余計なお世話 迷惑な親切 しつこい メサイアコンプレックスについて
最終更新 2017/04/20
■目次
■メサイアコンプレックスとは
■注意
■概要
■メサイアコンプレックスの言動
■メサイアコンプレックスの本質
■「親切」とは何か
■メサイアコンプレックスの対処法
■メサイアコンプレックスとは
・メサイアコンプレクス(あるいはメシアコンプレックス、救世主妄想)とは、他人に感謝されることに自身の存在意義を見出す
承認欲求をこじらせ気味の人間のこと。
・目立つ言動としては、「普段はやたらと綺麗事を口にするが現実に直面するとすぐ投げ出す」。
・もしオスカー・ワイルドの「幸福の王子」を知っているのなら、その王子だと言えば早いだろう。
早いとこエジプトにいかなければ凍死するツバメを泣き落としで引き留め続け、なし崩し的に王子に付き合ったツバメはどうなったか。
・視点が自己中心的であるため、やったことが「余計なお世話」になりやすい。
・他人からしてみれば「重い」こともあり、避けられることも少なくない。
・他人を「かわいそうな人」扱いし、援助しようとする。
これはまともな人間からしてみれば屈辱以外の何物でもない。
・「誰でも出来ること」をわざわざ先回りしてやって親切ぶる。
他人の仕事を遮ってまでだ。
・人のやっていることに対しては思いつきで口を出す。
言い方も
「それでいいの?」
「大丈夫?」
など不安を煽るような言い方をする。
これには自分を売り込むという無意識的な「狙い」がある。
これは「どうでもいいことを大問題に仕立て上げる」ことを意味する。
そして忘れてはならないが、彼らは「現実に直面すると投げ出す傾向が強い」。
簡単に言えば、他人の抱えている問題に対して、不安を煽ったり大騒ぎにした挙句、本人は逃げる事が多い。
・上手いこと昇華して医療関係者などになることもある。ただ、現実とのギャップで突然やる気が無くなるといったこともあるらしい。もっとも、元からキツイ仕事だからこれだけのせいとはいえないが。
・動機は劣等感や悩みからの逃避というエゴだが、「無私」あるいは「自己犠牲」の態度をとる。
他人を巻き込んで。
前述の幸福の王子のツバメのように、他人を「道連れ」にする結果になることも在り得る。
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■注意
・このページは「自分がメサイアコンプレックスなのではないのか」と考えている人間に向けられたものではないことは明記しておく。
まぁそう思えるだけの
メタ認知能力があるならその衝動を良い方向に持っていったり、抑えて周りとの調和を意識したりは十分可能なはずだ。
他の「優しい」サイトに行って、自分がやっていることが他人にどう見えていたのかを考えてみることから初めてみればいい。
その後調整。
・このページは話が通じないレベルの「手遅れ」に悩まされている被害者に向けてのものだ。
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■概要
「弱者」を飼い殺し、ときには作り上げ、「そのままでいさせようとして」、自分を崇めさせようとしているからだ。
尚且つ自覚がなく、つまりは改めることがない。
この点は共依存にかなり近い。というか、共依存はメサイアコンプレックスだろう。
自分は善人だと信じて疑わないからそのままで居続ける。
勘違いして(あるいは騙されて)いる人間が多いようだが、「悪気はない」のと「悪くない」のは全く違う。
メサイアコンプレックスは「悪気はないが悪い」典型的な例だ。
そもそも相手に対しての関心があまりないから「悪気すらない」。
だから余計なお世話を止めない。理解されなければ相手が「ひどい人」だということにする。
相手からしてみれば、受け入れればダメ人間にされ、拒絶すれば悪人にされる。迷惑以外の何物でもない。
メサイアコンプレックスの行動は、自力で生きていこうとする者にとってはやることなすこと全て「迷惑」「邪魔」であり、縁を切ろうとしてもつきまとう。
また、メサイアコンプレックスの地に足の付かない理想論、いらないおせっかいに賛同しない/拒絶する者は無理解な「悪人」とされ、同類の「信者」達と共に攻撃される。
「自分の人生を生きようとする者」にとっては、かなり迷惑だと言っていいだろう。
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■メサイアコンプレックスの言動
・発言としては、
「あなたのため」
「やってあげた」
「かわいそう」
「心配だから」
と言った口ぶりが目立つ。
基本的に同情するような言動と、押し付けがましい「やってあげた」「心配してあげた」という上から目線の言葉が目立つ。
心理的には自分の行動の合理化、つまりつじつま合わせだろう。
また、同様に他人の問題に首を突っ込む言い訳でもある。
一応言っておくが、「この言葉を使ったらメサコンだ」という話ではない。ただし、普通の人間よりこれらの言動がかなり多い。
・「困っている人」を必死になって探している。そういった人間を見つけると、比喩でなく「駆けつける」勢いで首を突っ込む。
・彼らは出番に餓えている。
困る前から手を出したいので「先回り」が非常に多い。
誰でも出来るようなことをやった上で「やってやった」と言えるからだ。
これが相手の目には「いらない親切」「余計なお世話」に映る。
・重症だと「困っている人」を「作る」ようになる。
問題ないことに口を出し問題を捏造したり、「かわいそうな人」に仕立て上げた上で「助けてあげよう」とする。
簡単に言うと「何とかして相手のダメな部分を見つけようとする」。悪化するとでっち上げる。
・「代理ミュンヒハウゼン症候群」が分かりやすいだろう。自分の子供が病気であると”設定”して、「それを治すために必死に頑張る親」を演じるために”医者巡り”をする症状だ。
これは自分を見せびらかすための行為だ。
・子供は親に迷惑をかける罪悪感や、本能的に信頼している親が必死になっていることから本当に「自分が病気だ」と思い込み、現実に心身を病むケースも有る。
・「困っている人を作る」タイプのメサイアコンプレックスは身近な人間同士の例が特に問題視されている。親が子へ、あるいは夫婦間で。逃げ場がないので深刻化しやすい。
・具体的には親が子供の問題点しか見ようとせず、それについての解決のために大騒ぎをするなど。
これらは子供の引きこもりの原因になったりもする。そうなった原因である「犯人」はそれをダシにして一番苦労しているツラをしているわけだ。
・この場合、彼らはターゲットの面倒を見ようとはするが、プライドはズタズタにする。
あくまでも「ダメな人間の面倒を見ている高尚な自分」をアピールしたいのであり、そのためには「ターゲットがどれだけダメか」は他人に宣伝する必要があるからだ。
子供が引きこもりになるのも分かるだろう。
・要するに口が軽くておせっかいな人間は危ない。
・実際、不登校の子供の親や先程の代理ミュンヒハウゼン症候群などに対して、医者が「親がカウンセリングを受けるべき」という結論になることはある。
別に珍しい話でもない。精神科医の本などには、こういった「親が子供に取り憑いていた」という話を見かけることがある。
・特に親は子供に対しては万能だと錯覚しがちだが、「親」としては所詮初心者であることを忘れないほうが良いだろう。自惚れた押しつけを続ければ後悔することになる。
・メサイア(救世主)の名の通り、新興宗教の教祖となるケースもあるにはある。だが、現実には「熱心な信者」になるパターンのほうが多いらしい。
・特に熱心な勧誘により教団に貢献しようとする傾向があるそうな。これらは教団には都合がいいだろう。新しいカモを連れてきてくれるんだから。
が、本人が救われることはない。また、熱心な勧誘なんて相手からしてみたら押し売りのセールスマンと変わらない。
・宗教ならこれで済むが(良くはないが)、例えば怪しいセミナー、マルチなどでも「これはいいこと、相手はそれを分かっていないだけ、教えてあげよう」なんてノリで「熱心に」勧誘してくるケースもある。
・基本的に重症だと話が通じない。彼らに対して異議を唱えれば「残酷」「冷酷」と悪人扱いされるだろう。
・ボランティアには参加したがる傾向が強い。だが……。
・「感謝されている自分」を夢見ているだけなので、途中で投げ出す傾向も強い。
クオリティが低い、と言った方がいいか。簡単に言えば「親切」が絶望的に下手。そしてそれで満足しているから上達を一切しない。
・震災のボランティアでちょっと問題になったのが、「自分の食料や寝床などを全く準備しないで来た奴」がそこそこいたようだ。
「助けてやるんだから用意されて当然」という態度で、そういった物が「準備されている」と思い込んでいたのだとか。
・「支援物資」で一番迷惑なものは千羽鶴だって話は知っているだろうか。
配送する量も限られている中で実際に役に立つようなものを押しのけて邪魔な紙くずが届けられることをどう思うだろうか。
ご丁寧に小学校で教師が生徒に千羽鶴を折らせたなんて話もある。
相手からしてみれば、邪魔だから廃棄したいけどやったら呪われそうだからすごい迷惑、とのこと。
あくまでも「震災直後の千羽鶴」が迷惑でしか無い、という話だが。
・また、賞味期限切れのカップラーメン、穴の開いた鍋、履き古した靴など、ゴミにしかならない「支援物資」もあったらしい。
ゴミ処理じゃなければこれらは「親切」で送られたことになるわけだが、これが侮辱以外のなんだというのだろうか。
・エゴからの善意なんてこの程度だ。「質」が高ければ「やらない善よりやる偽善」といえるだろうが、これでは「なにもしないでくれ」というレベルだろう。
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■メサイアコンプレックスの本質
・結局のところ、彼らは「誰かの一番」あるいは「皆の一番」になりたくて、そのための「出番」に飢えている。
他者承認欲求をこじらせているのは間違いない。
・行動面においては基本的に、自分が全ての瞬間において「主人公」であろうとする。
他人の迷惑になっていることに気づけないのは自分が目立つことしか考えていないからだ。だから実際の言動は相手を押しのけて自分が出しゃばるようなことになる。
・やることなすこと全てが相手が元から出来るようなこと、やろうと思っていたことの「先回り」であり、
アンダーマイニング効果と似たような「やる気を奪う」結果になる。
・相手がダメになればなるほど加害者しか縋れるものがいなくなり、つまりは彼/彼女らはそれによって満たされる。だから「困っている人」を”作る”ことに熱心である。
・内面においては、例のごとく
「劣等感」があるとされている。強迫観念と言っていいだろう。人の役に立たなければ自分には価値がない、という思考。
これは
完璧主義者が完璧であろうとしていることと酷似している。
・
※アイデンティティの危機※を常に感じているため、その必死さはかなり強い。
言い方を変えれば、彼らの頭のなかでは「それ以外の生き方は考えられない」。
・たちが悪いのが、自分の妄想が善だと疑わないことだ。迷惑だと告げてもやる。「あなたのためだから」と。
・結局のところ、やっていることが「自分の思い通りにやる」事に終止している。相手のためと言いながらも、相手を一切見ていない。
・一番ダメなのは当の本人であり、そのため「自分を助けてくれる人」を作ろうとするタイプも居る。
そのための洗脳、布教活動に余念がない。つまりは「善」の概念を都合よく汚染、捏造する。
「自分みたいに人間には助けが必要だし、あなたは私を助けるべきだ」と。
ルールやモラルを方便として他者に何かを強要する点は自己愛と酷似している。
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■「親切」とは何か
・親切とはなんだろうか。メサイアコンプレックスがやることが「迷惑」ではなく「親切」ならば、彼らの望みどおり感謝されるだろう。
だが、現実には毛嫌いされたり怒られたりとかするわけで、彼らのやっていることが「親切」にはなっていないことは明白だ。
・個人的には「相手のためになること」が必須条件だと思う。メサイアコンプレックスのやることが「空回り」なのは本人が「やりたい」だけであり、相手のことを見ていないからだ。
・彼らは相手にとって本当にためになるのか、助けになっているのかの「確認」をかなり軽んじる。
この確認には通常時間がかかる。相手の為の行為でも、相手が怒ったり嫌がったりはあるからだ。
子供を歯医者に連れて行くことをイメージしてみれば分かるだろう。
虫歯のこどもが泣いて嫌がるようだったら、騙したり無理矢理にでも歯医者に連れて行くかもしれない。
逆に子供の意見を優先したら、もっと酷いことになる。
歯周病菌が心臓病のリスクを挙げるという話もあるし。
こう言った「たとえ相手に恨まれてでもやるべきこと」のような偽装をメサイアコンプレックスがすることもある。
と言っても、本来の目的は「過剰な感謝をされること」なので、それで事態が悪化した際の言い訳としてだが。
メサイアコンプレックスは相手の拒絶はこういった「あとできっと分かってくれる」ことであると思い込む・言い張るか、「自分はいいことをされたのに攻撃された」と判断する。
どの道、そのまま嫌がらせを止めない。
限界が来て、相手が本気で怒ったりすると簡単に
認知的不協和になる。大抵の場合は大げさに傷ついたふりをするか相手を無理解な悪人として扱う。
・端的に言えばエゴを満たすために他人を利用している。他人に寄生しているとも、他人の人生を食いつぶそうとしているとも言える。
・まともな人間なら彼らのことを拒絶するだろう。彼らに対しての拒絶、嫌悪の感情はつまり警戒して自衛べきであるという本能的なものだ。
だが、分別のつかない子供だったらどうだ。前述の通り汚染されるのが目に見えている。そして、親と同じことをするだろう。
・そうじゃなくても我慢して「いらない親切」を受けているうちにダメ人間になっていく。忘れるなかれ。
共依存者に付きまとわれた人間は時に精神を病むことを。
・親切とは相手のためにならなければ成立しない。親切にした側にメリットがあるかどうかは別の話だ(彼らは賞賛や感謝と言った見返りを求めるが)。
そしてそのためには相手の身になって考えることは必要になる。
動機が感謝されたいというエゴなのだとしても、それが本当に相手のためになるのなら誰も困りはしないだろう。
メサイアコンプレックスの言動はその点において欠けている。
・くどいようだが、それでも本当に誰か助かるならまだそれでいいだろう。
現実に嫌われるのは「いらない親切」な上に「しつこい」のが問題だ。
だが彼らは相手のことは殆ど見えていない。それが本当に助けになる確率はかなり低い。そもそもそこまで困ってるやつがそんなにいない。「出番がない」から「作る」。
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■メサイアコンプレックスの対処法
・彼らは決して、「優しさが空回りしている人」ではない。動機は優しさではない。
・彼らのやっていることは、回りくどいが本質的には
マウンティングと変わらない。
「上から」「見下ろしたい」、あるいは「下から」「見上げられたい」のだ。
そうするときだけ彼らは癒される。そうする、そうされるだけの価値が自分にはある、と。
・余計なお世話で済めばいいが、ダメ人間にしようとしたり、要らない先回りで一々邪魔をされては堪ったものではない。完全に人生の邪魔となる。
・人間は「自分の人生をコントロールしている実感」を感じている時に充実感を得る。
彼らは他人のその機会を奪い、彼ら自身は他人をコントロールしていることに充実感を得る。
自己愛を「精神の吸血鬼」と呼ぶことがあるが、それと大して変わらないだろう。
・「悪いところばかりを見て問題を作り上げ、自分を売り込む」という点に注目したい。
こういったとき口にするのは「あなたのため」「心配だから」とかそんな感じだが、これは言い方を変えれば「私が必要だろう?」「お前は一人じゃダメなんだ」となる。
モラハラ加害者と全く同一なのが分かるだろう。
・自己愛や共依存の対処法には「距離を取れ」「逃げろ」というのがあるが、メサイアコンプレックスにも同様のことが言われている。
曰く、話が通じない。論じても無駄だ、と。
・根本的な話だが、彼らの劣等感を、彼ら自身が克服/昇華しない限りはどうしようもない。
他人に指摘されても
※認知的不協和※になるだけでは会話は通じない。
そもそも彼らは人の話は聞かない。彼らを救うものは彼ら自身しかいない。
・このあたりのことは他サイトでも言われていることだ。
まず自分が「人を助けていいぐらいに自立しなければならない」。
それでない限り、他人を助けることはただの現実逃避であり、その先には何もない。
彼らのやっていることはせいぜい心中相手を作っているだけだ。
・だからこう言われている。「メサイアコンプレックスの者はまず自分を救え」と。
多分本人にもどうしたら良いかわからない状態だから、メンタルヘルスでカウンセリングを受けるなどする必要があるのだろう。
そして「まず自分を救え」というのは被害者にも言えることだ。
加害者の心配やら矯正やらを考えている場合でもないだろう。
他人にできることはない。距離を取れ。逃げろ。
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