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粘り強さ やり遂げる力 GRITについて

粘り強さ やり遂げる力 GRITについて






成功するかしないかはIQの高さよりも「やり遂げる力」があるかどうかが問われるそうな。ではやり遂げる力とはなんだろうか。

また、一説によるとダイエットは9%の人間しか成功しないのだとか。では人間には基本的にやり遂げる力が不十分なのだろうか。それらの「原因」とはなんだろうか。

目次

「諦めない」について
GRIT
やり遂げる際の「敵」
自分のやりたいことなのに嫌になってくる
やり遂げた人間には才能があったのか?
「実績」に注目する








「諦めない」について

悪い「諦めない」

粘り強さが問われるのは、挫けそうになったときなどの何らかの困難に直面したときだろう。では粘り強さは諦めないことなのだろうか。一口に諦めないと言っても、いい意味と悪い意味がある。

状況を認めない、負けを認めない、そういった「思い込んで言い張れば誰かが本当にしてくれる」と信じているかのような甘えた「諦めない」は当然だめだろう。これじゃただの人格障害だ。

例えば初志貫徹なんて言葉がある。初めに持った志を貫き通す。一般には「いい言葉」だが、じゃあ聞くが、始める前の「勝手なイメージ」しか持ってない自分と、初めた後の「現実を知った」自分と、どちらがそれについて詳しい? 

初めから無理(あるいは的外れ)な願望だったことに、ただ気づけなかっただけだったとしたら? スタートが間違っていた、ということはある。 

参照:外部サイト:顧客が本当に必要だったもの
参照先の10枚の絵の内、左上と右下の画像を見てみるといい。


状況だって後から変わることもある。法律が変わることもある。頑固さとしての「諦めない」は、あらゆる「壁」に対して「死ぬまで頭をぶつけ続ける」という答えしか出せない。要するに、諦めないにしたって、だからこそか、柔軟性は必要だ。

ちなみに成功者程「見切りをつける」のが異様に早い。

良い「諦めない」

前述したのは悪い意味での「諦めない」であり、ではいい意味での諦めないとは何か。壁にぶつかった際、方法を見直したり、やり方を考え直したり、時には目的そのものの見直しもするかもしれない。そんな「何としてでも進んでいこう」という意思を感じるようなもの。

要するに、いい意味での「諦めない」というのは、「柔軟性」がある。「何としてでも」というのが口だけではなく、言葉通り「手段に執着しない」ため、進むための違う手段を見つけ、実行できる。

悪い方の意味だとがむしゃらに頑張ればいいというまさしく「馬鹿の一点張り」になる。言い換えれば異様に目的や手段に拘る。採算度外視なくらいに。たちの悪い事にそれが「かっこいい」とか思っちゃってる連中が結構いるような。

自分できめたからこそ投げ出しやすくなる

諦めないというのも、自分が立てた目標の場合非常に脆くなる場合がある。諦めればやらなくてすむ。自分でこっそり決めただけの目標なら諦めたことは誰にも「バレない」。

で、大体の場合は順調にはいかない。殆どの場合は道のりは「思ったよりも遠い、長い、険しい」。ぶっちゃけ辛い事が多い。憧れとかが強ければそれだけイメージはキレイになり、そうじゃない現実が耐えられなくなる。目標高すぎると「一歩も進んでない」感覚がして、諦めたくなる。

あるいは悲壮感漂うイメージしか無く、初めから諦めている、なんてこともあるね。まぁこの場合少なくとも時間の節約にはなるが。

後述するTED動画にあったが、脳の仕組みやらなんやら教えておいてから子どもたちのGRIT(やり遂げる力)を見ると、失敗しても諦めずに継続する傾向が強まった(グロースマインドセット)。要するに失敗しても、「成長はしているはずだ」と思えるから、次はもっと出来るはずとも思えるわけだ。

成功者の話にまた戻るが、彼らがよく言うのは「諦めた人はもったいない。そこを抜ければ成功したのに」というフレーズ。

要するに、実際成功した人間の視点で見れば、確実に進んでいたりするのに、当の本人が「全く進んでない、行き詰った、諦めよう」と言ってたりしている、ということだ。

まぁ実際そうならたしかにもったいないし、私自身もこういった人を結構見かける。もったいないとは思わない・・・というか、「だめだーだめだー」って息をするように言ってるわけだが、じゃあお前が今やれてることは何だよと。まぁ正直、ちょっとイラッとくる。ただのキャラ作りなら止めてもらいたい。







GRIT

やり遂げる力は「GRIT」とも呼ばれ、研究もされている。



長期的な集中力、といえば分かりやすいだろう。目の前のものに対してではなく(それも重要だが)、長期的な「目標」。そこまでいく、という目的意識。これらを指す。

まぁ面白いのがどうやればGRITを得てやり遂げることが出来るのか?という問いには「わかんね」と言ってることだ。

まだまだ未知の分野、とのことだがじゃあ自分で考える。現実にはやり遂げる人っていうのはいるわけで、誰だって何かしら何かをやり遂げたことはあるわけで、そこら辺から考えていく。

グロースマインドセット 

TED動画で言ってたグロースマインドセットについて。

Growthは成長、増大、拡張。要するに「自分は成長できる」という認識を持つこと。

反対の概念としてフィックスド(硬直)マインドセットというのがある。まぁ意味は言わずもがな。

これらの概念の提唱者によれば、人間は大抵どちらかに別れるそうだ。

マインドセットというと胡散臭いが、要するに人生観や自己イメージだと思えばいいだろう。これらは後天的、意識的に加筆修正ができる。また、さっきちょっと出てきた言葉だが、「セルフ洗脳」とも違う。あくまでも「認識」であり、脳ミソ停止して「信仰」するものじゃない。言うなれば「心構え」だ。

フィックスドマインドセット

前述のグロースマインドセットは要するに知能は生まれつきではなく育つものだという教育を施し、認識を与えるということなわけだが、逆を言えばこういった「教育」が多くの場合わざわざ必要で、さらに言えば自分の能力が生まれつきで一生変わらないと思っている人間は諦めが早い、ということになる。

現実に知能、性格を始めとした「素質」と呼べるような根本的な能力などにたいして「持って生まれたモノで一生変わらない」というある種の「運命論」のような認識をしている人間は多い。一例を上げると自分のことを一生運動音痴だと思ってる人間とか。

運命なんてオカルトなもんじゃないだろう。中二病か。知能も性格もスキーマの集合体だろう。いくらでも変わるし改良の余地がある。楽ではないが。逆に遺伝子ではなく情報・イメージ(ミーム)としてそういった人格、能力に「固定」している要素がいくらでもあるわけだ。

教育、風習、自己認識、周囲からの扱い。「お前はこういう人間だ」とする決めつけ、「自分はこういう人間だ」という思い込み。

これらはやり遂げる力を阻害するという意味では「敵」になる。自分は「できない人間だから」、「諦める/耐える/逃げるしかない」という結論になってしまう。運動音痴の例で言えば、彼らは運動そのものを根本的に避け続ける。

そこまでいかなくても勝手に自分の「限界」を想像し、それ以上は進めない。こんな認識は捨てるべきだが、それが簡単にできれば誰も苦労はしない。これらは思考ではなく認知レベルであり、自分の世界観・人生観そのものだ。





やり遂げる際の「敵」

やり遂げる際の障害、つまり諦めたくなったり、気が散ったりするのはなぜか、というところから考えてみる。諦めるのは前述の通り困難にぶつかった時、そして「自分には無理だ」と思った時だ。

気が散るのはどうだろう。集中の対極であり、勉強してると部屋片付けたくなるとかのアレだ。掃除やら模様替えやらを始める理由にはなっていない。確実に「今やる必要」はない。元からそうだったはずだし、今まで気にならなかったのだから。

つまり明らかに緊急性もなく、今までなんとも思わなかったものに対して急にそう感じている。なぜか? ぶっちゃけやりたくないからじゃないか? 

人間は基本的にトップダウンの思考を取る。要するに、目的が先にあって(トップ)、その理由を探す(ダウン)、ということが自然体。

勉強したくない → だから理由を探す → 部屋片付けなきゃ! という順番。
無意識レベルでこれは行われるから本人からしてみれば「思いついた」「気になりだした」感覚がする。

また、「緊張」も犯人としてあげられる。緊張状態だと無意識に「索敵」をするから今まできにしなかったものが急に気になりだすのは辻褄が合う。要するに「やりたくないことをやらなきゃいけない」場合だとこうなるのはよくあること。

で、この「やりたくないけどやらなきゃいけないこと」というのが人生を通してずっとあって、こういうのを抵抗なくやり遂げる、いや贅沢は言うまい、「取り組み続けること」が出来るのなら、まぁいいんじゃないのかと。





自分のやりたいことなのに嫌になってくる

そんなわけで、ターゲットは「やりたくないけどやらなきゃいけない」ことになる。これも結構厄介で、自分で決めた、自分がやりたいことなのに、いつしか「やらなきゃいけない」というような義務感やらプレッシャーやらを感じていることもしょっちゅうだ。どうなってやがる。

長期的に見れば、大抵の場合は1人の人間の中で目標を設定する「コマンダー」と実際にそれをやる「プレイヤー」は分裂していく。大体時間が経つに連れプレイヤーだけゲッソリしていく。1年で終了するクソイベ連発ブラウザゲームの運営と惰性で続けるプレイヤーみたいなものだね!

逆に言えば、1人の人間の中でこの二者が一体となっている状態がやり遂げる力がある状態であり、これを物にするには分裂しないように維持、あるいは既に分裂しているのなら再び一体とすることが目的となる。

ではこれはどちらの問題だ? 
「コマンダー」が現実を見ていないのか、「プレイヤー」のモチベーションか? 
まぁ両方だと考えるのが妥当だろう。つまりそれぞれに何か改善の余地がある。

まぁブラゲと違って1人のプレイヤー(自分)が満足して続けられればそれでいいから、ブラゲ運営よりは楽だろう。多分。金銭関係ないし。





やり遂げた人間には才能があったのか?

生存者バイアスに注意しなくてはならないが、何らかの成功者たちというのは、まぁ脚色もあるのだろうが、それしか頭にないってくらいの「熱中」「情熱」やらなんやらを持っている。汗臭い単語だが。勉強中に掃除したくなる話と比べると、そもそも「やめたい」とは思ってない、と考えることができる。

続けることが出来るのも才能、なんて言われたりするが、まぁ実際そうなのだろう。だが、これではやり遂げる力を身につけることや、ましてや利用することには何の役にも立たない。「偶然やりたいことと相性が良かった」で終わっちゃ困る。
ましてや「才能があったからできました^q^」なんてのはもうなんというか、ぶっ飛ばすぞ。

まぁ実際にはそれだけ好きだったとか成し遂げたかったとか何かあるんだろうが、汎用性はなさそうだ。「対象をどう思うか」はモチベーションをかなり変える、というのが確認できただけ良しとしよう。

私達凡人が「やり遂げる力」を求めるのは、ターゲット(目標)がやらなきゃいけないと分かっているけど辛いだとか、やりたくないけどやらなきゃいけないだとか、そんなことだろう? 「成功者達」とはスタート地点も発生するイベントも全く違う。

ハッキリ言ってしまえば「好きじゃない」、あるいは「好きじゃなくなった」ことをやり遂げることを今は考えているんだ。だから「成功者達が成功した分野」とは事情が全く違う。少なくとも今回はあまり役に立たないだろう。

嫌いなものを無理やり好きになれみたいな意見もあるが、セルフだろうが「洗脳」はゴメンだ。病気になるだけだと思うね。私としては嫌いなままで舌打ちしながら嫌々クリアしたい。そのほうがまだ精神衛生的に「健全」だろう。

まぁ、慣れてきたり出来るようになってくれば本当に好きになったり楽しくなるもんだが。楽しさを感じられるならもう「成功者ルート」に乗ったも同然だろう。もうそこがゴール扱いでもいい。問題は、そこまでの道のりだ。





「実績」に注目する

好きになれれば苦労はしないが無理がある。フィックスドマインドセットのせいでそれを成し遂げれる気がしてこない。じゃあこの呪いじみた認識をどうやって切り崩していけるのか。やり遂げる力が本来誰にでもあるのだと仮定すると、それを肯定する要素は本来身近にいくらでもあるはずだ。それを拾っていけばいい。

認知バイアスの話になってくるが、フィックスドマインドセットがあると意識にフィルターがかかる。恐らくそういった自分のやり遂げる力には「気づけない」。目の前に転がっていたとしても。

これは「自然には治らない」ということだ。意識的に何かする必要がある。まぁグロースマインドセットの例で出てきたように適切な「教育」を施せばいいのだろう。脳が物を覚えたり、人が技術を習得するメカニズムなどに対して。身体や脳が成長するようにできている、と認識できれば疑いようもなくなる。

ところで「敵」の話だが、私はこれが一番多いと思うが人間関係において毒電波浴びすぎて自己認識が歪んだケースもある。

まぁ容疑者として真っ先に上がるのが「親」だね。いつも通り。まぁ親が悪いって言うよりは幼少期の精神構造が繊細過ぎるほうが理由としては強いとは思うのだが。今子供じゃなくても、どの道自分の「強度」を貫かれた場合、傷は付く。

深刻だと、実際にはそうじゃなくても、「お前にはどうせできないよ」という声を想像してしまう。失敗する、諦めるイメージしか浮かばない、そんな状態になる。

この状況下でモチベーションを保つのは至難の業だ。これまたフィルターがかかっている状態と言える。その上でだめな要素をピックアップしてしまっている。だがこれはヒントになりはしないだろうか?

逆はどうだろう? 自分が成長する、やり遂げられるという肯定要素をピックアップして認識する。この状態はグロースマインドセットの「教育」を施された子供と同じ状態だろう。

ポイントは「思い込み」などではなく、事実の中からピックアップしている点だ。事実だから疑う余地もない。これによって既存の認識を上書きしていく。

不安要素、不確定要素に対してはわざわざフィルタリングする必要もない。どの道不利な状況下でもそれは「一時的なもの」であることを理解できるのなら、そして「これから良くしていくターゲット」として認識できるのなら、それはやる気を削ぐ要素とはなりえない。

簡単に言えば「ぶん殴っていい敵」なわけだから。というか、ここにフィルターかけると「自信しかない馬鹿」になる。

つまりは自分の実績に注目すること。やったこと、できたこと、成長した所。だができて当たり前、出来るようになって当たり前の場合、無意識に減点方式でものを見るようになる。つまりできなかったことに注目しすぎる。

無意識レベルで減点していくんだから、意識的に加点してバランスを取ろうという話。加点の側になら幾らか傾いてもいいかもしれない。度が過ぎると自信過剰になりそうだが。





言わずもがなだが「やるべきこと」は「やって当たり前」であり、「当たり前」は得点がゼロだ。やらなきゃマイナスだ。これがだんだん辛くなっていく理由の一つだろう。で、目につくのはできなかった、足りなかった部分だけ。つまりは減点対象だけ。減点方式は基本萎えるものだ。

これについては切り口は2つ。一つは採点基準の変更。やって当たり前のことをやった、というのは自分の日常を維持し、目標に向かって確実に歩を進めたというだけの「価値」があることだと理解する。

2つ目、積極的に得点を稼ぐ。要するにタスクに追われることそのものがやりたくなくなる理由であり、追う側だと逆にやる気がでるという人間の習性を利用する。

多分両方やれるのが一番いい。どちらかをやるとしたら一つ目を優先するべきだろう。二つ目だけを優先するというのは、基盤を疎かにして目立つことだけやりたがるというなんか頭悪い感じになる。で、実際こういうのはいる。

実際にどうするかだが、些細な事でも有効ではある。例えば新しく習慣を身につけたい際には、カレンダーのそれをやった日に「×」をつけるという手法がある。連日続けていけば×が繋がり「チェーン」になる。このクサリがどこまで伸びるかに挑戦する、というテクニックなわけだ。

(自分の中での)当たり前のことを当たり前にやった、というのは、言い方を変えれば「今日もちゃんとできた」ということでもある。だったら記録をつけるには十分な「成果」だろう。

これは一種の認知療法でもある。自分は成長することができる、続けることができる、やり遂げることが出来るという本来の「事実」を認識できるようになるための。
















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