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何かを知ることと「できる・できない」の関係

何かを知ることと「できる・できない」の関係


 
 

・トロッコ問題

まずはちょっと悩んでみてもらいたい。トロッコ問題というものがある。
 
・暴走したトロッコが猛スピードで線路の上を走っていく。
 
・その先には五人の作業員が居る。このままではボーリングのピンの如くに五人が跳ね飛ばされて死ぬ。
 
・トロッコと作業員達の間には分岐点がある。
 
・都合よく、その分岐点の切り替えレバーはあなたの目の前にある。今引けば、間に合うね。
 
・ただし、変更した場合、進路変更上に居る別の一人の作業員が確実に死ぬ。
 
・これはIQテストではない。「レバーを引くか、引かないか」以外の選択は受け付けない。
 
さて、あなたならどうするか。五人が死ぬか、一人が死ぬか。どちらを選ぶ?
 






 

・トロッコ問題の別バージョン

まぁ本来は「それをやることは道徳的に許されるか否か」らしいけどね。
 
この問題は、「レバーを切り替え、一人を犠牲にする(あるいはそれは許される)」という答えをする者の方が多いそうだ。設問者にとってそれは気に食わなかったらしく(まぁもうちょっと悩めよって思ったんだろう)、別バージョンがある。
 
もう1つのバージョンでは、
 
・暴走トロッコが猛スピードで線路の上を走っていくが、今度は一本道である。
 
・前回と変わらず、その先には五人が作業をしている。
 
・今度はあなたはその線路をまたぐ形でかかっている橋の上に居る。手すりはないってことにしよう。
 
・隣にはもう1人、かなり太った人間がいる。「突き落として障害物にすればトロッコは確実に止る」。
 
・その者はトロッコにも、隣りにいるあなたにも「気づいていない」。
 
・さぁ、あなたは五人を助けるため、その太った人間を突き落とすか、突き落とさないか。
 
・これはIQテストではない。「突き落とすか、突き落とさないか」以外の答えは受け付けない。
 
・・・言っておくが、私が考えたんじゃないぞこの別バージョン。疑われてそう。
さて、こっちのバージョンでは「何もしない(あるいは突き落とすことは許されない)」を選ぶ人間が増えた。誰にでも分かるレベルで「自らの手で人を死に追いやる」形だからだ。
 
この問題は五人を救うため、自らの手で1人を死に追いやるか。それとも、自らの手で人を死なせるということを避けるため、五人を見殺しにするか、という問題だ。言い方を変えれば「五人を救うために人殺しになれるか(あるいはそれを許すか)」という話だ。初めから。
 
どちらが正しい、という話でもない。悩んで選んだのなら、別に当人にとっては決着がついた決断なのだろう。だが、初めの問題を見た際に、悩んだだろうか。もしも小学生の算数レベルに「5>1」ということしか思い浮かばなかったのなら、問題の意味が「わかってなかった」、ということになる。
 
そして別バージョンにしたことに依る「手のひら返し」は、問題の意味(あるいは行動の意味)がわかってなかった者たちが結構な数いることを意味している。まぁ、直にやるか、間接的かの違いって話はあるがね。
 
掌返しをしたチーム、つまり最初は一人を犠牲にするべき、次に突き落とすべきでないと答えたグループは、最初の問題では「五人が助かる」という方に意識が行っていたのだろう。次の問題では「自分が1人を死なせる」ということに気づいた。まぁ、ある意味素直なのかもしれない。
知った、気づいた、分かった事により、「行動が変わった」と言える。とても「まとも」な心移りじゃないか。
 




・知っているから出来ないこと

知ることで出来ることは増える、というのは経験上わかっていることだろう。が、知ることで「出来ないこと」も増える。ここは見落とさないほうがいいだろう。
 
トロッコ問題には派生問題がいくつかあるが、それにちなんで私も作ってみよう。道徳ではなく認識している情報量による行動選択の変化の示唆のため。
例えば、最初の問題の方、障害物で「1人」の方が見えなかった場合はどうだろう。あなたからは、分岐を変更しても跳ね飛ばされる1人は見えない=気づかない。この状態で、レバーを引くことをためらうだろうか。
 
ためらわないだろうね。猛スピードのトロッコが相手だ。時間制限がある。このままでは五人が跳ね飛ばされることは分かっている。そして切り替えることにより犠牲になる一人の存在を「知らない」のだとしたら、ためらう余地が一切ないね。
 
この場合、一人が犠牲になったとしても、それに心を痛めることもなく、あなたは「五人を救った」という充実感を胸に出来るだろう。どこかでミンチが出来上がってるわけだが。
要するに、「知らなきゃ、わかってなきゃ、人も殺せる」ってことである。
 
とまぁここまで考えた上でだね、実際には分岐先には障害物があるだけで誰もいなかったとしても、今度は怖くてレバーを引けなくなるかもしれないよね。あの裏に人がいるかもしれないって。
まぁ、経験、可能性、思考によって行動選択は狂ったようにぶんぶか揺れるということ。よく聞く話だろう。「考えすぎると動けなくなる」ってさ。
 
知識が増えることで、あるいは可能性、あるいは経験の影響で「選べない選択肢」が増えることはある。
 
逆に、今までやってきたことが自分の価値観から見て「とんでもないこと」だったことに後から気づく、ということも在り得る。

・知らないことで出来ること

こっちは簡単だろう。1つめと2つめで答えが違った人ならなおさらに。
 
1つめで一人を犠牲にする、2つめで「どういうことか」がわかって「突き落とすべきではない」と答えた人が、もう一度1つめの問題をやった際、同じ答えを選べるだろうか。よしんば選んだとしても初見の時と同じ気楽さで選べるだろうか?
 
そんなこともないだろう。多少でも気が重くなるはずだ。「意味がわかったから」。
 
逆に初見の際、一人を犠牲に出来たのは「知らないから出来た」とも言える。
 
えらい簡単にいえば、核ミサイルのスイッチを押すことは正気の人間には出来ないだろう。でもチンパンジーならできる。意味わかってないから。どうなるかわかってないから。エサが出てくるボタンと同じノリで押せる。
まぁ現実にはセキュリティ厳重らしいけどな核のスイッチ。そりゃそうだ。
 




・間接的であることに依る責任感の希釈

オリジナルと亜種の対比でもう1つ気づけるであろうことは、「結果が間接的であればあるほどそれに対する責任感は薄まる」ということだ。誘導するために結構悪用されてるけど。
 
まぁ今回は「わかってなかった」ということをメインに話を進めてきたが、わかった上で最初の問題ではやっぱり一人は犠牲になるべきで、別バージョンではやっぱりできない、というのもいるようだ。
 
見方の問題であり、その感想も間違ってるとは思わないが、じゃあ違いはどこにあるのか、といえばやっぱり「間接的か、直接か」しかない。
 
この場合、間接的になら「仕方なく」で一人を犠牲にできる、ということになる。自らの選択に他人の命がかかっていると言うのは変わらないのだけどね。
 
逆を言えば、どうなるかわかっていても「現実味がなかった場合」、自分自身の道徳観念よりもメリットデメリットや世間体に依る判断が優先されることもある、ということになる。
 
例えばうつ病や自殺についての話でよく聞くのが、「お前らこうなるまでは頑張れ、甘えるな、皆同じだとか言ってたじゃねーか」というのがあるわけだが、まぁ、「こうなる」のがわかってない、あるいは理屈じゃわかってても現実味がないのなら、気楽に薄っぺらい気休めとか口にするだろうなと。
 
また、「会社の指示」の場合、非人道的、非社会的な行動に対して抵抗感が薄まるという実験記録もある。
 
だからね。何も出来ない、優柔不断、みんなと同じことをやるのが苦痛、どうしたらいいか分からないって方が、「状況をわかってる」「人としてマシ」ってこともあるんだ。
 
例えばうつ病相手に頑張れっていっちゃいけないってのを聞いたから、掛ける言葉が見つからなくて困る、なんて人もいる。結構いる。じゃあなんて声かけたら良いのって。
 
反対に即断即決で行動力がある理由が「バカだから」「知らないから」「共感能力が欠如している」ってのもあるんだ。
わかってなきゃ悩まないさ。ほとんど片方しか見えてない、行動選択の「分岐がない」状態なんだから。
 




・自ら知ろうとするべきか、それとも知ることは避けるべきなのか

知れば知るほど悩みは減り、出来ることが増える。
それと同じくらい知れば知るほど悩みは増え、出来ないことも増えることもある。
どうしろと。
 
好きなものだけ掻き集めて幸せに過ごしたい、という気持ちも無くはないが、人間は恐らくそういう風には出来ていない。人は自分から問題を探す傾向がある。人が安心を感じるのは何もない時ではなく、問題が片付いたときから次の問題が見つかるまでの「スキマ」だ。
 
社会的にも情報的な意味での「鎖国」には無理がある。テレビのCMや広告、あるいは狙いがあるコンテンツ、はたまた口コミやら、近所や職場の噂話やら、知りたくないようなことを嬉々として運んでくるものがいっぱいいる。そしてこういった情報に対して受け身の状態のままでいれば、「誰か」に都合がいい行動選択をする状態になるだろう。それしか判断材料がないのだから。
 
情報そのものもまた、偽情報、事実を隠すためのデコイはある。事実だとしても情報発信者というバイアスが必ずかかる。情報発信者が気をつけていてもだ。また、受け手の情報発信者に対するイメージなどによるバイアスも在り得る。フラットな情報というのからして、恐らく無理だ。
 
なーんか八方詰んでる感じがするが。それでも、騙そうと、操ろうとしているような連中の思い通りにはならない程度には、自分から知りに行ったほうがいいかな、というのが個人的な結論。知識量が「自衛」になるのもまた、確かだし。
 
まぁ、気になったことくらい調べたほうがいいんじゃないか。ただ、覚えるためじゃなくて、考える材料探しのつもりのほうが良いと思うけど。
 

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