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幸せ恐怖症:何故幸せが「怖い」と感じるのか

幸せ恐怖症:何故幸せが「怖い」と感じるのか





まぁ別に「幸福は義務」なんて気持ち悪いこと言うつもりは無いんだが。



幸せ恐怖症。女性の六割くらいがこれだと言われている。



自ら幸福を遠ざけ、好意を向けてくる人間は疑う。



ここでは「幸福はいつか奪われる/壊れるもの」、「自分は幸福になってはならない」、「幸福に慣れていない」、「自分は幸福に値しない」の4つを挙げる。








◆マリッジブルー

わかりやすいのはマリッジブルーだろう。結婚間近になると生活環境の変化、家庭をもつことの責任を重いと感じ、自分の行く末に不安を感じる。極端なケースでは婚約破棄をすることもある。



当人の問題に限らず、パートナーが準備に非協力的、パートナーの家族とのコミュニケーションに自信がないなど具体的な原因があることもある。



8割位がマリッジブルーを経験したとするアンケート結果もある。要するに、珍しい話というわけでもなく、恐らく誰にでも「種」はある。



幸せ恐怖症とされる場合は上記のような対象の「具体性」があまりない。そして自分から幸福を壊すほどの拒絶反応を示す。



◆特徴

  • 人間不信。
  • 自分が幸せになることはないと思っている。
  • 幸せだと「落ち着かない」。その状況に不安、あるいは恐怖を感じる。
  • 楽しい場面でもどこか心は冷めている。
  • 対人面、特に恋愛に関して妥協的あるいは消極的、受動的。
  • 自分の良くない境遇などに対して「こんなものだよ」とある意味で「納得」している。
  • 他人の幸福が「違う世界のこと」に見えるか、あるいは「ウソ」に見える。


まぁ、あくまでも「自分でそれを問題と思うなら」、気にするべきだろう。そうじゃないなら別にかまわないだろう。同じもの見て違う感想を抱いたところで、別にそれだけじゃ問題にならない。



だが、後述するが「世界観」がこれなので自覚がないか、あっても問題と思わないかもしれない。一度自分はどうかと考えてみることは勧めておく。何れにせよ、自分で自分のことを不幸体質のように思っているのなら、「今よりも良くなる可能性」があるかもしれない程度の話。



また、いつものことだが原因は様々だともされている。



◆「いつか失われるもの」

幸福がいつか失われるものであり、どうせなくなるなら初めからいらない、という認識を持っているケース。



このようなイメージなので自分から幸せをつかもうとする行動は取らない傾向が強まる。



-◆幸せではなく「落ちる」のが怖い

一部の幸せ恐怖症は、幸せが直接怖いわけではない。不幸も後述の理由で怖がっていない。ただ、「幸せから不幸に落ちるのが」怖い。



アドラーの目的論で考えれば、これは結構わかりやすいかもしれない。



例えば幸福を地上から+10、不幸を-10メートルとして、幸福から不幸に落ちるのは最大の幅である「20メートルの落下」になる。幸せはいつか失われるもの、つまり「いつか必ず落ちることを前提としているのならば」、初期値は低ければ低いほど「安全」だということになる。この場合、落下ダメージを最小限にするという「目的は果たしている」。



要するに、「落ちるのが怖いから高い所に登ろうとしない」。落ちる心配が無い「低い所」、即ち不幸に甘んじる傾向がある。このため、その場所自体が高いか低いか(幸か不幸か)は気にしてない。



ただ、こういった脳内スキーマの上でさらに「自分と他人を見比べて嫉妬する」タイプはいる。普段気にしちゃいないし高い所には行きたくもないが、他人に見下されるのは気に食わないからだ。この場合、彼女たちは「他人を不幸に引きずり降ろそうとする」か、「他人の幸福を壊そうとする」。



しかしこれ、結構いるんだよな。しかも男女の区別なく。まぁ船幽霊として生きたきゃそうすればいいんじゃないか。







◆罪悪感

「自分は幸福になってはならない」というタイプ。



「おまたせ」、と余計な口を聞きたくなるくらいベタだが、理由として「親のせい」、特に「母親のせい」というのがあるようだ。



特に娘が幸福になると母親が「嫉妬する」ことがあり、口には出さずとも不機嫌になったりなど言動(ストローク)としてそれは娘に伝わる。この場合に娘が「自分が成功したら母親が不機嫌になる」、「自分が不幸でいなければ母親に愛されない」という解釈をし、そのための言動が「身につく」ケース。



・・・そんな母親とは縁を切ったほうが良いと思うが。



もちろんこれが誤解である場合もある。例えばあなたが渋谷なりどこなりでアイドルかなんかにスカウトされました、としよう。それを母親に言ったら血相を変えて「やめなさい」と言われた、とかそんなことがあったとしよう。ご丁寧にもらった名刺の所に連絡して母が断りました、としようか。これで「母は私の成功を望んでいない」なんて解釈をしたとしよう。



普通の親ならまぁ、そう言うだろうね。普通にあぶねーから。「スカウト詐欺」ってあるからね。事務所本物でも事務所自体が汚いってのもあったね。正規の事務所で社長が志願者にまぁ、汚いことを要求したっていう事件もあった。確かポリス沙汰になったはず。



このようなディスコミュニケーションというか、無知ゆえにそう見えた、というか、浮かれすぎた分親が注意してくれたのに悪く取った、というか、まぁそういうこともあるだろう。



尤も、実際に親が「化物」であることもまた普通にある。酷い例だと一人暮らしの娘の職場に電話しまくってやめさせてまで自分の手元(支配下)に置こうとするケースとかある。こういった親の「望み」を汲み取ってしまい、言いなりの人生を送るということはある。



男親より女親のほうがこういったことをする話は多いが、恐らく社会的な立場の作りやすさが影響してるだろう。子供が気に食わない場合、男親の場合は「見捨てる」傾向が、女親の場合、「手元に置くため矯正する」ことを選びやすいようだ。



また、フリーランスの人間が苦悩するのが「料金交渉に気後れする」ことらしい。自分を売り出したり、カネの話をすること自体に罪悪感というか、遠慮があると。経験値稼ぎだと自分に言い聞かせてタダ働きしたりすることもあるようだ。「幸福への積極性のなさ」は、もしかしたら国民病かもしれない。



◆わざと不幸になろうとする

さてまぁ、そんなこんなで「自分は幸福であってはならない」と思い込まされたというか、実際には自らに課したとして。現実として生きてりゃ「良いこと」も起きるわけだ。でも、「幸せになってはならない」から、自分で壊す。



例えば恋愛面においてはデート中、急にヒステリーになったりして相手を戸惑わせて御破算にするなどがあるようだ。要するに嫌われるようなことをわざわざ自分からするってことだね。



また、前述の「幸福はいつか失われるもの」のタイプだと、相手の好意をしつこく何度も頻繁に確認しまくって愛想を尽かされることがあるらしい。相手を「試す」ようなことをしまくるため、嫌われるそうだ。遅刻しまくって怒るか怒らないか試すとかそんな感じのことを。まぁ度が過ぎればわざと浮気するとかもあるかもね。



ただこっちの場合、本来は「安心したい」という目的があり、そのための行動だといえる。その結果自らそれを壊すのは、まぁ切ないね。なんでいくら試しても安心できないかは後述。



さっきの落ちる落ちないの話で言えば、これは「最も安心な状態に戻ろうとする」というホメオスタシス(恒常性。一定の状態に保とうとする機能)と言える。これらは当人が「不幸な状態が普通」という基準になってしまっており、それ以外の状態、つまり幸福がストレスだと感じられることを意味する。



この場合、「良いこと」とは、まるで高所恐怖症の人間が高台に連れてこられたかのような不安な状態を引き起こす。「いい眺めだろう」とか言われても上の空で、「早く降りたい」という状態に。



◆慣れていない

「幸福に慣れていない」タイプ。一番もったいないと思う。



ストア派の哲学者セネカは、徳をつもうとしている若者の「実行しても満ち足りた感覚がない。自分は間違っているのではないか」という悩みに対してこう言った。



「その気持ちは長く病気を患った人間が健康になった後、些細な事で不安を感じてまた医者にかかろうとするようなものだ」と。



ここから学べることは2つ。1つは「慣れていないから違和感を過大に感じる」ことがあること。不幸を常としているなら幸福に対して恐怖、不安は感じても不思議ではないこと。



2つめは、「健康に自信がないから些細なことに不安になる」こと。ここで言うなら自分が幸福に値しない、それを受けるだけの資格はないと思っている、つまりは「幸せに”耐える”自信がない」のなら、やはり幸福に対して恐怖、不安は感じるだろうということ。



自信だけあったってしょうがないのも事実だ。自信だけ身につけようとする人とかいるけど。



自惚れは醜い。ただ、この「幸せ恐怖症」に限って言えば、殆どの場合は「能力相応の自信すら持ってない」ことが多い。とりあえず些細な事でもいいから自分の「実績」に注目したらどうか。自分にとっての当たり前のことを当たり前にやれたってだけでいい。もうちょっと自分の褒めれる所を見ようとしよう。







◆育つ不幸な世界観

交流分析では人生脚本というのがある。基本的には七歳の頃までに決まった世界観・人生観であり、人はそれを「実現しようとする」という話だ。後から修正することも可能で、悪い「人生のクセ」を治そうとする試みもある。



知識や経験の集大成としてこういった世界観の「核」は何かしら必ず出来る。特にその材料となるのは「経験」だ。そして自分が不幸であるという確認と自分に対しての言い聞かせしかしてこなかったのだとしたら、当人にとって「世界はそういうもの」に落ち着く。



これは認知バイアスに近く、「見たいものしか見えない」、「それ以外は目に入らない」。「ああ、やっぱり世界/自分の人生はそういうものだ」としか思わない。



また、こちらが厄介なのだが、同じく交流分析に「心理的ゲーム」というものがある。ゲームと言っても楽しいものじゃなく、ろくでもないものだ。内容としては1.相手がいること、2.ラケット感情(偽物の感情)を手に入れることが目的、3.大抵不愉快な結末に終わる。



動機としてはストロークを得ることや単純に「攻撃」、最低なのは「暇つぶし」とかだが、その中に「世界観・人生観の確認のため」というのがある。今回これに該当したゲームをやる可能性はあるだろう。



要するに、「自分に幸福は似合わない」と思っている人間が「ああ、やっぱりそうだった」と思うために、そう思えるようなことを他人相手に仕掛ける、ということだ。さっきの恋人を試すような真似とかはこれにあたる。まぁ、やられる側としては相当迷惑だし、やる側もそう思われることは本意ではないだろうに。



これに拠って得た「ああ、やっぱりそうだった」というラケット感情は、そのまま世界観の「強化」となる。なにせ自作自演に近いとは言え「体験」した「事実」を元に、「世界観が正しいこと」を実感したのだから。これは確実に「悪化するサイクル」だ。やらないほうがいいだろう。



厄介なことに、人は未知の未来よりもわかりきった破滅のほうが「安心」する傾向があるらしい。想像できない幸福になるよりも、「わかりきった不幸な日常」の方が好きだということ。逆を言えば、思い描いたものを目指すならこう言った心理は働かないのではないか。



◆「不安」の正体

幸せ恐怖症の根底にあるのはベタな話だが、「自信の無さ」だろう。幸福とは偶然転がってきたり誰かに貰ったりという認識で、つまり「自力でこの幸せを手に入れた/作った」と思えないため、「いつか失うもの」だと思う。



また、手に入れたのがまぐれだから「一度失ったら二度と手に入れることはできない」とも考える。その上でそれが正しく自分の物かどうか、強度はどんなもんかと(つまり「まだ大丈夫」だと思いたいがために)試しに噛み付いたりして自分から壊すのはまぁ、本意ではないだろうに。
あるいは、どうせ偽物だと決めつけて壊れるまで「確認」するか。



幸せ恐怖症の他にもインポスター症候群(詐欺師症候群)と呼ばれる物があるのだが、これは実力がある者が妥当に出世・成功したのに「自分は周囲を騙している」と感じて罪悪感を感じたり、周りからの評価を受けて「自分は能力を不当に良く見せている」と感じたりする症状だ。そう思いたいくないからそもそも実力を発揮しないこともある。これまた女性に多いとされている。この場合「周囲の評価と自分が自分に下した評価が噛み合っていないからストレス」と言える。



他に理由がない純粋なタイプとして4つ目のタイプ、即ち「自分は幸福に値しない」と心底思っているタイプも有る。これもまた、それに見合う能力がないと自分で思っているからだ。同時にその「幸福」が完璧な青写真過ぎて、現実との落差でそうなることもある。「無理だ、自分はここまで幸福にはなれない」と。これはある意味完璧主義者だね。



また、この手の話ではベタだが「母親のせい」だった場合には、「自分は幸福にふさわしくない/なってはいけない」と考える。「自信(独立)の放棄」とも取れる。もとを正せばこれは、親の庇護下にいなければならなかった時の名残であり、子供の生存戦略としてはある意味正しいのかもしれない。



が、もう賞味期限切れだろう。「親を捨てる」ことはもう出来るはずだ。親が「ハズレ」だった場合、自分で自分を育て直すしか無い。まぁそこまで重く考えずとも、不機嫌になることであなたを「操作」しようとする親ならば、まぁ「顔見たら気分悪くなるから会いたくないわ~」とか思ってりゃいい。つまり心の中だけでも「独立」はしておいたほうがいい。「親が子供に精神的に甘えてる」という構図は、かなり多いんだよ。



前述の「いくら相手を試しても安心できない」という不安は、結局の所「自分はそれにふさわしくない」と思っているからだ。自分が自分でふさわしくないとしている、つまり「自分で自分が幸せになることを許さない」から、相手が何言ったところで不安は拭えない。というか、初めから相手の問題じゃない所に不安がある。この場合、「安心させてくれる人」は自分自身しかいない。







◆幸せ症候群が求める幸せとは何か

まぁ人それぞれで色々あるだろうけれど、幸せ恐怖症の人間が怖いと感じる「幸せ」は、殆どが「環境の変化」に見える。恋愛面で顕著に症状が出るのは、行き着く果ては大抵結婚だからだろう。つまり確実に環境が変化する。



インポスター症候群のような、成功が怖い、というのも周囲の扱いは変わるのだからある意味環境が変化する。



竹やぶで数億円でも拾ったり宝くじで一等が当たったとして、バレないように生活は維持するとしても、世界観は変わるだろう。これまた「環境の変化」と言えなくもない。見え方は変わるのだから。



これらは全て「変化」だ。そして、幸せ症候群の人間が望むのは、これとは違う「安心」に近い。わかりきった「今日」がいつまでも続いて欲しいと言ったような。一般よりも「刺激」を避けているようにみえる。



恐らく、「変化」に属するような幸せは、元から望んでいないのではないか。別に不幸じゃなければそれで良い気もする。まぁ何か問題があるのならそこだけ直すとかでいいんじゃないだろうか。ただ、「ゲーム」だけはやめておいたほうが良い。自他共に不幸にする。



また、現実に「不幸」「災難」はあるわけで、慎重であるに越したことはないのも確かだ。一度そういった不幸を「体験」してしまった場合、「ありえること」として警戒するのも無理はない。「思い切ってやってみろ」ってヤジは他人だから飛ばせるのであって、当人が思い切ってやってみるかどうかは慎重であるべきだろう。



ただし幸せ症候群は「博打を一切しない」傾向が強い。そして「完全に安全なんてものはない」。こうなるとどうしても受け身に回らざるを得ず、「転がってくる幸せ」しか知らないことになる。何かしらやりたいこととか見つけて、安全に配慮した上での挑戦をしていったほうが良い。



さっき「自信」と言ったわけだが、別に「それについて完璧に知っていて、つつがなく完了できる」みたいなものじゃない。本質的には「自分は成長できる」、「自分は良くなれる」、「自分はなんとか出来る」と言った「自分の適応能力・可能性」に対しての自信だ。



つまり「自分は実力を身につけることが出来るという自分への信頼」という意味での自信。それは育てていったほうが良い。この認識と実力を育てることは「安心」に何よりつながる。



多分だけれどね。実際にあったかどうかは関係なく、不幸や脅威、転落が十分にありえるという「怖い世界観」で生きてきたから、幸せよりも安心が欲しいんじゃないだろうかと思う。だから、まずは自分に対して安心感を感じられることを目指してみていいんじゃないだろうか。



己こそ己の寄る辺、己を置いて誰に寄るべぞ。良く整えし己こそ、まこと得難き寄る辺なり。



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