なぜ自分の勘違いや思い込みに気づけないのか
勘違いや思い込みの状態の人は、明らかに周りから浮いているのに自分でそれに気づかない。変な勘違いさえなければそんなこと絶対にやらないような「普通の人」が、変な勘違いのせいでなんか残念なことをやらかしたりする。なぜなのか。
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情報を得た時、「見た」「聞いた」「認識した」そして「知った」と思うわけだが、実はそうじゃない。
土台を崩すことを言うが、そもそも「言葉」あるいは「文字」はそれぞれ「音」、「絵」にすぎない。これ自体はクオリアを持たない。元から「意味を持っていない」。発信者にその意志があってもだ。暑苦しいやつが「心がこもってない」とか騒いだりするが、まぁ元からそんなもんはないわけだ。
情報の認識、そして理解のプロセスはどちらかと言えば「暗号解読」に近い。読み取る「鍵」を持っていなければ意味は元から読み取れない。
私たちは教育や周囲からの自然学習によって物事の「意味」を学習したつもりでいるが、学んだのは暗号の読み方、つまり「鍵」の学習だ。
まぁ実際に試してみようか。次の言葉の意味を思い浮かべて下さい。
「手紙」
「暗算」
「愛人」
「挨拶」
はい。どういう意味でしょうか。
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まぁ思い浮かべたものであってるね。流石に間違えはしないだろう。
正解は「手紙」はトイレットペーパー、
「暗算」はよからぬことを企むこと、
「愛人」は結婚相手、
「挨拶」は拷問のことだ。
元から知ってる人は置いといて、ただ単に中国語でしたってオチなんだが。私達日本人なら高確率で「全く別の意味」に解釈し、それを疑いもなく「認知した」と思い込む。ここまでは別にいい。利便性とスピード重視の
ヒューリスティクスだろう。重要なのは「それ以上は
考えない」ということだ。
これが中国人だったら多分この罠には引っかからない。私がどちらのつもりでこの言葉を並べたのか、少なくとも「2つの可能性」が思い浮かぶ。この文章自体が日本語で書かれていてその上で中国語が自分のデフォルトならば、「(解釈の仕方という意味での)鍵」が2つ頭の使いやすいところにあることになるからだ。
大抵の日本人の場合は手持ちの中の一つの鍵、つまり日本語しか使えるとは思わない。それでなんとなく意味が成立するのならそれでいいと解釈し、他の可能性は探さない。まぁ今回単語だからね。
要するに、上記のクイズで気付くべきことはわからなかったこと、間違えたことではない。「答え」だと思えるものが瞬時に思い浮かんで、それ以上は考えなかったことだ。別に
これが普通なんだけれど。
「分かった」と思ったらそれ以上は考えない
人間は謎や疑問、違和感に対しては頭を使う。だが、「知ってること」には頭を使わない。思い出して先を考えたり実行するなどの方面になる。自分で「これ以上、これには頭は使わない」と決めていると言っていい。別にこれは自然体だ。一々スマホや自宅の鍵相手に疑問持って哲学やってたらハゲる。
「わからない」なら自分でそれに気づけるが、「勘違い」の状態は「わかったつもりでいる」状態だ。それ以上は疑問を持たず、つまりは考えず、だから気づけない。
よく勘違いやらかした人間に「考えれば判ることだっただろうに」というツッコミがあるわけだが、まぁ確かにその通りなんだがこれは「頭の良さ」と勘違いするかどうかとは別の話だということでもある。
ここまでは仕方のない話だし、無意識的な機能の問題だ。だから人間が自分の勘違いや思い込みに気付くためには、いち早く自分の解釈とそれ以外との「ズレ」に気付くかどうかにかかっている。少なくとも確信を持ったところでそれはどこまでも「理解」ではなく「解釈」であることは、特に勘違いが多い人は心に留めておいたほうがいいだろう。
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データからの再構築
身もふたもないことを言えば、私達の意識は一生頭蓋の中に閉じ込められた状態だと言える。何かを伝える時というのは誰かに認識できる状態で何らかの物理的な形にアウトプットする必要がある。声、文字、ボディランゲージ、表情など。
物理的な形とは、ただそれだけであり、そこに意味は、少なくとも発信者が込めた意味は実は含まれていない。相手は物理的なその「アウトプット」を知覚した後「どういう意味か」を考える。自分の持ってる「カギ」を使って。瞬時に。
つまるところ同じ言語で会話していようが、暗号化→その復元のプロセスが行われている。この過程そのものでいくらかデータは消失する。どれだけ丁寧に説明したところでそれは「ヒント」止まりであり、汲み取れるかどうかは相手にも依る。
この上で厄介なのは「カギ」が間違っていても
合理化という名の修正をするからそれなりに会話は成立することが多いし、酷い時には一方的に喋るのが好きだとかそんな人間がいたりして解釈に「ズレ」があることにどこまでも気づかないことがある点だ。
お互いに勘違いしたままで会話は終わり、第三者を巻き込んで初めて問題発覚、なんてザラにある。
もう一つ、言葉の意味は正しく解釈していても、その強弱が伝わっていないことは多い。例えば「死ね」だの「殺す」だの言ったところで大抵はただ単に「ムカついた」「気に食わない」程度の意味であり、嫌悪は伝わるが「強さ」は発信者と受信者で異なる。
やたらと舌打ちするやつだとかもまぁそうだね。本人はただのクセだったりちょっとした不快の表現のつもりな事が多いが、基本周りからはそのうち傷害事件起こしそうなチンピラに見えている。
私が
メサコンみたいな「気持ちはきっと伝わる」とか言って独りよがりな下手な方法ひたすらやってるやつが心の底から嫌いなのはこの辺りにある。ある意味やる気がない。伝えるつもりがない上に相手は嫌がっているのなら、もはやストーカー系列の暴力や嫌がらせに近い。
いやまぁ、相手側がカギを持ってたところで、使うつもりがない(理解するつもりがない)のなら正確だろうが疑問の余地が無かろうが絶対に伝わらないのだが。そこまで拒絶されてるなら諦めろよと。
人間の日常の平常運転がこの程度のクオリティなのだから、勘違いや思い込みが発生するのは時間の問題だろう。その上これ以上のクオリティで日常を過ごすのはぶっちゃけ疲れる。
ただ、過去の経験やら主義主張やらのせいで特に他人の意見から悪意を「拡大解釈」したり、「無いものが見えている」状態の人間もいる。
そういった人に言いたいのは、「多分相手はお前の存在すら知らねぇよ」ということだ。特にネット。
少なくとも「そう解釈したこと」は想定外のことが多いだろう。元から自分に向けられたものじゃなく、無視していいものかもしれないよ。お互いに相手しなくていいはずなのに片方が首突っ込んで地獄絵図とかあるのは、まぁ噛み付いた側の被害妄想による解釈が大体多い。
「世の中にそういった意見が存在することが許せない」とか言っちゃうどこぞの独裁者みたいな奴はもう知らん。せいぜい正義を名乗って暴れて、悪として倒されるがいい。
もちろん、これは個人の一意見に対しての反応の話だ。政治家とかの発言の場合騒がれて当然だろうけどさ。奴らの言動は他人事じゃなくなるからね。そもそも「代表者」のはずだしね。
タレントの場合は微妙だねぇ。影響力という点は大きいが、喋るなとは言えまい。盲信して追従するヤツらが危険なんだと個人的には思うけど。
そいつらがいなけりゃ「スルーされました」、で終わる話だろう・・・と言いたいが、むしろ存在しない「追従する奴ら」をそいつの知名度から幻視しての過剰反応もあるしな。
その場合は私は気持ちは分かってしまう。まぁタレントは無難なこと言ってるのが一番な気はするな。
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結局の所、勘違いや思い込みをなくすのは無理だろう。どうせやらかす。ただ、やらかしたことにすぐに気づくための方法ならある。「決めつけるな」「わかったと思った後もよく聞け」、この2つを基本とし、感情的衝動的になりそうな対象には「スルーできるならそうしろ」程度の話だ。
特に最後は重要だ。やる前なら我慢するだけ。やってしまったら必ずその間違いに対しての「後始末」が発生する。謝罪ツアーやらなんやら。それがなくても汚点として周囲からの評価に影響するだろう。
まぁこれは誰でも行動に対して発生するリスクだが、尚更こんなリスクを抱えて行うのは自分のやりたいこと、やるべきことの方が得だろう。だからそうじゃないものに対しては「スルーできるならそうしろ」ってことで。
・・・やっぱり慎重さが足りないだけじゃないのかこれ。まぁ「慎重さ」のそこそこ具体的な内訳ってことで。
感情的で思い出したが、自分の言動や意思決定をする時に普段からテンションや感情のエネルギーに頼っている者はやらかす可能性が高い。単純にやりすぎて止まらない傾向が強いからだ。怒るまで言えないだとか、期限ギリギリにならないとやる気が出ないだとか。
こういった人は行動力の上下の幅が広すぎる傾向にある。もうちょっと大人しい状態で色々出来るようにしたほうがいい。恐らくストレスを感じる機会そのものが減るだろう。
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