「勉強」がしたければ教科書でも読むべき。ここにあるのは「私見」。
・リンク:OK
・引用:OK:要URL明記
・転載:NG
・拍手やコメントの返事は基本しませんが、全て目は通しています。励みになります。
サイト内検索:

意思決定と自由意志

意思決定と自由意志



どこからどこまでが「自分」で、どこからが自分じゃないのかの考察。




意思決定の順番

そもそもの意識における「自分」の範囲から疑ってかかってみる。

例えば何かしらの問題があった場合、そのことについて答えを出す思考ではなく、瞬時に答えは閃いていてそれがあってるのか間違っているのかの思考をしていたことはないだろうか。


カリフォルニア大学サンフランシスコ校のベンジャミン・リベット博士が1980年代に行った実験によると、ヒトの意思決定は以下のの時系列で行われているとする結果となった[要出典]。

1、「脳が運動の指令信号を発する」

2、「自らの意志で指を動かそうと思う」

3、「実際に指が動く」


一般には2,1,3の順位で行われそうに思われそうだが、実験結果は以上の通りであった。
要出典と出ているが、どのような実験でどのような結果だったのかはwikiの別ページにしっかり乗っている。
この領域における重要な実験が1980年代にベンジャミン・リベットによって行われた[54]。

任意の時間に被験者に手首を曲げてもらい、それと関連する脳活動を観察する実験である(このとき、準備電位(readiness potential)と呼ばれる電気信号が立ち上がる)。

準備電位は身体の動きに先行する脳活動としてよく知られていたが、行動の意図を感じることと準備電位が一致するかどうかはわかっておらず、Libetはこの点を探求した。

行動の意図が被験者にいつ生まれるかを決定するために、時計の針を見続けてもらって、動かそうとする意識的意図を感じたときの時計の針の位置を報告してもらった。


Libet は、被験者の脳の活動が、意識的に動作を決定するおおよそ1/3秒前に開始したことを発見した。

これは、実際の決定がまず潜在意識でなされており、それから意識的決定へと翻訳されていることを暗示している。
この「意識的決定へと翻訳」という表現が非常に的確だと思う。「思った」のではなく、それは「思ったことをわかった」のだということ。意思決定自体は1/3秒前(0.35秒ともされている)に既に終わっていて。

人は何もなくても過去を思い出したり、未知のものを想像したりもできる。こういった際の「思う」ことと、実際の言動に対して後からの理解としての「思う」ことと混同しているのではないか。意識が体を操作している、と。

仏教では五感に意識を加えて「六識」としている。意識だけアウトプットの属性のもので、他はセンサーつまりインプット属性だからしっくりこないと思っていたのだが、意識は無意識に対する「感覚器官」の役割を果たすなら、まとめて六識とするのは納得できる。

思うに、意思決定の全体像としては上記引用の1(脳)→2(意識)→3(体)の流れではなく、1→2&1→3の並列の現象なのではないかと思う。

理由としては、緊張時は大体頭は「追いついていない」(これは脳や体だけが加速しているとも言える)からだ。

車に轢かれそうだったからとっさに避けた、としよう。この場合右に避けるか左に避けるかどちらか脳が信号を出したとして、思考が「そもそも車は目の前で止まるんじゃないか」とか考えてたら、まぁ死ぬよね!

冗談抜きで、「後から状況が分かって怖くなってきた」というような経験の場合、思考は「分かった」時にようやく事態に追いついたことになる。

これは1→3だけが加速して、1→2が後から追いついていることになる。

まぁ、身近な例で言えばついカッとなったり慌てたりしていらんことをやったり言ったりした経験があったとしたら、こういった状態だったろうねということ。
そうなるとよくこうなる人の問題は人格云々よりも「興奮グセ」が問題なのだろう。

要するにスキーマ(頭の中のプログラム)の実行やその選択すら「自動的に行われ」、元々から人は「意識的に選んで決めていたつもりになっていただけ」なのではないか、と。

では意識とは脳と体にへばりついた、勘違いして自惚れるのが仕事の余計なものなのだろうか。





自由意志はあるのか

それでは意識的な想像/創造や想起は無意識が発しているものを「自発的な思考」と勘違いしているだけなのだろうか。

どう考えても意識と無意識はある程度連携が取れている。

フラッシュバックを例に取ると、あれが悩むレベルに厄介になるのはフラッシュバックが無意識から発生(多分このタイミングで体も反応している)→意識による過剰なリアクションと意識的な思考による持続→それに対する無意識の二次的リアクションと連鎖するからだ。
連携、というか「連動」と言うのが近いのか。影響は与えあっている。

逆に意識→無意識も可能だろう。アファメーションだとか自己暗示だとかはわかり易い例だ(危険があるのでオススメはしない)。で、これだと意識的に無意識を少なくとも動かすだけならできる、ということになる。

少なくとも「方針」を考えるのは意識的にできている、と感じる。つまりは決められる。つまりは「意識はある」。が、立ち位置や領分が今まで思っていたものとは違うようだ。


ゴミ箱モデル

これ面白い。
意思決定過程モデルの中でも、特に有名なものにゴミ箱モデルがある。

それは、人、問題、解をゴミと見立て、そのゴミをゴミ箱に見立てた「意思決定機会」に入れると、意思決定機会が満ちたときに結果が出ると考えたモデルである。

その特徴は、過去のモデルによる「合理的な意思決定」を捨て、「人間は合理的な意思決定ができない」という考えが前提にあることである。

これは思考による意思決定ではなく、「無意識の中に材料ぶち込んで行けば勝手に結論が吐き出される」ことを表しているモデルだ。
意思決定なんて大仰なものじゃなくても、「判断の過程」で私自身の意識を観察してみると、まぁそういうことは多いね。
ただ、その「結論」が気に食わないから更に材料をぶち込んで行くこともある。

つまりは出された結論は絶対ではなく、この例では言動を直接操作するものではない。結論を意識が評価し、リテイクを出している。

基本的にはこういった、「思考のほうが実行よりかろうじて速い」状態だろう。そうじゃなければ世の中全員ジャンキーみたいになってるはずだ。恐らく状況や対象でかなりブレるとは思うが。
前述したが、このゴミ箱モデルで言うところの無意識の出した「答え」が正しいかどうかのチェックに追われることがほとんどだし、そういったチェックをやっている最中に手が動いてることもある。

慣れてることほどこの傾向が強い気がする。これだと私がボケてるみたいだが、まぁそうかもしれない。まぁとにかく、この場合はやらかした瞬間に気付きはする。
勘違いや思い込みなどの時は、結論が意識を素通りしていたと後になって感じることが多い。つまりチェックすらしていない場合。

「すべての人は認知症なのです」。小耳に挟んだ話だが、小説でこんなセリフがあったらしい。統合失調症とパラノイアもあると思うが。

重要なのは、これらの「症状」が出るのは意識を素通りした、あるいは間に合わなかった場合だということだ。





意識の役割は何なのか

つまり、意識のやるべき「仕事」は無意識からの信号の認識と検閲であると言える。
大阪大学の北澤茂教授によると、リベット教授の実験以外にも多くの同様の結果を得ており、意思決定は人の意識に上がる前に無意識で決定されたのち、意識に上がると考えることができる。

意識は、ヒトの行動や思考を支配しているのではなく、それらはむしろ無意識の領域にて行われ、意識は自分自身の置かれた状況や思考、行動などを把握するためのチェック機構として働いている可能性が高いと考えるのが自然だと述べている。

すなわち、ヒトが意識する前にすでに脳は決心に向けて活動し始めている。

このことから「私は今ここで、自分の意志で行動している」とする実感は幻想である可能性が指摘される[5]。

これだと意志は、「決定」ではなくて「選択」を担当しているということになるだろう。プランは無意識から吐き出される。多分オーダーくらいは意志の側で出来るとは思うんだが。

「仕事」は検閲、つまりは無意識がやろうとしている(あるいは提案程度の)ものを「制御すること」であり、発生そのものを抑えようとすることじゃない。多分これは、止まらない。

無意味だったり無用なら無視すりゃいいし、衝動なら制御するべきだし、使えそうなら拾えばいい(アイデア)。

ただし、脳→身体と脳→思考は「同時にスタートしている」可能性(というか実際に思考が身体に遅れることがある)には気をつけたい。

つまりは検閲が間に合わない可能性、それどころか検閲が始まってもいないのに行動終了する可能性は、恐らくある。

要するに(状況の影響も受けるが)、肉体(「発言する」という行為を含める)が「決め打ちでスタートダッシュするバカ」になる可能性がある。

もちろん前述の車に轢かれそうな例のようにそれで正解のこともあるはずだが、人間関係において「失言」が多いのなら、ちょっと見直したほうが良いだろう。







要するに緊張や感情的な状態で頭と体だけが「加速している」状態。
これに対しては状況を避けるようにするか、それが無理なら場馴れするしかないだろう。
それこそ自身の感情を察知すれば、そういった場面であるという認識は可能なはずだ。

あるいは慣れきったスキーマであり、意識が注意をあまり向けない場合。これはイージーミスが代表的だろう。
これまた「意識さえしていればやるわけがない/見逃すはずがない」ようなミスであることが多い。
半端に慣れてきたあたりでイージーミスを出すようになるのもこれが大きい。

そうなると意識の仕事は本来メタ認知だったと言えるか。

思いついたことを絶対的なものだと思ったり我慢できずにやる連中がいるが、アレこそが自由意志がない、というか自我がない例だろう。無意識の奴隷だと言っていい。

逆に頭の中がどうあれ、まともに振る舞うことに尽力しているのならそれは正しくまともなのだろう。
「何が思い浮かんだか」は意識の管轄ではなく、人間性とは関係ない。何が思い浮かぶかは、どちらかと言えば状況と思考の癖に依る部分が大きい。

まぁ要するに、思いついたこと、思い浮かんだことを必要以上に気にする必要はなく、「それをどうするか」が重要となる。
選ぶのか、選ばないのか、身体が動くのを止めるのか、程度を調整するのか。





最新記事はこちらから



サイト内検索:


ツイッター:
https://twitter.com/nemomanas

シェアをしていただけると嬉しいです。





このエントリーをはてなブックマークに追加

ブログ移転しました:https://embryo-nemo.com/


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

────────────────────────────────────────────────────────────────

拍手[0回]

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

プロフィール

HN:
nemo
性別:
非公開
自己紹介:

サイト内検索

このサイト内のみの検索。

PR