動物のモラルと人間のモラル
目次
動画:フランス・ドゥ・ヴァール: 良識ある行動をとる動物たち
性善説と性悪説
人工的なモラルと本能的なモラル
「和解」について
人間の本能的なモラルは動物に劣るか否か
◆
◆
動画:フランス・ドゥ・ヴァール: 良識ある行動をとる動物たち
「理性」は人間にしかないというのは幻想で、動物もかなり「道徳的」、「人道的」だったりする。
性善説と性悪説
知らない人もいないと思うが、世の中には性善説と性悪説がある。
性善説は人は生まれながらに善性を持っており、その長所を伸ばして行くべきだという意見。
性悪説は人は生まれながらに悪性を持っており、だからこそそれを抑え、前に向かっていくべきだ、という意見。
まぁ、お察しの通り私は性悪説を支持していて、性善説クソ食らえとか昔は思っていた。その後「これどっちも同じこと言ってるんじゃないか」という考えで留まっていたんだが。
◆
◆
まず性悪説についてだが、人間の本能の内ほとんどの感情、衝動などは大抵悪とされる。例えば感情的に怒鳴り散らすのは人としてよろしくない、というのが世間一般の意見だろう。
で、この「悪」を抑えようと努めるからこそ、それがストレスになり、つまりは人がストレス抱え込むのはちゃんと「人間性」がある証拠だ、ということ。「
うつ病にならない人間」の一部がわがままで周りの迷惑考えないようなそんなパーソナリティなのとも無関係ではないだろう。
性善説の方は今回動画で言われてたとおり、共存共栄のための「本能として」ちゃんと元からあったことが証明された形になる。それも人間が自惚れていた以上にずっと社会的、人道的な形で。現段階では霊長類に限られそうだが。象もか。
つまりは性格がどんなんだろうが「脳」レベルで善性、悪性どちらもあるということだ。性悪説しか考えなければ人生は辛い我慢の連続だし、性善説しかなければ都合の悪いことは見えない脳みそお花畑のうかれぽんちでしかない。「どちらも元からある」。片方だけ見ていては精神や人格のバランスを崩すだろう。
改めて考えてみると、性善説と性悪説はやはり「本能」という同じものを指しての裏表だろう。つまるところこれは両立が可能であり、自身の内の悪を宥め、自身の内の善を伸ばせという話になる。
この考えで行くと、「悪」への欲求は「善」を行うことによって満たされるのかもしれない。まぁあれだ。嫌いな奴が気に食わねぇことをしないかと見張るより、好きな人に親切にしたほうがいいみたいな感じで。
人工的なモラルと本能的なモラル
人間の本能的モラルの質や理性と比べた優先度が動物より劣っている可能性。これはまぁ、有り得る話だろう。
「ルール」は人間の場合、明確に法律などとして定義されており、時代的背景や大きな事件などによって変化・進化・適応してきたミームとして存在している。
一方(これらのモラルが霊長類全てに共通であると仮定した上で)、「本能的なモラル」は
相変わらず暗黙の了解やアタリマエ、マナーとして存在していることが多い。つまりは人工的なモラルとナチュラルなモラルに分離している。グローバルとローカルの違いもあるが。
その上で罰則などの何らかの強制力があり、定義化された(つまり教えやすく覚えやすい)のは人工的なモラルの方だ。簡単に言えばこっちは「馬鹿でもわかる」から、バカはこれ以外は気にしない。
◆
◆
この下地があるから「法律だけ守ってりゃいい」というタイプのバカが湧く。別に
ブラック企業主に限った話じゃない。いやあいつら法律も守ってないか。抜け道探してるだけで。
まぁとにかく本気で「法で禁止されてない限りは全て自分の「権利」だ」と思ってるバカは個人間レベルでもいるだろう?
要するに人工的なモラルさえ守ってりゃいいんだと後天的な学習をした場合、本能的なモラルは無視される。
言い換えればこれは「人工的なモラル」だけを守って、「本能的なモラル」を蔑ろにしているのと同じだ。だから「本能レベルで嫌われる」。
これは本人は社会的なつもりでも、周りからは「利己的」に見える。「持論」の狂信者。あるいは「正義」の。もっと簡単に言えば「独善」。
言葉が通じないことが多い。避けたほうが良いだろう。「利己的な個体を嫌う」のもまた、本能なのだから。
自己愛性人格障害やサイコパスが経営者に向いている、なんて話があるが、まぁこれまた納得だろう。人工的なモラルだけ守って他全部切り捨てるなら、他者と比べて「足枷」が少ないってことになる。短期的には。長期的にはどうかな?
嫌なら見るなって言ったテレビ局が落ち目になったり、嫌なら買うなって言った石鹸屋が落ち目になったりしたことがあったね。
いつか書くかもしれないが、実は「消費者」はかなり強い。ちゃんとまとまればだけれど。
まぁ、過労死出した居酒屋に「安いし近いから」って理由で通う限りはダメだろうが。本能的に避けても良いんじゃないか?
別にこういったのを避けるのに「言い訳」はいらない。本能的な分野なのだから、それを捨てた奴には言ってもわからない。実際にいるんだよ。「正当な理由がないのに自分を嫌うなんて許せない」とか言っちゃうなんか振り切れてる奴。
ただ、モラルは進化、変容するものではある。例えば「時代遅れ」という一点だけで、もはや主張することすら悪だともなる。亭主関白とかね。人によってはモラハラ宣言に聞こえるだろうね。
本能モラルも「普通」の概念と同様に、「核」が存在しない揺らいでいる集合体のようなものだろう。盲信して良いのかどうかは疑問が残る。まぁ、するべきではないだろう。
ただ、ここに注目すると自分の心が何にムカついて何に嬉しいのかというのが見えてくるはずだ。ただ、くれぐれもそれは「正しさ」とは別だと言うことは忘れないように。 他人に対して強制力はないし、支配に使うべきじゃない。
◆◆
◆ ◆
「和解」について
チンパンジーでも仲直りするのにお前らときたら・・・。とか言いたいが、多分そうじゃない。
「予見性」においては本能を日頃から抑えている人間の方に軍配が上がるだろう。私たちは謝罪や和解が必要になるようなことをわざわざ衝動的にやらない。
要するに、動物たちは「やっちゃった」後で仲直りしなきゃならない状態になるのに対し、人間の場合「やっちゃう」のは我慢の限界が来てからだ。
すぐ謝れるからいい人だーなんて意見もあるけれど、謝らなきゃいけないようなことすぐやっちゃう奴である可能性も考えたほうが良いだろう。
実際、「謝ったんだからいいじゃないか」とか「謝ればいいんだろう」とか謝るだけで「なかったコトにできる」と思ってる「すぐ謝る奴」は大抵迂闊であり、衝動的である。
それ以外はそれなりに覚悟を決めて事に移す。だから簡単には謝るまい。それはそれでめんどくさいんだが。
「不公平に対して怒りを感じる」ことが本能レベルだというのも面白い。公平感は世界平和に必要かもね。ただし人間は個体差が激しい。その目的も欲望も、能力的にも内面も。
公平感を「演出」するためには、かなりの数の妥協が必要になるだろう。
人間の本能的なモラルは動物に劣るか否か
さっき言ったとおり、私たちは社会的生存のために人工的なモラルを守らなきゃいけない。罰則付きだからね。強制力あるね。
その上で明確化されていない本能的なモラルも守っておいたほうが心穏やかに過ごせるだろう。
人類共通の価値観であり、ストロークであるからだ。むしろここがわからないなら周りの人間ほとんどに本能レベルで嫌われる、ということになる。
一人で生きていけるほどの何らかの「武器」がない限りはマイナスにしかならない。 要するに、人間だけは2種類のモラルを気にしなきゃならないから、チンパンジーより大変だということだ。
◆◆
◆ ◆ そして優先順位としては、間違いなく人工的なモラルの方に軍配が上がる。罰則付きな時点で
古典的条件付けに近い。本能的なモラルはオペラント条件づけのような「動機」にはなり得るが、義務でもないし守らなくても「具体的なデメリット」は短期的には、ない。
自然的な学習も視野に入れれば、「実践」したものこそ最も行いやすくなり、つまりは自然体になる。じゃあどちらを常に意識しているかと言えば・・・。うーん。人それぞれな気がする。
でも駅のホームに落ちた人助けようとして飛び込んで自分が死んじゃったなんてことも実際にあるわけだ。
なんというか、「本能レベルの善」とでも暫定で呼ぼうか。あんまり善悪って言葉好きじゃないんだが(悪用されまくってるから)。まぁそんな人もいるよねと。
ただ、死んだら終わりだとも思うんだよね。遺族も助けられた人もなんかこう、煮え切らない感じになるんじゃないだろうか。こういった話に対して手を叩いて喜ぶのは一部のなんかズレてる部外者だけだ。
「生きてく」ことを考えるなら、もうちょっと日常的に本能的な善を小出しにすることを考えるべきなのかもしれない。
交流分析や
アドラー心理学などの人間関係に注目した系列ではこれは珍しくない意見だ。
悩みのタネは殆どが人間関係、だから健全で平和な人間関係を築きましょう、ってことだね。
元から他人を自分のオプションとしてしか見ていない人間には人生単位で必要ないのだろう。
例えば「いい父親」である自分をご近所様に見せびらかすために、風邪引いた子供を長時間散歩に連れ回すキチガイとか実際いるわけだが、そんな奴らには。
また、共感能力や社交性すら本能レベルで存在することが動画では示唆されていたが、人間の場合かなり目につくのが、「わかった上で利己的に利用する」奴が存在することだ。
◆◆
◆ ◆
うんざりするが、人間本来のモラルや美的感覚を悪用している連中はいる。
こういった連中のせいで
名言は汚され、
仲良しグループは崩壊し、
善意は利用され、
「良い人」は自殺する。
ただ、フラットに見てみると、どうも本能的なモラルのセンスは「個体差」が異様に大きいように見える。後天的な学習、つまり経験や本人の人生観、
強迫観念やらで「歪む」あるいは「弱化」や「強化」が起こっているようにみえる。
もしそうだとするならこれは良いことだろう。更に自分で書き換えれるってことだ。
「誰だって自力で自分が思うまともな方向に向かえるはずだ」ということ。簡単ではなさそうだが。
文中のリンク
何が普通か、普通はあるのか。何が異常か、正常はあるのか。
休日に上司からの連絡は違法(罰則あり)
自己愛のモラハラ加害者に自覚させるには?
トラウマ克服に使われる行動療法 暴露療法
交流分析における「ゲーム」:心理学
アドラー心理学:課題の分離
強迫観念とミニ脚本
◆ ◆
◆ ◆
最新記事はこちらから
サイト内検索:
ツイッター:
→
https://twitter.com/nemomanas
シェアをしていただけると嬉しいです。
ブログ移転しました:
https://embryo-nemo.com/
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
────────────────────────────────────────────────────────────────
[1回]