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感想:自信という力の解明|ローランド・マンソープ|TEDxDelft

感想:自信という力の解明|ローランド・マンソープ|TEDxDelft





TED動画の感想。自信は持たなくてはならないものなのか、自信の価値とは何か。そもそも自信とはなんぞや。そんな話。












自信という力の解明|ローランド・マンソープ|TEDxDelft





萎縮状態

「自信」という概念は、細分化が必要だと思う。実力以下の自信しか無い「萎縮状態」の者のほうが多いように思える。要するに「自信がない人」。



彼らの持つべき実力相応の「正当な自信」と、放っといても調子こくあっぱらぱーな奴らの「捏造された自信」は分けるべきだ。「自信」という言葉だけではどちらも該当し、最早言葉が機能していない。



まぁ後者は「自惚れ」という言葉があるし、言い方を変えれば「自惚れ」と「自信を持つ」ことを混同するなとは言っておきたい。



正当が自信が他者から見たら自惚れに見えるなんてこともあるだろうけれど。それこそ「自信」があるなら揺らぐまい。



もしもローランドが萎縮状態だったのなら、TEDでの講演なんて辞退するだろう。彼自身が「自信は人生の全てにつながる」と言っていたが、これがまさにそうだ。
自信ってそんなに必要かねと言った彼自身が正当な自信、つまり実力相応の自信を持っているからこその動画だろう。



つまるところ、実力相応の「正当な自信」を持てば、自らに相応しい振る舞いができると。それ以上になりたけりゃ、まず実力をつければいいと。



自信を求める動機 特に自信が足りないと感じ、それを求める人間は何らかの「行動」を起こしたいと思っている事が多いように思う。あるいは「理想の自分としての振る舞い」。



人は自分の中の何かを変えたいのにその勇気や行動力がない場合、「そのまま」を維持しつつエネルギーが溜まるのを待つというスタイルを取る事がある。



そのエネルギーは殆どの場合感情やフラストレーションに属する。何らかの不満、怒り、失望、興奮などネガティブかつ暴走する事が多い。いちいち怒ったり興奮しないと何も言えない出来ない奴っているだろう。彼らにとってはそれだけの「エネルギー」やらテンションやらが必要な行為なんだ。



まぁこれは価値観とキャパシティの問題であり、誰にでも何かに対しては当てはまるんだが。



このスタイルは受け身だ。行動を起こせたとしても自分のペース、自分のイメージの形とは食い違う。だから後悔がつきまとう。



こういったスタイルを多用する人間、あるいは発散すらせずに押さえ込み続ける「我慢強い人」が特に自信を求める傾向が強い。つまり彼らはもうちょっと上手な方法で、言うべきことを言い、やるべきことをやりたいのだろう。



で、「自信」はそれらを解決してくれるね。自信がある態度とは堂々と振る舞うことに他ならないから。







自信と実力


自信と実力は切っても切り離せない関係にある。



実力>自信 なら「自信がない」だし
実力<自信 なら「自惚れ」だ。



いつもながらバランスの問題であり、度が過ぎればどちらもろくでもない。



前述のような実力があって自信がなく、理想通りに振る舞えないという状態なら自信を求めてもいいし、むしろそうするべきだろう。



ちなみにアドラー心理学では「理想の自分」に対して感じる劣等感は正当なもの、とされている。努力する動機になりえると。
最もこれによるフラストレーションを自分より下を探して見下すような真似で解消しようとするなら劣等コンプレックス、つまりきたねぇ劣等感になる。


自信の自己中心性

ローランドが言っていた「落ちるまで登り続ける」という自信。
ある意味ストイック。



また、自信をつけるためには他者評価に左右されてはならない。まぁ当然だろう。「自分を信じる」と書いて自信なのだから。人に褒められて付く自信は結局、他人が言ったことを信じてるだけだ。だから褒められなきゃ不安になる。本当に「自信」が欲しいなら、自分で自分を認めていかなくちゃならない。



自信というより「強さ」の話だが、追い求めるならば殆どの場面で他人は「邪魔」か「敵」になる。利用するか役に立つか、そんな視点で人を見るようになれば、まぁ相手にもそれは伝わるだろう。



度が過ぎればだが、理想主義になり、妥協を許せなくなり、自分を追い詰める傾向も強まる。最後には何か失敗し、地に落ちる。この流れはミニ脚本に似ている。 ◆







ニーチェ

ニーチェは確かに個人主義で、ストイックな傾向が強いようだ。



私を破壊するに至らないすべてのことが、 私をさらに強くする。




自分を破壊する一歩手前の負荷が、 自分を強くしてくれる。




愛されたいという要求は、 自惚れの最たるものである。




孤独な者よ、 君は創造者の道を行く。




- ニーチェ - 

まぁ色々言ってるが、「一人で生きていく」という意識があるようにみえる。ニーチェに「自信」があったかどうかは知らないが、少なくとも精神的な「強さ」に対しての探求者ではあったような印象を受ける。



ただ、自己中心性のようなものは感じられない。一貫して観察者、あるいは「人間の分析」という研究者の立場に立っている気はするが。


自信の価値

自信の価値はその者が何を求めるのかによって変わってくるだろう。



「強さ」が欲しければ自信は求められるものである。さらなる自信が欲しければ、まず実力をつける所から始めるべきだと思うが。 協調性に重きを置くなら、周りから飛び出るような自信は別にいらないってことになる。



ただ、周囲の「親身なアドバイス」がなりたい自分とは違うことは大いに有り得るだろう。親が子に期待する理想の進路や就職先なんかが代表的だが。



時にはアドバイス(実質ヤジ)を拒絶し、救いの手(実質妨害)を振り払うべき場面もあるだろう。そう考えると、「強さ」は必要じゃないか?



まぁ、両立できたらいいんだけどね。できそうに見えるんだよね、なんとなく。というか、ダブスタが最適解だと思うんだが。 ◆





まとめ


結論としては「程度・バランスの問題」といういつも通りの形に。
この場合は実力と自信のバランス。



加えて動画で言っていたとおり「自信は循環するプロセス」という認識がいいだろう。言い方を変えれば関心が自分に向いて、周りにも向いてというサイクルだ。
こう考えると、別に自信を育てつつ周りとうまくやっていくことも可能だと思える。



チャレンジ精神、行動力、それらが欲しい者が特に自信を求める。



が、ちょっと考えてもらいたいんだが、出来るかどうかわからんことに対して「出来る」と確信する時点で頭イカレてると思うんだが、どうだろうか。
こんな風になりたいのかと問われれば、別にそうでもないだろう。



「挑戦」なんだったらリスクは絶対にある。成功を確信なんてできないし補償もない。それがあるなら挑戦じゃなくて消化試合だ。



自信という名の勇気だけでやるやらないを考えるよりは、分析とか調査したほうが効果的だと思う。「自分ならいけるんじゃないか」と自分を説得するためにもね。



職場で「自信を持て」と言われるのは大体の場合「自分の担当くらい自分で完結させろ」という意味です。それが妥当か不当かはケースバイケース。



なぜ、スマホいじってる奴がドアップで映るカメラアングルにした。 ◆





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