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§承認欲求への批判・嫌悪は正当なのか

§承認欲求への批判・嫌悪は正当なのか


・表向き、承認欲求という言葉のイメージは悪い。まぁうざいのを指して使われることが多いからやむを得ないのだろうが。
 
「承認欲求」=「悪い」「迷惑」または「みっともない」という図式なのだろうが、これに違和感がある。
 
§目次
◆ストローク
◆心の栄養
◆改めて「承認欲求」という言葉について
◆実際の「承認欲求」について
◆もう1人の「承認欲求を否定する者」
◆メモ
 

 


◆ストローク

・その説明のために「ストローク」という概念について説明。心理学では言語非言語を問わない「相手の存在を認める行為」を指す。身近な例で言えば「挨拶」とかだろうか。そういった些細なものから称賛などの大きなものまで。
 
ストローク自体にプラスとマイナスがある。前述のような挨拶から始まり友好的なコミュニケーションは「プラスのストローク」、からかいや侮辱などは「マイナスのストローク」となる。単純に人格や能力に対しての「肯定」「否定」と捉えて構わないだろう。
 
ストローク自体は言葉、仕草、表情、語調などの物理的な事象と言えるが、それをプラスかマイナスか、そして強さも含めて「どう感じるか」は当人の主観による。
 
まぁ簡単に、「相手が自分をどう扱っているか、どう思っているか」を人は気にするということでいい。そして実際の相手のリアクションよりも「自分がどう感じたか」でそれを判断している、と。
 
・この上でどう認められたいのかという「中身」の問題がある。例えば絵で褒められたい人間が「字が綺麗ですね」とか言われたところで違うそうじゃないとかそんな感じだろう。他には美人が「性格を見てもらいたい」とか言うのもそうだ。多少は嬉しいかも知れないが、基本的には「認められたいもの」で認められなければあまり満たされない。
 
参照:内部リンク:ストローク
 
・交流分析のエリック・バーンは「人間はストロークを得るために生きている」とまで言っている。人が生きる一つの目的であり、群れの生物である故の本能とも言えるだろう。「周囲に自分が認知されている」という実感。その認知が望む形であるよう願う/目指す心理。
 
現実として他人に認められない人間は自分の価値を信じられない傾向が強いか、反発して過剰なナルシスト、あるいは自己の世界にこもりがちになる。逆に他人に認められた場合それを「根拠」として自信を持ち、それについては大胆になる傾向があるではないか。
 
つまり自然な「個」として立つためにすらストロークは重要と言えるだろう。ここが他人に左右されがちというのは、人によっては気に入らないだろうけどね。まぁ抜け道もある。※
 
プラスのストロークは承認と言える。承認欲求は「プラスのストロークが欲しい」ということになる。
つまり「承認」自体は人が求めておかしくないし、自然なことだと言える。ストロークを「心の栄養」と表現することもあるし。
 
※ストロークに限らず自信の有無でこうなる。ストロークは自信の有無の「根拠」になりやすい。そして後述するがそれが「自己承認欲求」に依存するならば他者は必要はない、のだが。100%それだけだとナルシストになりがちになるね。
 
 

◆心の栄養

・冗談抜きで栄養素のようなもので、ないと人間は割とおかしくなる。
 
・愛情遮断症候群:これは乳幼児が親からの愛情を得られないストレスから成長に必要なホルモンが分泌されず、発達障害、知的障害、発育障害などが起こること、とされている。どうも不安から不眠になり(乳幼児なのに難儀なことだ)、その結果成長に必要なホルモンが分泌されないということらしい。
 
・さて、大人にしたって構図は変わらないだろう。「無視」が精神攻撃足り得ることからも容易に想像がつく。転職の「本当の理由」は人間関係がダントツで一位だって話もあるし。表向きはなんと言おうとね。人間関係がある以上、そこには必ずストロークの応酬がある。
 
逆を言えば人間関係が円滑ならそれ以外は許容範囲足り得る(限度があるが)。給料が今より良い職場に変えて人間関係を再構築することと、全員と上手いこと付き合えてる今の職場とどちらを選ぶか、と問えば大抵後者だろう。「特に不満がない」からだ。
 
逆に現状の人間関係が真っ黒すぎる場合は前者の方に軍配が上がる。「今よりはきっとマシ」だと思うからだろう。
 
「そこ」でどのようなストロークを得られるかはその場の「居心地の良さ/悪さ」に直結する。
 
・はいまぁ些か脱線した気がするが(些か?)、ともかくストローク、要するに「承認」は、人間たち本人が思っている以上に物事の価値を決めている。
 

◆改めて「承認欲求」という言葉について

・次に、現実としてうざかったりしつこかったり基準がおかしかったりで相手が精神を病んだりポリス沙汰になったりするレベルの目立ちがりの悪い子は実在している点を挙げよう。
 
一部の者たちは「承認欲求」という言葉にこういったレベルの悪い子を連想するため「ロクでも無いこと」とする認識がある。まぁニュースになるとしたらそういったレベルの連中だし、後出しでソレは承認欲求だというのは容易いし、そういう認識でもやむを得まいよ。
 
ストローク飢餓と呼ばれる、「ストロークを得るために手段を選ばない者」の動機を承認欲求とするからこういった認識になるのだが、まぁ間違ってないよな。
長いことストロークを得られないと「どんな手段を使ってでも」「どんなストロークでも構わないから」欲しがる傾向があるようだ。
 
これは「相手してもらえない」よりは「嫌われる」ことを自ら選ぶ、という意味でもある。
 
で、簡単かつ確実にストローク(他人の注目)を得る方法は? 
A:問題児になればいい。
 
参照:内部リンク:ストローク飢餓
 
まぁ一番わかり易いのが好きな子に嫌がらせする小学生男児とかかね。あれ女の子にはガチのトラウマになることもあるっぽいね。
 
・この様に「無視よりまし」という価値観で自ら嫌われ者として振る舞うものもいるが、たちの悪いことにマイナスのストロークをプラスのストロークとして受け取る変態もいる。
 
簡単に言えばストーカーか。拒絶の言葉を「構ってもらえた」と認識して喜ぶとかそういう話もあるね。
 
また、所属するコミュニティの価値観自体が世間とずれている場合も迷惑になりがちだ。チンピラが自分がどれだけチンピラなのかをチンピラ仲間に自慢するなどがそれに当たる。この場合でもエスカレートするだろうね。
 
・ただ、ストロークが欲しい=上記のようなストローク飢餓状態だと考えるのは、カネが欲しくて働くのとカネがないからひったくりをすることを同列に並べて「カネがない奴はみんな犯罪者だ」と言っているようなものだ。
 
要するに承認欲求という言葉の「範囲」がガバい。確かに承認欲求をこじらせての問題行動はあり得るが、誰もが自力で正当なストロークを得る努力を放棄するわけではない。
 
だが問題のある人間を指して「承認欲求だ」と散々言われてきたから(間違いではない)、簡単に言えばこの言葉は現状では結構「イメージが悪い」。この上でそういった意味での使われ方と後述する本来の意味での使われ方が混在している。言っても言われても混乱する言葉になっている。
 
 

◆実際の「承認欲求」について

まず、自己承認欲求か他者承認欲求がある。
 
自己承認欲求は「自分で自分を認めたい」「自分を認められる自分になりたい」という欲求だ。まぁ自己否定や完璧主義につながりやすいが、自己実現へ向けた向上心ともなり得る。健全だろうこっちは。
 
他者承認欲求は「誰かに認められたい欲求」だ。一般で承認欲求と言えばこちらの意味で使われていることが多い。自己承認欲求は自分が嫌いだとか自信の有無とか、そういった言い回しの方が多い。
 
他者承認欲求はベタに言えば認めてもらいたいだとか、かまってもらいたいだとか、注目されたいだとか。
 
この時点で「誰に(個人か不特定多数かも含めて)」「どの様に」認められたいのか、という問題がでてくるが、その場合には勝手に上手いことやればいいだけの話だ。イメージが固まっているのなら、あとは技術だとか努力だとか、そっちの話になる。
 
しかしそれがない場合がある。相手は誰でもよく、なんとなく寂しいとか、威張りたいだとか、気にしてもらいたいだとか。
 
ともかくこの場合はもちろん「相手」あるいは「誰か」が必要になる。さぁ、雲行きが怪しくなってきた。が、もうちょっとこっちを掘り下げよう。
 
・「他者承認」はさらに3つに分けられる。上位承認、対等承認、下位承認。まぁ字面のままだが、注意点としては「誰に認められたいのか」ではなく、「どの様に認められたいのか」で分類する点だ。
 
即ち、
 
上位承認欲求は「自分は上だ」と他人に認められたい。
対等承認欲求は「自分は対等だ」と他人に認められたい。
下位承認欲求は「自分は守る対象だ」と他人に認められたい。
 
参照:内部リンク:「承認欲求」
 
自分は自分は自分は、とまぁエゴを前に出していく形にはどうしてもなる。でもそれだけじゃ別に悪くはないが。100%他人のために生きてますとか言ってる人間なんて信用出来ないだろう?
 
相手がいる話になるから慎重さや相手に合わせた手段のバリエーション、力加減などが必要になるわけだが、「欲求」はどうしても「焦燥」に、つまり短絡的なアクティブさに繋がる。そしてこれが「餓え」と呼べるほどになると……。
 
・アブラハム・マズローの欲求階層説で言えば上位承認は「第四階層:自尊と承認の欲求」、対等承認は「第三階層:愛情と所属の欲求」、下位承認は「第二階層:安全の欲求」と言えるが、人間は勝手に飢えや不安を感じてあたふたする生き物なので上も下もないと思ってるしそこは割とどうでもいい。※
 
・「この中でどれが悪いのか」を考えるのはナンセンスだろう。これだけでは誰だって感じたことがあるだろうし、元からそれだけで悪いとは言い切れないし、そんな事関係なく偉そうなやつも馴れ馴れしいやつも被害者ぶるやつもうざいからだ。
 
要するに「承認欲求の悪い点」は、「悪目立ち」でしかない。
 
木を見て森を見ず。これだけで「承認欲求=悪い」になるほどの悪目立ちだ、ということもスルーは出来ない問題だが。
 
・ともかく問題は、初めから「手段」と「欲求の強さ」だ。プラスのストロークを、つまり他人からの関心・注目・望んだ形での認識を得るために「どのような手段を選ぶのか」「どれだけ求めているのか」。特に後者はそのまま「必死さ」に繋がり、つまりは暴走しやすい。
 
やり方と自制心に人間性が表れ、まっとうなのか、あるいはみっともないのか、それともうざいか、なんかもう手遅れかが決まる。
 
自身の制御下にあるならばそれは問題がないことだし、制御下にあって問題が在ったとしたら、それは手段かセンスの問題だろう。承認欲求そのもののせいじゃない。すべての感情・欲求にも言えることだが。
 
・人によっては願いが叶えられない場合には他人の足を引っ張り出すことがある。「『本当は』自分は実力があり、アイツラは運が良かった/ズルいだけだ」みたいな。だから上の人間に対して技術的あるいは人間的な意味での上から目線の発言が目立つだろう。前者は「本当は」自分は実力がある証明として、後者は馬鹿でもできるからだ。賢者にケチつけるのは凡人でもできるのさ。
 
そして、「自分の理想の目立ち方」をしている者を指して「それは承認欲求だ」と批判することもできるだろうね。
 
このあたりまで来るともはや「欲求」ではなく「飢餓」となる。
 

 

・身もふたもないこと言えば、
 
「俺すごいだろ!?」
「俺をすごいって言え!!」
「あんな奴より俺のほうがすごいって!!」
「俺の凄さがわからないやつは馬鹿!!」
 
みたいな「馬鹿はお前だよ帰れ」って感じの奴が「承認欲求」という言葉のイメージを悪くしているのであって、それ以外の場合は元から不問だろと。
 
結論として、そもそも問題となっていたのは「『承認欲求』というガバい括りで悪い子とひとまとめにされていた」ことであり、元から「他者に認められることを目指す」こと自体は悪いことじゃないだろという話。
 
※マズローの欲求階層説は「西洋人バイアス」がかかっているという指摘がある。多文化に適用しようとしてみると無理があるとする声が多いそうだ。
 

◆もう1人の「承認欲求を否定する者」

・おまたせ、って感じかね。そう、自分自身。他者の承認を求める自分自身に対しての「かっこ悪い」「情けない」といった感情。
 
これは自己承認欲求(『そんなことはしない自分』を実行すること)と他者承認欲求(ストロークが欲しい)の軋轢とも言える。分裂というか、矛盾というか。
 
まぁそれを目指すのも悪くはないのかも知れない。ただ、なぜ他者承認を求めることに対して否定的な意識が働くのかは各々突き詰めたほうが良いだろう。ここまで述べてきたような承認欲求に対する「世間的な価値観」は、大分歪んでいると言うか、間違っている可能性は否定できない。
 
あるいは、以前やらかしたことが実際にあって、そこからの苦手意識かも知れない。そりゃ技術ややり方の問題だ。それで「気持ち」の善悪を測るのはお門違いだろう。
 
また、理想主義者というか完璧主義者に非常に多いが、そもそもの「理想像」が現実を知らない幼いものである可能性も考えるべきだろう。何も知らずに思い描いた青写真は、やはり無理があるものだ。
 
何れにせよ、「特に問題もなく己を満たす方法」を模索するにはいい機会ではないのか。
 

◆メモ

・ストロークに関して一番避けるべきは「なんか難しそうだから初めからやらないほうがいいか」と思うことだ。ない方がやばいことになるので自力でそこそこ得られる環境づくりはしたほうがいい。
 
そして私が言えば何だって小難しくなると思うし、面倒そうに思えるのは8割方そのせいだと思うので気にしなくていい。このページ、訳せば「承認欲求は悪いことじゃないよ! 相手に迷惑かけないように気をつけつつ自己表現はしていこうね!」で終わるからな。
 
あれ、ストロークの説明いらなかったんじゃないのこれ。
 
・まぁあれだよ、ストロークが欲しければまず細かい性格してそうなオーラ醸し出すのは止めたほうがいいね。単純に「ストロークを受け取ってくれなそう」あるいは「プラスをマイナスに取られそう」に見える。
 
・こういう言い方するのも無粋だが、 ストロークはノーコストまたはローコストで他人に与えることが出来る。あまりケチるものでもない。無条件に振りまくものでもないが。
 

 

・承認欲求と同じことが「自己満足」という概念にも言える。自分が満足することに何が悪いことがあろうか。自己満足が問題足り得る、または嫌悪の対象となるのは「他人を理不尽に犠牲にして自分が満足しようとする」ことに限られるだろう。
 
・言葉が頒布するにつれ段々と意味は変質し、一種の「世代」のような層の違いが生まれる。簡単に言えば同じ言葉でもバージョンが違う。そしてその変質は「よりわかりやすく、より極端に」なる傾向が強い。覚えやすく、伝えやすいからだ。「わかりやすさ」にはこういった落とし穴がある。
 
知った言葉の世代が「新しい」場合には承認欲求=悪いこと、とする認識で覚えているケースが多い。結果的にこの世代が過剰な自重をしたり、他人に対して「言葉狩り」のような言動をすることも。
 
・どうもこう……、「自分のために動くこと」自体が悪いみたいな空気が出来上がりやすいね。今回は悪目立ちする連中のせいだったが、例えば休日に遊ぶことに罪悪感だとか、そういったものを感じる人もいるし。根深い問題だと思われる。この状態で都合がいいのって人をリソースとして扱う連中なんだよな。その情報状態を維持する実行犯はそいつらに洗脳された奴らだろうけど。
 
・ダニエル・デネットが言う「注意のひったくり」は、自身の脳内の記憶に対しての話だが、人間社会に於いてもそのまま適用できそうな概念だと思う。ストローク飢餓状態の「関心の強盗」みたいなのはいるだろう。あるいはCMや、炎上商法もそうだ。どれもが「得るものがある」から、デリカシーとかなしにエスカレートしていく。結構CMは劣等感や焦燥感を刺激されるから見たくないだとか、そういう意見の人もいる。
 
・「自己承認欲求のストローク飢餓」はあり得るだろうか? ああ、これが理想が高すぎることに拠る「自分が嫌い」って状態か。
 

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