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その「自己評価」の高低はどのようにして決まったか

その「自己評価」の高低はどのようにして決まったか

 

 

◆「自己評価が低い」という言葉

・自己評価が低いという言葉は、自信がないだとか、自分のことをダメだと思っているだとか、そういった意味で使われている。「自分嫌い」も含まれるかも知れない。
 
何かができなかった、何かをやらかした時にそう思う、ではなく、慢性的な自己イメージとしての状態。慢性的な自信喪失と言ってもいいだろう。
 
なぜ慢性化するのか。自己評価を変動させる要素、そして固定化させる要素は何があるのか。
 

◆目次

◆理想か義務か
-◆理想自己と自己評価
-◆義務自己と自己評価
-◆理想自己と義務自己
◆自分か他人か
-◆自分が行う自己評価
-◆他人から作った自己評価
 


 
 

◆理想か義務か

現実(自覚のある範囲)の自分である「現実自己」とは別に、自己方針というものがある。言葉通り自分はどのようになりたいか、どうあるべきかの方針。
 
自己方針はさらに「理想自己」、「義務自己」に分けられる。理想とする自分像と、義務(今すぐにこうでなければならない・こうであってはならない)自分像と。
 

-◆理想自己と自己評価

・理想自己は理想・希望などの将来的、比較的長期的な未来の「目標」に近い。
これは当人の価値観を置くもの、「こうなりたい」と強く望む・目指すものである。「望ましい状態への接近」のためのもの。
 
・理想自己が評価基準の場合は自己評価は「肯定か否か」という形をとる。良いか良くないか。「良いか悪いか」ではないのはポイント。言い方を変えれば「プラスかゼロか」でマイナスではない。
 
ただ、肯定的でない=大したことないだとかあんまよろしくないとかなので、自身に対しての失望・落胆には繋がる。これはその前に自分に「期待」しているからこそだ。逆を言えば理想が持てる時点で、自分に期待できる程度には自己評価がある状態。
 
・目指す、なので時間的に結構余裕があるのがポイント。今がそうではないからと言って致命的なダメージにはあまりならない。人によってはなる場合もあるが、それは後述する「義務自己」に差し替わっているのではないだろうか。
 
・理想自己に向かって進捗がないと自分の人生、自分のあり方に対して「目標に進んでいない」感覚が起き、自身に対して怠け者、あるいは人生間違ってるかのような印象を持つことはある。
 
コンプレックス/劣等感の概念に近いだろう。あれも比較対象が自分の理想か他者かで2種類ある。理想の自分と今の自分とのギャップに苦しみ、結果現実自己に対しての評価は下がるという点では、理想自己は理想と自分との間に発生するコンプレックスと同じだ。
 
また、承認欲求も自己承認欲求、他者承認欲求がある。これも前者は理想自己と類似している。
 
・理想自己が高すぎる場合、現実とのギャップに耐えられないケースは存在する。どうしても「そうではない今の自分」を見るのが辛くなる。この結果として現在自己を嫌悪するとしたら、その状態は「自己評価が低い」と呼べるだろう。
 
達成動機(目標に対しての意欲、動機、やり遂げる意志)が高いのは「理想と現実のズレ」が大きい人間だ、という調査もある。理想が高いだけで悪いとは言えない。
 
・理想や目標そのものは永続するものではない。叶えるか諦めるか、どちらかの形で「終わり」がある。ただ、叶えた記憶があるなら恒常的にプラス評価、諦めた記憶はマイナス評価とはなり得るだろう。
 
・総じて「理想が高すぎる」と挫折・失望しやすく恒常的な自己評価の低下につながる。また、理想にかかわらない自分の評価点はあまり目に入らない。
 

-◆義務自己と自己評価

・理想自己は言うなれば「将来的にああなる」って感じだが、義務自己は「今できなきゃいけない」というニュアンスが強い。これは「今の自分」の立ち位置や状態の保守・維持に貢献するとされる。「望ましくない状態の回避のため」のもの。
 
・義務自己による自己評価は「否定的か否か」で行われる。マイナスかゼロかであり、プラスがない。それを果たし続けることに拠って「自分はこのままでも良い」という自己肯定感を培うことはできる。果たせないと逆になる。
 
こちらがやばい。「義務」だから。「できなきゃいけない」ってことだから。義務自己のハードルが高い場合、相対的に素の現在自己は合格点未満、無理をしないと「普通じゃない」。そしてできないのなら「このままで居てはいけない」と思わせる。この状況でありのままの自分を肯定するのは難しいだろう。
 
・総じて「義務が厳しすぎる」と自己評価の低下につながる。のだが、この「義務」がやたらめったら勝手に決まる傾向がある。気づいたら自分のことが大嫌いになってました、としても不思議じゃない。
 
簡単に言えば、失敗や嫌な目に合うたびに義務が増える可能性が発生する。「もう二度とああならないため」に。例えばあなたがパジャマで出社したとしよう。はい、次の日の朝から今まで自然にやっていた出社前の服装チェックはあなたの中で「義務化」されるだろう。何度も鏡で自分の服装をチェックするだろう。何度も何度も、何度も。
 
・厄介なことに、義務自己はあまり状況に対して変化しない、現実自己を意識しないと言われている。平たく言えば頑固。状況に適応して基準を緩めたりとかはあまりしない。「いついかなる時でも、自分はこうであらねばならない/これをやらねばならない」といった形になっていることが多い。
 
・重要な点だが、理想自己と比べて「強迫性が高い」とされている。そもそも人間の意思決定や行動理念に於いて「こうしなくてはならない・こうではなくてはならない」という形は、幼少期から続く非常に馴染み深いものだとされている。特に親からの注意・叱責などから「己の律し方」を学習しているとか。他者に制御された経験から自己制御を学ぶってこと。自分の動かし方。
 
また、動機としての「危険回避」は本能的に優先度が高い。
 
要するに安心・安全を求めるのは生物としての本能であり、そのための事前の対処としてすぐに義務化するのは人間のクセであり、その義務は「絶対に果たさせるため」に強迫性を帯びる。目的であるこの安心・安全が人間社会に於いては馬鹿にされないように、恥をかかないようにと言った形になる。
 
このためできなかった場合に自己への罰則や軽蔑などがリアクションとして付属する、あるいは経験からそれを連想する。つまり「義務」は「恐怖」に関連付けられやすい。
 
加えて義務自己に於いては行動決定の「資料」、つまりそれをやらねばならない/やるべきだと思う根拠としての記憶や思考そのものが強迫性を持っていることも示唆されている。簡単に言えば失敗した/叱られた経験などをやる前に思い出す、あるいは予測することで「自らにプレッシャーを掛け」、しっかりやらせようとする傾向。
 
・・・なんだけど、完全に裏目にでるよねこれ。人間簡単に緊張するからね。Eメール無呼吸症候群なんてのもある。メールの返事書こうとするだけで6~7割の人間が、緊張しすぎて息止まってるって話。そのくらい平常心は脆いし、それくらいの強さで普段から自分に色々と強いている。
 
あとは電話してる時に妙にリアルな影付きの球体とか立方体、あるいは意味もなくぐるぐるボールペンで線を描くのも「緊張をほぐすため」だと言われている。
 
・現に理想自己が満たされない場合に感じるのは自身に対しての失意・落胆だが、義務自己が満たされない場合は「恐怖・動揺」の感情が強いとされる。これはなにかやらかした子供が「親にバレたら怒られる」「みんなにバカにされる」と怯えている様に近い。
 
人間はこの環境を自身の内部で作り上げている。むしろこういった強迫的な義務感を持って自身の制御を行っている。
 
・さて、これらは自分の頭の中での話だ。義務自己が果たせなかった場合、当人は恐怖・動揺を覚える者であると同時に「恐怖・動揺を与える者」でもある。
 
自分が「しっかりやるために」、できなかった/やらなかった自分を責め続けることは不思議ではない。自己制御の名目で自らにプレッシャーをかける心理的モジュールが存在している。
 
スポーツ心理学のインナーゲームと呼ばれる理論では、叱責する自分をセルフ1、叱責される自分をセルフ2と分けている。「叱責」は当然ながら言葉を使うためセルフ1は言葉を用いるが、セルフ2は体を動かす非言語的な分野のため、あまり言葉が理解できない。
 
手段が言葉しかないセルフ1はセルフ2を制御しようと過剰に、強く叱責するようになっていく。そしてセルフ1が騒げば騒ぐほどセルフ2の緊張が増し、逆効果、という話。
 
・最大の問題は、恐らく自身の内部で「永遠に許されない」可能性があることだろう。義務なのでできて当然、褒められることはない。しっかりやったところで脳は「緊張させた・叱責したからだ」と「セルフ1の成功体験」だと判断する。義務は「緩和されない」傾向が強い。
 
自身に向けた嫌悪・疑い・叱責の状態こそが「自分がしっかり義務を果たせるコンディション」であると認知され、それが永続する可能性。つまり「自己評価を低くすることによって必死にさせる」。
 
「緊張させる」「叱責する」以外に自身をコントロールする術を考える必要があるのかも知れない。
 
・義務自己の場合、永続的なものになりやすい。追加要素はあるだろうが。「常にこうでなくてはならない」と言った形だからだろう。つまり「できて当然、できなきゃいけない」ことな上に「ハードルは上がり続ける」ことになる。
 
初老に差し掛かった人間が体力や認知能力の衰えを「認めることができない」傾向がかなり強いのもこのためだろう。これは「義務についていけなくなってきた」ことを意味する。誰だっていつかはそうなるわけだから、「義務の絶対視」を何とかするか、せめても定期的に状況・状態に合わせて更新するべきだとは思う。
 
 

-◆理想自己と義務自己

・明確に分けれるものではない、と思っておいたほうが良いだろう。色々レポート読んでもどう考えても理想自己が「義務化」しているケースが多い。この自然発生する「義務」は、自分をコントロールするために普段から使っているシステムなのだろう。
 
・理想と義務は同じものの別の側面である可能性も高い。
例えば「体を鍛えたい」とする目標があったとする。鍛えられた己の肉体のイメージは理想自己と言えるだろう。ではそこに至るまでの日々のトレーニングは、そのノルマは。これは理想と呼ぶよりは義務に近い。
 
理想自己にしたって単純に同じ物事に対しての「なりたい」か「なりたいならやったほうがいい」かの次元の違いがある。計画と実行。実行できるほどに具体性が増すほど、「やれるのだからやるべき」となりやすいだろう。
 
義務自己の場合はこれとは別に「自分はこうであり続けるべき」みたいな何処にも向かってない現状維持のためのイメージも含めるため少々ややこいが。
 
・ともかく実行フェイズに於いての理想・義務自己と現実自己との齟齬が自己評価の低下に繋がるのではないか。実行するということは、具体的に、わかりやすく、「成功か失敗か」に分かれるのだから。これはそのまま自己評価の加点か減点かに繋がる。
 
加えて「義務化」している場合は「できて当然」なのでプラスに票が入らない。感じるのは達成感ではなくて「開放感」だろう。宿題終わった時みたいなアレ。これは義務自己には自己評価が上がる要素が始めから無いということになる。義務化した時点で消耗戦になると言えるかも知れない。
 
・自己評価を下げたくないから挑戦したくない、という心理もある。これは理想自己と挫折に拠る現在自己の減点か。あるいは、自己愛とかがそうだが現在自己を否定し、理想自己が現在自己であると振る舞うタイプか。
 
逆を言えば自己評価を上げる/取り戻すための実績稼ぎには「理想自己」の達成の方が有効なのだろう。リスクは有るが、本来これは「プラスかゼロか」のハズなので、気軽に挑戦できるように普段から心がけたほうがいいのかもしれない。
 
と、いいたいところだが、「失敗するな」という「義務」があった場合、詰む。結構ありそうなんだよなこれも。完璧主義とか。
 
・義務自己の内容も認知の修正によって自己評価の向上に使える。要するに、今まで義務自己の内容は当たり前だと思ってたから加点対象にならなかっただけで、他人から見たら当たり前よりはすごかったり、継続期間は長かったりで何かしら評価対象となるポイントはあったりするかも知れない。
 
褒めるハードル下げることは方法の一つとして挙げられている。上記のように自分にとっては普通だが、実はこれって凄くないか、みたいなのを探してみるだとか。
 
例えば自分にとってすごいことを行っている人が居たとして、その人は「これくらい普通だろう」と言う、なんて状況があったとする。要は評価者や評価基準に拠って凄いか凄くないかは変わると言う話。
 
自己評価を上げたい場合はなんというか、「とりあえず自己評価を上げるつもりで自分を見ろ」としか言えないね。自分を見る目の問題が大きい。「発生源」は自分だ。他人が与えてくれるものじゃない。「自分を好きになる努力」と言ったほうがいいだろうか? 努力って言葉がもう義務臭いけど。
 
・総じて人間は、目の前にアメをちらつかせるか、ムチを振り回すかによって自己制御している。欲を煽るか不安を煽るか。唆すか脅すか。他人にこういう手段を気軽に取るのは他でもない、自分をこうやって動かしてきたからなのだろう。
 
できない場合は自己評価が下がる。自己制御のシステムそのものが安らぎとは程遠い。かといって「野生の人間」なんて社会に居場所はないだろうし。どのみち塩梅は気にしたほうが良いだろう。既存の自己制御のシステムは無理をさせることが非常に多い。
 
で、塩梅を気にするとしたら、結局の所「周りと比べて自分はどうか」に行き着く。現在自己がそれ以上なら頑張らなくていいわけで。実際にほとんどの人間は日本一だとか世界一だとかどこまでも上をとかを目指しているのではなく、平均値プラスマイナス1程度が合格ラインだろう。特別執着していない物事であればあるほどこの傾向は強い。
 
また、義務自己の「不安を煽る」というのは広告の世界では常套手段でもある。コンプレックスを刺激し、必要性を強調し、商品を買わせる。購入するのは実質的には商品ではなく「安心」つまりは「不安からの開放」だ。だがそもそもの「不安」が煽られた部分もある。
 
とかく、人はこうして「動く」わけだが、義務自己においてもそのハードルの高さは疑ったほうが良いかも知れない。世間か自分かに「煽られて」ハードルが上がった義務の可能性。
 
加えて理想自己と現実自己の差異も、必ずしも悪影響とは限らない。その差異をポジティブに捉えている場合、やる気に満ち、達成意欲は強い状態となる。
 

◆自分か他人か

・自分の価値観での評価なのか、他人の価値観での評価なのか。
 
・どちらが正しい、どちらが間違っている、という話でもないだろう。優秀で卑屈な人間も、無能で尊大な人間も、どちらもいるのだし。
 

-◆自分が行う自己評価

・これまた綺麗に分けれるものじゃないだろう。価値観という概念自体が一人で作るものでもなく、周囲からの学習の要因がある。他人に認めてもらうために自分を磨きたい、とかもあるわけだし。
 
・自分が自身を評価する、自己評価としては自然な形である。ただ、その価値観は何処から来たのか。自分で勝手にこれは良しとする、これは悪しとする、なんてことは大抵は表立ってはやらないだろう。自分の価値観自体にも他者を想定した説得力や整合性、社会的基準に則しているかどうかは気にする傾向自体は元からある。
 
要するに、「自身を見る目」そのものが社会や他者とのやり取りや関わった感想から学習した基準であると思われる。
 
誤解を恐れずに言えば、自己評価なんぞ本来インチキし放題のはずだろう。審判自分なんだから。でもそういったことはほぼやらない。やっていた場合はメタ認知できてないとか性格悪い・頭おかしいとかの人間失格扱いでボロクソに扱われるだろう。
 
自己評価を一定に保つため比較対象や評価基準を弄る心理的モジュール/バイアス自体は観測されている。今の自分を肯定するために過去の自分と見比べる、だとか。ポリアンナ症候群のように問題点が一切見えなかったり自分より不幸な人間を探して安心するだとか。
 
つまり相手を選んで勝てる勝負をするなどの「細工」をしてまで自己評価を保つ機能自体はあるし、強弱の差こそあれ、人によっては常時稼働していると言っていい。でも「意識的には」ほぼ絶対にこんなことはしない。なぜか。
 
これは、少なくとも意識的には「自分が社会に適応・通用するように」自己評価を行っているからではないか。客観性を採用する理由が他に見当たらない。自己評価を高い状態で保ちたいだけのなら、天上天下唯我独尊じゃないとおかしい。
 
つまり「自分が行う自己評価」の判断基準の中には、「自分が社会に通用するか否か」が要素の一つとしてあり、それに合わせて自身を「調整」するための機能ではないか。これだと想定する「社会」のハードルが高ければ高いほど現在自己はそれを果たすハードルが上がる。それが「日常」になるのだから、まぁ躓くことはあるだろうね。
 
・理想自己については、「期待」があるだろう。理想に近づくこと、理想を叶えることを自身に期待する気持ちが。これが叶えられそうもないと知った時、人は自分に失望するだろう。
 
・義務自己については、前述の通り社会・コミュニティとの軋轢を発生させないため、馴染むための(つまり自分の集団内における存在価値の確保のための)自己制御に近い。それができなかった場合には何らかの形での「他者からの攻撃・排除」が予測される。やばいね。義務自己と現実自己にギャップがある場合人は「恐怖」を感じるとは、こういうことではないか。ちなみに恐怖の他には不安、強迫感、緊張、罪悪感、動揺が挙げられている。
 
要は、自身に行う評価自体が「社会性」、つまり他人の目を前提としているのではないか。
 
まぁ、相対性を取っ払った主観的な評価なんて好きか嫌いかしかない気がするが。それにしたって大抵の場合、「根拠」を求めるため、無条件で自分を好きにはなれないのが難儀なところか。
 
・自分を好きになりたい→好きになれる要素を作ろう・探そう、という思考も回りくどく見えなくもない。まず好きになる、ということがどうして人間にはできないのだろうか。
 
思うに自分の心の中も自由・万能ではないのだろう。証明性というか客観性というか、自分に対してすらそれを提示する必要を人間は感じているように見える。
 
一休宗純は「どうしたら幸せになれますか」と訪ねた若者の胸ぐらをつかんで「幸せになれ!さあ幸せになれ!今すぐ幸せになれ!」とか喚いたなんて話がある。キチガイの可能性を除けば、「実際に根拠なくそうなることは可能である」ことの示唆とも取れる。きっと、「どうしたら自分を好きになれますか」と訪ねても同じようにしたのだろう。まぁ、我々凡人には難しいだろうなぁ。
 
よしんばできたとしても、それで自分を好きになれたとしても、おそらくはどうしても「こんな方法でいいのか」とか自問するものと思われる。「根拠」がないと不安なわけだ。「他人」が納得してくれないだろうからね。
 
 

-◆他人から作った自己評価

・「他人」と言う概念は社会的なものだ。まぁ人間が複数いるなら、敵対関係でもない限りはいくらか「合わせる」必要があるのだし。この時点で他者の価値観、他者から見た自分などは意識せざるを得ない。
 
・自己評価の「参考資料」が他人にこう扱われた・こう言われたから自分はこうなのだ、などの経験・記憶から形作られた場合、それは「他人の価値観、他人の視点、他人の扱いから作った自己評価」に他ならない。
 
あくまでも「参考資料」が他人のリアクションなのであり、他人がどうこう言ったからってそのまま自己評価にはつながらない。頭ごなしに人格否定されたからと言って、そのまま受け入れはしないだろう。まず最初には反発が出る。図星だったとしてもね。
 
ただ、「そう扱われる」事によって「そうだと思いこむ」ことは結構観測されている。例えばピグマリオン効果。教師が期待することに拠って子供の成績が上がり、期待しないことに拠って落ちる現象。
 
また、認知能力が低下した老人を周囲が「ボケ老人扱い」することによって悪化するとも言われているし、発達障害児の成人後の幸福度は、親がその子の発達障害に対してそれまでポジティブな態度かネガティブな態度だったかの影響が大きい、なんて話もある。
 
要は「他者が自分をこう評価しているのだから、少なくともそう思わせる要素は自分の内にあるのだろう」という認識。あるいは「自分が所属している集団の【普通】はこうだから、自分もこうでなくてはならない」という義務の作成。これらで自己評価を行うことになる。
 
・自己評価には本来は「主語」が存在する。◯◯から見たら自分はこうだ、◯◯に於いては自分はこうだ、のような限定的なものだ。実際長所短所は誰にだってあるし、野球で役立たずでも将棋で無敵かも知れない。それが何故か「自分の存在はこうだ」「何に対しても自分はこうだ」と何故か主語が「自分」にすり替わりやすい。
 
認知の歪みで「過度の一般化」というものがある。拡大解釈というか、1を元に10を語るというか。これもそれなのかも知れない。
 

◆メモ

・自分嫌いについてだが、理想自己の場合失望こそすれ「嫌い」とまではならないと思われる。嫌い=現状の否定をするとしたら義務自己の方が原因としては怪しい。理想を叶えられない自分が嫌いな場合、自覚の有無は知らないが、ほとんどそれは「義務化」していると思う。
 
理想自己を果たせない=現状が嫌い、あるいはせいぜいが「今の」自分が不満
義務自己を果たせない=自分が嫌い、自分はここにいてはならない
かな? 暫定。
   
・「義務」の集合体が、あるいは義務を果たしている自分像が義務自己だとして、その構成要素たる義務がそれぞれ矛盾している可能性がある。「挑戦し続けなくてはならない」義務と「失敗してはならない」義務だとか。
 
総じて「真面目で、責任感のある人」たるパーソナリティは、速攻で義務化してそれを果たそうとするスキーマを所持していると言えなくもない。そしてこのような人は心身を病みやすい。自分で自分にかけているプレッシャーが強すぎる。なきゃないでアレだけど。
 
・余談だが、アメリカの学生を対象とした調査では、理想自己の構成内容は身体的魅力、他者からの人気・尊敬、職業や知性など「人目を引く」ような外面的要素が多かった。反対に義務自己の場合、優しさ、思いやり、正直さ、公平さ、寛容さ、勤勉などの内面的要素が挙げられている。
 
・・・どう考えても日本人が喜んで大事にしそうなのって後者だよな。加えてこれらは義務自己の要素、「義務」であり、日本人もまたこれらが「できてなきゃいけない」と思っているとしたら、ハゲたいのかお前らは。
 
ハゲは置いといて真面目な話、これらが義務自己でありなおかつ現在自己と乖離している場合には、この義務的人間像を「演じる」必要が出てくる。「今すぐできなきゃいけないから」。
 
でまぁ、色々こう、人の話を聞いてるとだね。実際にそういった「演技」に罪悪感を感じたり、心の底からはそうではない自分が嫌いだったり、演技「してしまう」自分はサイコなのかと悩んだり、演技であることがバレちゃいけないと必死で取り繕ったりだとかは、結構いるようだ。
 
インポスター症候群(自分が周囲を騙して不当に高評価を得ているのではないかという不安)が「誰にでも起こり得るもの」というのは、人間が普段からしてちょっと「背伸び」しているためだろう。
 
人間はある意味、自分を偽るのが常であるのは間違いない。それ自体は別に悪くはないだろう。「制御」を「偽りの振る舞い」だと思っているだけだろうから。方向性/動機自体は理想自己の場合は自分のためになるし、義務自己の場合は社会的に歓迎されるものだし。
 
ただ、特に自身の人間性や感性、思考回路が義務化して「今すぐに、常に、そうでなくてはならない」といった強迫性に押しつぶされそうになっているようにも見える。意識的に「気を抜いていい場面」を作った方が良いかも知れない。
 
当然ながら、質と頻度は問われる。理想を叶えて「こんなはずじゃなかった」と思いたくはないし、義務を果たして周囲にクッソ嫌われるとかじゃ本末転倒なわけだ。だがこれらは絶対視されやすく、暴走しやすいようにも見える。
 
また、これが他者に投影された場合にはヒステリックな自治厨になる。まぁ割といる。「義務」が個人を超えて周囲に溢れ出している状態。
 
・自己認知の複雑性と言って、元から「自己」の概念は多面的なものであるとされている。そして肯定的自己複雑性が高い(自分を肯定する要素が多い)ほど「打たれ強く前向き」な傾向があるとされている。
 
簡単に言えば、何かしら失敗して一瞬「自分はだめだ」と思ったところで、ダメなところばっかりじゃないことをすぐに思い出せる、という話。
 
逆を言えば自信のコアというか、自尊心的な意味での「心の支え」の、質ではなくて「数」が少ないほど「脆い」と言える。
 
こうなると月並みではあるが、「成功体験を積み重ねて自信を培う」ことは重要だろう。
 
自信そのものは割と激しく上下するものだ。それは現実をしっかり認知している証拠でもある。自信は上下するから取り戻しても無駄、というわけでもなく、もっと基礎的な「復元力/回復力」を鍛えるという視点では自信をつけようとする行為は全く無駄にはならないだろう。
 
反対に、自己評価が低い人は、復元力を上回る「継続的なダメージ」を与えるような、そんな強迫的かつハードルが高い「義務」があるのではないか。
 
あるいは、自己評価にはある種の恒常性があるのだが、その水準が元から低いか。この場合は尚更に自分の「実績」に目を向けるべきだろう。
 

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