浴び、目立つことは、祝福されると思うか、あるいは嫉妬・悪意を一身に受けると思うか、そのどちらかだろう。そして自分があまり歓迎されていないという自己認識だったら、どちらになるか。
 

◆「批評」

・他者を批評することを繰り返すと、自身が何かを行う際に「同じ様に批評される」という心理が育つと言われている。それが怖いから自分で挑戦できなくなり、批評しか出来なくなるとかね。確かに無意識は「自他の区別がつかない」とはよく言われる。批評のモジュールそのものが育てば、それは自分にも向くだろう。
 
また、セルフ1のように自らを監視、叱責する機能もある。これは恐らく自らに緊張を与え、自制や奮起などパフォーマンスをあげようとする(ラーニングゾーンに入るための)機能なのだろう。これが「自分の言動の合否判定あるいは調整」として働くのだが、まぁ大抵はやりすぎてパニックゾーンに突入しますな。また、そんな「自己評価」の基準がそのままナチュラルに他人に向く、というのはよくある。
 
そのモジュール、習性が育つ経緯、それが世界観となるまでの理由としては2種類挙げられるだろう。
 
1:自分が他人にやったような評価を自分がされるのではないかという自業自得、因果応報の世界観。
特にいつも他人をからかったり、バカにしているような人間で、自分が失敗した際に異様に他者の目を気にするケースは多い。
 
クラスのチンピラがついうっかり先生を「ママ」と呼んじゃったら、次の日から卒業まで不登校になりました、みたいな話が俗にある。
 
実際にそれが起きたとしたら、それは自分が今まで他人にやってきたことと同じ様にからかわれる、バカにされると感じたからだろう。自分自身が「加害者の実例」なわけだ。こっちの話も掘り下げれば深いのだが、それはまた今度で。
 
2:他者が成功者や失敗者を悪しざまに語る、あるいは嗤うことを見た「世界観」の構築。
これはある種の「危険予測」。「顔のない人々がどう動くか」の基準というかなんというか。
 
「赤の他人はこうするのだろう」みたいな。これは自分の所属するコミュニティの影響を受けるが、そこに入り浸れば入り浸るほど、そのまま世界観になりやすい。
 
自分が何かをすることは諦めて他人の足を引っ張ることに専念する連中は実際にいる。特に美学も理念もないようだから、考えてやってるんじゃなくて衝動・情動・本能的なものだろう。
 
まぁ、そんな連中が大多数な環境だったとして、つまり丸ごと沈んでいく泥舟の上でマウント取りあってるつもりの足の引っ張りあいしてるような環境で、わかりやすく、正当に、実力で、成功する、つまり目立ちたいと思うだろうか?
 
と考えると、自覚として成功恐怖症でいる者の中にはその前の段階の「挑戦恐怖症」が含まれていると考えられる。どちらもよろしくない未来が考えられるのなら、やる価値そのものがない。
 
また、己の美学に則りそんな批判合戦を拒絶または反抗するとしたら、その時点で「目立つ」わけで、なんかもう、詰んでる。同調しなけりゃ敵認定、なんてのもある。つまりは「参加せざるを得ない」ような環境下でそれを続ける羽目になっている者も居るだろう。つまりは1と2は両立し得る。
 
古代の哲学者エピクロスは、「隠れて生きよ」と言った。当時の情勢的に反体制なことを口にしたら、処刑されるか弾圧されるからだったらしい。今も大して変わらないのかも知れないな。
 
・批評は基本、相手に不快感を与える。逆を言えば勝手に批評されたら不快。頼まれたからって何言ってもいいわけでもない。最も厄介なのは、「批評が世の中に満ち溢れている」ということだ。
 
よくあることとしては「褒めたのに怒られた・嫌われた」という話。これは褒めたのではなく「評価」したからだと思われる。批評の「評」の方。つまりは批評。
 
評価とは、「判定する」「点数付けする」ことだ。つまり上から目線で行う行為。「君は私の合格ラインに達したよ!おめでとう!」と言うこと。ロジックではなく、感情で、「何様だよお前は」という反応を相手から引き出す可能性。はっきり言っちゃうと我々人間はこういう天然なとこある。
 
アドラー関係の話で多いが、「偉いね」「よくやった」みたいな褒め方がそうだとされ、よろしくないと言われていたりする。それ親や上司に同じこと言えるの? みたいな諭し方されてね。そもそも褒めること自体が駄目とかね。
 
まぁ実際にはなんとも思わず素直に喜べる人もいるわけで、絶対ではもちろんない。絶対ではもちろんないから、不快に思う人もいる。これはどちらもおかしくない反応だろう。
 
「褒める」が難しい、って話は、結構見かける。主に創作関係。イラストとか。「あの人の絵に似てる」というのは褒め言葉じゃねーよみたいな話とか。
 
なんかあれよな。自身の褒め言葉のボキャブラリーのなさに直面している人多いよな。ボキャ貧というか「傷つけない褒め言葉」探しに苦労している的な。私も割とそうだが。
 
まぁみんな結構頑張って言葉考えてる感はあるよね。「頑張ってください」じゃ無理強いっぽいから「ゆるく頑張ってください」とか言ってたりとかね。なにか付け足せば割とマイルドにはなるのかもね。
 
よしんば適切な褒め言葉があったとしても、褒めたことが相手に伝わったとしてもだ。アドラーの言う通りに「褒める」こと自体が「評価」なのだとしたら。言葉通りに伝わって、その上でなんか不愉快だ、という人も実際いる。
 
もちろん、不快にさせるのが目的で褒めようとする変態はそうはいないだろう。大抵は感動、好意、応援の気持ちを伝えたい、ということのはずだ。それなのに、「批評・評価にならないように感動・好意を伝えよう」となると途端に言葉が出てこないと。
 
アドラーだと「ありがとうって言え」って話だったが、実際それが一番適切かもなぁ。途端に評価じゃなくて感謝になるよねと。うまいね。
 
言葉選びの方針を、褒める(評価)じゃなくて「感謝」方面の語彙から選ぶといいのかもね。
 
とかなんとか色々言ったが、そもそも背景、状況、経緯やらを加味した上で「何が適切な発言か」は決まるものだから、「この言葉ならいつでも大丈夫!」とか思ってると全部ダメになるだろう。逆に上記のダメとされた言葉だって適切な時もあるはずだ。これはそのまま行き過ぎた言葉狩りの頭の悪さでもある。
 
・なんか話がそれたが、人間自然と批評する。しまくっている。人間の視座とは「自分にとって/自分の知識や価値観と照らし合わせて、これはどういうものか」というスタイルだからだ。実際の所、合否判定に近い。簡単に言ってしまえば、正解か不正解か、好きか嫌いか、上手か下手か、用か不用か、真っ先にそういう目でものを見る。
 
まぁ当然コレ自体が悪いわけじゃない。が、そのまま口にしちゃ大体ダメなことになるかもしれない。
 
エスカレートすることもあるだろう。多人数のそんな騒ぎに参加してしまったこともあるかも知れない。「ヤラレル側」にはなりたくない。どんな強さで、どんなことを言われるか「知ってる」から。自分がそれを「やった」ことがあるから。そういった心理。即ち「批評の因果応報」は誰にでも当てはまる。
 
・総じて成功恐怖症の一部の、目立つことの恐怖、アクションを起こす緊張感は、「今まで自分が審査員としてボロッカスに他者を否定しまくったコンテストに自分が作品を提出することになったクリエイター」の心境に近いように見える。いや実際にはそんな奴見たことないんだが。
 
・もうみんな嫌いなものはガン無視して好きなものをありがとう好き好きって言ってりゃいいんじゃないすかね(思考放棄)。
 

◆メモ

・全体に渡って「他人の目が気になる」という心理が漂っているな今回。それは実際危険であり、有害な時はあるけど。
 
・幸福、自由、成功、自律、知識に対して、人は恐怖を感じると言う。人は自らこの5つを得る、あるいは必要とする。恐怖を上回るメリット、だけでは人は動かない。メリットは「諦める」ことでその価値が無効化される。やりたいことがやりたくないのなら、恐怖そのものの緩和あるいは中和は必要なのだろう。
 
あるいはただ「夢見るだけ」であることこそが心の支えであることもある。まぁ他人がとやかく言うことじゃないだろう。それにはそれの価値がある。精神安定剤だね。希望は必要。
 
・「自分らしくなくなる」について。
人は「自分」を持っている。いくら自分がないと悩んだところで持っている。気づいていない時もあるだろうが。まぁアイデンティティだね。重くて深いものでもなく、自分はこうだ、この時はこうする、みたいな無意識的なイメージ。言語化が難しい面があるため、逆に「言語化できる程度にしか」自分がないような人間に言いくるめられることが多い。
 
結構「成功哲学」的な話で多いのが、そういったアイデンティティレベルでの「改造」的なもの。これは思考パターン、行動パターンの書き換えか再構築の試みに近い。今持っている「自分」に気づかなかったとしても、何かになろうとする時には捨てる/変えることになる「それ」の存在に気づく。
 
だから「変わるのが怖い」と感じる。「成功」に対しての欲求の場合、現状の問題の解決や自分が嫌いで変わりたいのとは違って、「今の自分を捨てる」覚悟はまだしていないからだ。振り出しに戻った、と捉えては損だろう。進んだことにより、気づくべきことに気づいたと思えばいい。
 
で、新しい要素が見つかったのだから再考すればいい。全ては「仮決定」だと思ったほうが、手を付けるのも、引き上げるのも、再考するのもフットワーク軽くなるよ。一大決心しちゃうと薄々「これちがくね?」って思いながらも突き進むしかなくなる。試すからには、そこから学んだほうがいいのだけれど。
 
・間違っているとはっきりわかった上でも、「止まる」ことに多大なエネルギーが必要であり、組織単位でも誰も止まれないことは、コンコルド効果とかサンクコストの見誤りだとかの前例がある。
 
要するに、自分らしくなくなる不安は「本物」で、気づぬままに何かを捨てようとしている自分に対してのシグナルかも知れない。
 

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