◆公正世界仮説・自己責任論による被害者バッシング
2018/01/07 加筆
・人は安心して生きていきたい。それを揺るがした者を許さない。
・
認知バイアスのひとつ。公正世界誤謬とも言う。誤謬とは、簡単にいえば間違った不十分な理屈。公正世界信仰、と言ったほうが正確な気もするが。
なんで「仮説」なんてついてるのかよくわからんが、英語の just-world hypothesis のhypothesisは仮説以外に仮定、前提という意味がある。これの場合は「前提」という意味で捉えたほうが良いだろう。この世は公正な世界である、という前提でものを見る、という認知バイアス。それ以外は認めない傾向がある。つまり理不尽や無意味な不幸にすら意味を見出そうとする。
調べた感じでは認知バイアスレベルで「世界観」となっている場合と、信念(笑)と言うか望んでそう思い込もうとしている状態とに別れるようだ。やること同じだけどな。
これは無邪気な祈りでも楽観的な世界観でもない。暴力的強迫的なヒステリーに繋がる。大人しければ無害、メリットもあるんだけれど。
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概要
・この世界は正義が最終的には報われ、悪は必ず裁かれるという妄想。
・これにより公正世界仮説の信者は自分の将来に対してポジティブなイメージを持ちやすい。
・反面、すべての出来事に意味や理由を求める。なければこじつける。
・これらの動機は何が起こるかわからない世界に対して「法則の捏造」を行うことにより、偽りの安心を得るためだ。「自分はどうすればいいか知っている」と。
・結果、理不尽な目にあった者、不幸な者に対して「お前に落ち度がある」との被害者バッシングに繋がる。そうしないと捏造した世界観と辻褄が合わず、「夢から覚めてしまう」から。
まぁ、見慣れてるだろう。念を押しておくが、認知バイアスだ。思考回路じゃない。無意識下で起こる。
公正世界仮説を信じている人間ほど目標が高い
まぁこれは簡単だろう。「努力は必ず報われる」と思っている。そういう世界だと思っているということ。
子供の頃の夢は何だった? パイロット? パティシエ? スポーツ選手? タレント?
じゃあ今の夢は? 目標は?
なぜ以前の夢から変えた? 「現実を知った」からだろう。無理だったり、それどころじゃなかったり、なんか色々間に合わなかったり。単純に他に好きなものでも出来て興味が薄れたってのもあるかもしれないね。
要するに色んな意味で「現実を知らないから夢を見れる」。まぁ、良いか悪いかは一概には言えない。そのまま叶える人間もいるにはいる。努力の分だけ伸びる時期はいくらでも頑張れるだろう。人は報われたいし、報われないならなかなか続けることは出来ない。
ただ、言って置かなければならないのは、公正世界仮説にまつわるすべての話に言えることだが、個人の頭の中で終わらないということだ。
後述するが、罵倒、侮辱、強制、敵意に簡単につながる。
信じていたい世界観
公正世界仮説の世界観は、基本的に「因果応報」、「自業自得」。これはネガティブな物に限らず、ポジティブな物も含める。
例えば前述の「努力は報われる」を初め、「善行は報われる」、「善人に不幸は起こらない」、「善行を積めば運が向いてくる」など現実には理不尽かつ強迫的・暴力的、何より競争により明確に勝者と敗者が別れることも多い世界に於いて「こうしていれば大丈夫」と思い込むための一種の「信仰」がそこにはある。ドグマ、つまり教義と言ってもいい。
また、個人的な意見だが人間のほとんどが以下の思い込みを持っている。いや・・・、思い込もうとしているのか。
1.自分に老いは「まだ」訪れない
2.自分に死は「まだ」訪れない
3.自分に「理不尽な不幸」が訪れることはない
4.なぜなら自分は中の上程度には「規則正しくまとも」であるからだ
口ではどう言っていても、万事に備えて保険に入っていても、現実にひどい目に合えば「なぜ自分がこんな目に合うんだ」と人は問うだろう。
もっと分かり易く言う必要があるかもしれない。4が全てを物語っているが、これらは要するに「不幸とは"天罰”であり、まともな人間には訪れない」という認知だ。
知っている限り全ての人間が世界に対して「勧善懲悪」を望んでいるし、自分は「善」の側であると認識している。最善ではなくて中の上程度のね。だからどんなクズでも自分はいくらかまともだと思ってる。これは簡単に捏造できる認識だ。なにせ自分より屑なやつを見つけりゃいいんだから。「そいつがひどい目に合わない限りはそれよりましな自分は大丈夫だ」と思えるわけだ。
ボケたジジイがブレーキとアクセル踏み間違えたっていう、たったそれだけの理由で潰れて死んだ人間もいるんだぞ。それが天罰かね。
正直に心の中を見て欲しい。そんな事故で死んだ人間が過去に殺人でもしてたら、一種の「納得」をしないか? じゃあしょうがない。じゃあそうなって当然だ、って。「それは罰が当たったんだ」って納得の仕方をさ。
あるいはそんなニュースを見た時に、「被害者は死んで当然の人間だったのではないか」と一瞬でも思いはしないか。それを肯定するような情報を探しはしないか。マスコミがなぜ「被害者がどんな人間だったのか」をモラルを置き去りにして報道すると思う? 受けがいいからだよ。求めている人間が多いからだ。半分は上記の理由で。もう半分は、まぁ同情ポルノだろうね。
恐らく被害者が1人で、尚且つ理不尽な出来事であればある程この傾向は強まるはずだ。
「あんな時間にあんな所で1人で歩いていたのが悪い」「あんな連中と付き合うから」「親の躾が」「罰が当たったんだ」、これら被害者に吐き捨てられる言葉はそのまま自分への「だからそうじゃない自分は大丈夫」「自分とは関係ない」という言い聞かせに終止する。
このようにして公正世界仮説は理不尽や悪意を「それじゃあそうなって当然だ」という帰結に持っていこうとする。全て自業自得、因果応報、天罰として終わらせようとする。それが通らなかった時、そのフラストレーションは初めて加害者に向く。だが、そこにも公正世界仮説というバイアスはかかる。
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「鬼の子」
加害者を見る目にもこのバイアスはかかる。割と昔から言われてることだが、何人か死ぬような事件を起こした犯人が幼少期から「異常」だった、なんて話を人は求める傾向がある。
子供の時からおかしかった、普段から異常だった、あるいは発達障害だ、精神異常だ、薬物中毒だとか。果てはアニメの影響を受けた、ゲームの影響を受けたとか。
アニメ・ゲームがやり玉に挙げられるのは簡単な理由だろう。子供をそれに近づけさせなければ「うちの子は大丈夫」って錯覚できるからだ。言っとくがアニメやゲームの影響受けて事件起こすような知能の奴ならタラバガニ食った経験からバラバラ殺人事件起こすこともありえるぞ。妄想で安心してる場合かね。しっかり情操教育したらどうだね。何かのせいにしてヒステリー起こす割に手抜きだよなあいつら。
必死で「理由」を探す。これについては「犯人が“人間であってほしくない”」という願望があることが示唆されている。まぁ簡単な話だよ。犯人が「人間」だった場合、自分の周りの人間が警戒対象になる。また、自分や身近な人間が似たようなことをやる可能性を持っていることにもなる。「世界が壊れる」。そんなこと考えたくないから、「これはレアケースだ」ということにしたがる。
まぁ頻度で言えば確かにレアケースだろうけどね。
要するに、加害者に対しても「どうか元からイカれてたキチガイであってくれ」というバイアスがかかる。そういった情報を探す。なぜなら「普通の人間」がこのようなことを起こすというのなら、自分の日常は非常に危険に満ちている事になるからだ。また、些細な恨みを買う程度なら誰だって経験があるだろう。相手がまともとも限らない。「自分は殺されるかもしれない」ことになる。
これらの恐怖をなかったことにするために、犯人は元からイカれてて欲しいわけだ。「普通の生活を送っている自分には縁のない話だ」と思うために。ピアノの音がうるせえって理由で刃傷沙汰になったとかあるけどな現実世界は。
また、サイコは社交性が高くて口がうまいやつのほうが多いらしいが。
公正世界仮説の正体とは
この認知バイアスの本質とは、「ルールが“存在しない”物にルールを見出そうとする」点だ。本能レベルで生物にはこういったものを模索する思考ルーチンがあるらしい。ボタンを押すと二回に一回の確率で餌が出るという仕掛けがある箱に鳥をいれた所、鳥は餌が出る前にやっていた行動、例えば一周回ってからボタンを押したらでたらそれを何度か繰り返すなど、「ジンクス」めいたことをやりだしたという実験もある。
つまり何らかの「攻略法」を見出そうとする。そして起こってしまったことに対しては納得したい、理解したい。「安心」するために。わからないままでいたくないからこじつける。これが正体の半分。
公正世界仮説そのものに対しての実験ももちろんある。結構わかりやすいしこれで正体の残り半分が分かるだろう。
※
1966年に、ラーナーと彼の同僚は、虐待への第三者の応答を調べるために、ミルグラム実験と同じく電気ショックを使用した一連の実験を開始した。
これらの最初の実験はカンザス大学で行われ、72人の女性被験者は、共同被験者(実はサクラ)が様々な条件下で電気ショックを受ける様子を見せられた。
当初、被験者が苦しむ様子を目の当たりにした被験者は動揺した。しかし、第三者である自分が何も介入することができないまま、共同被験者が電気ショックで苦痛を受けるのを見続ける状態がしばらく続くと、被験者は電気ショックの犠牲者であるところの共同被験者を蔑むようになった。
共同被験者の苦痛が大きいほど、軽蔑の度合いは大きかった。しかし、共同被験者が後で苦痛分の報酬を受け取ると聞かされたときは、被験者は被害者を軽蔑することは無かった[4]。
この実験結果は、ラーナーらと共同研究者らによるその後の実験でも反復され、他の研究者でも同様の結果が出た[6]。
※
はい。・・・はい。まぁ順を追って説明すると、まずミルグラム実験。これは権威者からの命令を受けた人間が他人にどこまで残酷になれるのか、という実験だ。被験者は選択問題を読み上げ、回答者(サクラ)が間違えたら電気ショックが流れるボタンを押す。間違えるたびに電気ショックは強くなる、と被験者には説明されているのだが実際には録音された演技の声と録画された映像が流れるだけだ。
ボタンは電気の強さに応じた数があり、それぞれ隣には軽い衝撃、激しい衝撃、危険で苛烈な衝撃などと強さが分かるような表示があった。最大出力とそのひとつ下の2つのボタンには何も書いてない。まぁなんていうか、やばいかも死ぬかもって思わせるギミックだろう。
被験者は最初は戸惑う。サクラの演技が上手だったらしくてね。ガチ悲鳴にしか聞こえなかったっぽい。ただ、実験の担当者は冷徹に「続けて下さい」としか言わない。
被験者が権威者の命令を退け3回ボタンをおすことを拒否するか、最大である450ボルトのボタンを3回押すことになるまで実験は続ける、という仕様だった。結果はまぁ、40人中25人が最大出力押しまくったそうだよ。中には「金はいらないから止めさせてくれ」って言った者もいたらしいけれど、それでも300ボルトになる前に実験中止に持ち込んだ被験者はいなかったそうな。これで重要なのは実験担当者の冷徹な態度以外に強制する要素はなかったという点だね。
さて、ラーナーの実験も同様に電気ショックで悶え苦しむ「演技」を被験者は見せつけられることになる。こっちのサクラも演技が上手だったんだろうね。ともかくボタンを押すのではなく、ただのギャラリーとしてそれを見続けることになる。
結果は上記引用の通り。「非日常的な非道な出来事」に対して「自分には何も出来ない」ことを悟ると、次第に被害者を軽蔑するようになっていった。
言い方を変えるとわかると思う。「何も出来ないから」、「何もしなくていい」と思い込もうとした。被害者を軽蔑することによって。「同情するに値しない」、と。これは
認知的不協和だろう。
で、重要なのは初めは被害者への同情や共感、この事態に対しての動揺など人間として相当に「まとも」な感情だったという点だ。でも何も出来ないし、それに耐えられないから辻褄合わせをした。・・・言い方を変えれば、まともさが通用しない時、「こうなる」。
残念な話だとは思わないだろうか。これらは「優しさ」とも呼ばれるような感情なのに。葛藤の果て、出て来る態度は批難・軽蔑なのだから。
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被害者批難
・またこれは事件が「酷ければ酷いほど」被害者を責める傾向が強まる可能性があることを示唆している。上記実験では電気ショックを受ける者(サクラ)が報酬をもらえると聞いていた場合、なんら変わった反応はなかった。まぁ「お仕事大変ですね」で終わるからな。認知的不協和にもならんだろう。
理不尽で残酷であればあるほどに被害者への「軽蔑」は強くなる。抱えきれない葛藤がその大きさのまま攻撃性に変わる。
・客観的に見れば、責める者たちの被害者に対しての姿勢は「なんで自分からそんな目にあったの? 馬鹿なの?」みたいな感じになってるのは、多分気づくことが出来るだろう。明確に「犯人」がいる場合でも、理不尽な災害でも、こういった態度のものがいる。これは明らかにおかしいが、全部じゃないが被害者への共感が元となっていると考えれば腑に落ちる。がまぁ、それは当人の脳内で起きるストレス処理であり、口にだすべきじゃないだろうね。
そっちはこれくらいにしておいて、重要な問題が発生することについて。
加害者がほったらかしなんだよ単純に。それどころか被害者が悪いなんて言えば言うほど加害者の肯定に繋がる。加害者と「同質」の人間が安心して調子に乗るだけの結果に終わるぞ。
・結論として、私たちは理不尽な出来事に対して非常にナチュラルに「馬鹿」か「化物」のどちらかが原因だったことを求める。よくよく見てみるといい。被害者糾弾の言い分は被害者がそういう目にあったことを糾弾しているんじゃない。「事件を引き起こしたこと」を糾弾している。自分たちの「公正世界」という妄想を揺るがしたことにヒステリーを起こしているだけだ。
これは「才能」にも言えることだ。成功者を指して才能があったから、というのは要するに「元から違ってた」って言ってるのと同じだ。「例外を公正世界から外す」ことによって、自分はこのままでいいと思い込む。結構才能って言葉嫌いなスポーツマンとか見かける。
問題は公正世界信念そのものではなく、それが破綻した際の人間の反応だ。だが気をつけてどうにかなるのかなーこれは。人間がコントロールできるとしたら、言動の段階だろうね。
・当然のことだが、被害者が清廉潔白だとは限らない。パワハラ野郎が刺された所で指差して笑うわ。馬鹿が馬鹿すぎて痛い目にあったら失笑するわ。また、本人が注意すれば避けられた、ということもあるだろう。するべき注意をしなかった、というのもまた公正世界仮説の可能性があるけどね。「自分は悪くないからひどい目には会わない」と。
私がいいたいのは、それはそうとして「被害者にしか目が向いていない」形に頻繁になること、つまり「加害者が野放しになる」酷い時には「加害行為の肯定」につながること。そしてその動機がただの「現実逃避の世界を維持したいから」「ストレスだから問題ないってことにしたい」なんて理由だということ。
・「一部の人間は変わろうとする人間を必死に止めさせようとする」と前に何処かで言った記憶がある。これまた他人が良くなろう、自重しようという姿勢を見せたことでそれと同レベルな己の「自分は今のままで大丈夫」という妄想を揺るがされたことに依る認知的不協和とも取れる。
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メモ
・ミルグラム実験はアイヒマン実験とも言われる。ホロコーストの責任者の1人とされたアドルフ・アイヒマンは逃亡生活を続けていた。リカルド・クレメントという偽名で。追跡していた者達はリカルドがアイヒマンではないかと怪しみ監視を続けていたが決め手にかけていた。
待望の決め手になったのが、ある日リカルドが買った花束だ。その日はアドルフ・アイヒマンの結婚記念日と一致した。
まぁそんなこんなで捕まったわけだが、このことで考えさせられた者達がいたらしい。
「そもそも元から悪い意味で特殊な連中があのような残虐な行為をしたのか。それとも、結婚記念日に花束を買うような普通の人間が特殊な状況ではあのようなことをするようになるのか」と。これが理由でミルグラム実験となった。
ちなみに実験者であるミルグラムの両親はユダヤ人。彼もまた、自分の人生に影響を与えたであろう出来事に「納得」「理解」したかったんだろうね。
・ラーナーの実験結果は「後から認知が変わる」という点で認知バイアスとしては珍しい。そしてこれは人間は
意図的に物の見方を変えれるということを意味する。認知レベルで。
・Mean world syndrome
公正世界信念の反対、と言われるミーンワールドシンドローム/症候群というのもある。が、詳細不明。日本語でのものは見当たらない。英語wikiを機械翻訳してみたが、マスコミの垂れ流す世界観に洗脳されて悲壮な世界観にどうこう。これはまぁメディアリテラシーの話になってくるから今回はパス。
・「普通コンプレックス」への強迫観念に通じるのではないか。自分が普通=模範的市民でないのなら「何が起きるかわからない」「何をされるかわからない」と。恐らく後者のほうが強いだろう。人間の天敵は人間である。
・これが集団ヒステリーのようなある種の「一体感」が見られるのは、かなり根深く公正世界仮説は浸透している、あるいは本能レベルで存在していることを示唆している。
・犯人探しはどこまでも続く。見つかるまで続く。基本的にはさっきまで言ってた「天罰」に該当しそうな要素全部原因として思い込む。行くとこまで行って「あんなことを考えたから」、「前世の行いが」とか行き過ぎなレベルにもなる。妄想の症状が出ている者で割りとあるのが「自分の考えが他人にダダ漏れなんじゃないか」って妄想だが、何か関係あるんだろうか。
・どう考えても公正世界という妄想は脆いはずだ。現実にはそんなこと殆ど無いからだ。肯定する要素が少ない。逆に否定する要素は山ほどある。馬鹿が馬鹿なことやってそのとばっちりでも受ければそれで崩れる。
だと言うのに子供どころか中年や老人までもが公正世界という妄想を抱えていることは珍しくない。これはそれだけ意図的に「維持」し続けてきたということになる。つまり認知と言うよりは「願望」に近いのだろう。
ただ、年を経るに連れてだと思うが、認知バイアスから強迫観念にシフトしているように見える。つまり「世界はこうであるはずだからお前が悪い」ではなくて、「世界はこうでなくてはならないのにお前はそれを逆行した」というような形に。既にあるシステムのイメージから人工的に維持しているルールのイメージへのシフト。崩壊しかけているのか。まぁ気のせいかもしれないが。
◆
◆
・一番厄介なのだが公正世界仮説が崩れた人間の内、一部は「開き直る」。何やったって罰当たんないしと。こいつらにとって公正世界信念を持っている人間は「カモ」になる。
・「公正に値しない人間」は現実にいる。というか、そういった人間ほど他人の公正世界仮説を突いて恩恵に預かろうとする傾向が強いように見える。
・返報性という心理がある。簡単にいえばやられたらやり返す心理。これは良い方向にもある。誕生日にプレゼントでも貰ったとしたら、相手の誕生日にも何か送らなきゃなーくらいはなんとなく思うだろう。公正世界仮説と似ているどころかこれじゃないかって気がするが。それだと「それ以外の理屈はない」という一点張りが悪いってことになる。単純に「それが通らないこともある」と受け入れられないのはなぜなのだろうか。
・
自責の念に通じる。公正世界信念を強く持った人間が理不尽な事件の被害者になった際、かなり自分を責める傾向が強いらしい。この内特徴的なのは、「気をつけようと思えば気をつけれる部分」に原因を求めるとされているところだ。つまり「自分は避けようと思えば避けれる」という点を守ろうとする。
・理不尽なニュースを聞いた際、人は短期的で確実な方法を好んで選択するようになるという実験がある。逆に悪人がひどい目にあったというニュースの場合、長期的で効果的な選択をする。前者は一時的に公正世界信念が揺らいだということになる。まぁ自制心がないとか頭悪いとかの理由で前者選ぶケースも多いんだけどさ。考えなしなのか現実を知ったのか平和ボケなのか計算高いのかもうわからんな。
・「夢から覚めた」人間たちに必要なのは、本当に復帰だとか癒やしだとか更生とかの「元に戻る」ことなのだろうか。もう同じ夢の続きを見ることは出来ない、そんな気がする。現に彼らは、何も知らない頃に戻りたいと思うが、それと同じくらいこんな現実の中で無防備になりたくないとも思っている。
・これらを踏まえた上で改めて公正世界について。これは私達の「美的感覚」でもある。理不尽なやつは嫌いだし、嘘つきは嫌いだし、後出しも嫌いだし。これらを行い、ましてや利益を得るような奴らを基本的に私たちは「許さない」。これ自体は別に、何もおかしくはないんじゃないか。コミュニティに寄生しているわけだから。排除願望も持たれるだろう。
公正世界仮説という願望・妄想そのものが悪いというよりは、「既にこういう世界のはずだ」と振る舞う者、それが通用しない時の雑で歪んだ「犯人探し」、このあたりのみを問題として捉えたほうが良いだろう。
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