好きなものがつまらなくなる謎の義務感
業務上の義務感責任感は置いといて、自分が好きで自分で始めたことがだんだん重荷になってくるということについて。趣味とかゲームとか。
「やりたい」が「やらなきゃいけない」になった時点でそれは「義務化」だと言える。それを強く自らに課すならば、もはや強迫観念となる。
義務化すると、やってない状態がマイナス、やったらプラマイゼロで、満足感、達成感といったプラスの状態になれなくなる。
つまらないから義務と感じるのか、義務化するからつまらないのか。
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つまらなくなる要素
まずつまらなくなる要素を挙げてみる。
慣れや飽き
慣れてくれば「新鮮味」は薄れ、刺激はなくなる。結果、つまらなくなってくる。人によってはさらなる刺激を、となるので逆にエスカレートしていく要素でもある。
簡単になれば飽きる。慣れてくれば飽きる。これは自然なことだ。飽きる→刺激がない→つまらない。でも習慣化はされていたり、今までやってきたことがもったいないから「飽きてきたけどやらないと」になる。
ソシャゲでバランス崩壊キャラ追加されると荒れるのは、ゲームが楽になった結果「ゲームの寿命を縮める」ようにプレイヤーには見えるからだ。
まぁいくら強キャラ追加されてもどうせ出ないんだが、入手したプレイヤーにはヌルゲー、未入手のプレイヤーはその強キャラに合わせてコンテンツを作られたら「無理ゲー」になる未来を想像する。
これは前者には「簡単になることでつまらなくなる」、後者には「ハードルを上げられることでつまらなくなりそう」についての反応だ。
ゲームに限らず、何かやるならなんらかの「上達・成長・進捗」を意識し、攻略していこうとする。その目的はゴールに到達することだ。ゴールがもう無理だと思うレベルなるのなら、やる気はなくなる。
つまり、つまらないというのは「出来るからつまらない」と「出来ないからつまらない」の二種類がある。
人は「ゴール」に向かう
慣れや飽きが「悪い」とも言えない。これは言い方を変えれば「上達」だからだ。ただ、それを極め尽くしてから飽きると言うよりは、壁にぶつかって上達が止まるか、自分が想定したゴールに到達したかのどちらかだろう。
こうなってくると単純に「つまらない」と感じる。やることや、やりたいことがないからだ。
つまり、楽しむことはつまらなくなることに向かっていく行為だ。言い方を変えれば楽しむというのは、「過程」の中にしか無い。
私たちは上達や成長、進捗、つまりは「なりたい自分に近づいていく」のが楽しいのであって、この体験は一種の自己実現の喜びだ。それが趣味やらゲームでも。
加えて大抵の場合は人は「最適解」を本能的に探す。
もっと効率的に!
もっと早く!
もっと楽に!
とまぁ、ぶっちゃけ終わりに向かって突き進む。
ゲーム開発の分野では「水はひび割れを見つける」なんて言葉がある。開発者が想定してなかったようなゲームの「抜け穴」をプレイヤーが見つけ、そこに殺到することを指す。
プレイヤーたちはその「最適解」しか目に入らず、開発者の予期していないプレイスタイルを取る。開発者が用意した「楽しさ」には目が行かない。
ある意味このつまらなさは予定調和と言える。人は最速でゴールに向かおうとする。だったら、楽しみ続けるためには新しいハードルかゴールを設定していくしか無い。
ゲームで言えば、縛りプレイや制限プレイなんて言われるのがそれに当たる。自分で制限や目標を設定し、それを遵守してクリアする。まぁ趣味で尚且つ上達したいならシンプルにもっと上を目指す方が得だろう。
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「競争」の概念
特に他人を意識するような場合にはなおさらに「つまらなさ」が加速しやすい。最適解を求める意欲が強まり、それは「つまらない」になるまでの時間が縮まることを指す。急ぐ必要が出てくるからだ。
「まだクリアしてないやつおりゅ?」とか言われたらまぁ大抵は攻略法とかググるわけですよ。
こういう煽りを嫌う人は多いから、
ランキング上位でここでしか手に入らない限定豪華報酬が!
ガチャでポイントを2倍稼げる特効キャラが!
とかやってるソシャゲはだいたい死ぬ。というか「運営はもう回収モードだな」とか言われる。初手でこんなイベントやって半年くらいで死んだのとかあったねぇ。妙に手際よく。
これが嫌われるのは、自分で楽しみ方を探したり個人が目標設定する機会を潰して、分かりやすい目標1つしか許さず、尚且つ大抵の人間は負ける点にある。つまりは「自由がない上に負け戦」。
逆を言えば、自分のペース、自分の楽しみ方を見失うとつまらないし、見つければ面白い。まぁ好きでいたいだけならあんまり人と比べないほうがいいだろう。上達したいとかになると自分より上手い人間から学んでいくのは近道になるが。
ルーチンワークになったあとの「不自由」
どんなものでも「最適解」が見つかれば、後は繰り返しアウトプットするだけになる。つまりはルーチンワーク。つまらないことの代名詞。そこに刺激はない。
加えて心理的に人間は最適解を選びたがる傾向がある。「面白そう」だと思ったことでも、「それじゃ効率が悪い、もったいない」として打ち消してしまう。
簡単に言えば、答えを知ってしまったら挑戦する気もなくなるし、遊び心もなくなる。人によってはこのタイミングで面白い曲芸とかやりだすが。
これは一つの終着点であり、繰り返すだけではもう「楽しみ」はない。
前述の競争の話とは逆に、この状態だと人に見られることを望むようになる。まぁ「おりゅ?」する側になりますね。
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以上から、どんなものでもゴールに着いたら「終わり」で、後は惰性、義務化する。後は「心残り」を潰して回るくらいか。
まぁゴールは自分で決めたものだから新しいゴールの再設定でもすればいい話なんだが、楽しみ方を探すのにも「つまらなさ」が邪魔をする。
楽しいものは元から楽しい。で、つまらなくなったら新しい楽しみ方を探すよりは、新しいものを探したほうがぶっちゃけ速いのが現実だ。
だから「楽しむことだけが目的」だった場合には、「飽きたら次」で正解なのだろう。もう飽きたのにやり遂げなければならないだとか、これは楽しいはずだとそれを続けるのは、食べ終わったスイカの皮の白い所をまだ食ってるような状態だ。そりゃ不味いだろう。
また、好きだからやり続けたい、もっと上達したいと言った何らかの技術に対しては、とにかく「自分の成長をちゃんと認識すること」が必要だ。特にゴールしか見えていないタイプは減点方式で自分を評価し、勝手に凹む傾向がかなり強い。
ゴールの過程を小目標として設定し、攻略していくことを勧めたい。
あと、余計なお世話かも知らんが、予定を考えてるときが一番楽しくてやり過ぎる傾向にあることに注意を。張り切りすぎて綿密な計画とか立てると全部義務化する。
「この位できて当然だろう」とか思って計画するわけだが、実際にやる段階での難易度はタスクそのものではなく「取り掛かる際の心理的負担」がかなり大きな影響を及ぼす。
あくまでも「目標」であり、「計画」にはしないほうが良いと思う。状況が許すなら。
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謎の義務感の正体
実際に好きでも嫌いでもそれをやらなきゃいけない場合は除く。
はい、では何で人は時にスイカの白い所を食べるような真似を自らに課すのか。「食べねばならぬ」みたいなノリで。
まず、人は基本的にプログラムで動くロボットのような状態が基本形だ。例えば「やり遂げなければならない」というプログラムがあるのなら、好き嫌いも現状の価値も度外視でそれはやり遂げようとする。
コアビリーフとか
スキーマとか、まぁぶっちゃけ強迫観念に近い。
特に多くの人は社会的な教育により
完璧主義の傾向があり、それをさらに強化する
認知バイアスも幾らかあるためそうなりやすい。なんとなく「続けることはいいことだ」って思ってないだろうか。この認識が、状況判断(つまらない)よりも上の状態。
今までの投資がもったいない コンコルド効果
コンコルド効果、または
「サンクコストの誤り」とも言う。簡単に言えば今までやってきたことがもったいないから、無価値だったりこのままじゃロクでもない事になると分かってても止まらないという心理的現象。
「元を取ろうとする」、「コストに見合うリターンを」と求める気持ち。例えそれが見込みがないことでも。まぁ、完全に未練だね。
どうも人間、投資したカネよりもそれにかけてきた体感時間や実際の努力の方が「惜しい」と考える傾向があるようにみえる。「ここで止めたら今までの苦労がもったいない」と。
人それぞれなのかもしれないが、例えば一日分の給料と同じ金額をドブに落としてしまうのと、一日働いた後で「今日の分の給料無しな」となるのと、どっちが嫌だろう?
ツァイガルニク効果
「止めたいのに気になる」という厄介な心理の犯人。気になるから気にしている、のではなく、ただ単にこういう現象を脳が起こすということを知っていれば、それほど気にならなくなるかもしれない。
これを飽きてつまらなくなる前に利用すれば長続きもさせられるが。
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決断力不足
「止める」のは、「始める」のと同じくらい決断力が必要になる。心理的に一番ラクなのはやらないことではなく、「そのままで居続けること」だ。
そっちが自然体で、珍しいこと、新しいことにシフトするのはエネルギーが要る。それが例え何かを止め、昔に戻ることだとしてもだ。
この
決断力というのは素質などではなく、消耗するものだ。体力と同じ。見えないからわかりづらいが、日常的などうでもいい選択で消耗する。今日何食べようか程度の選択で。大体の場合、日常的に不足している。
どんな境遇でも人は「現状維持が一番精神力を消耗しない」と認識するらしい。コンコルド効果もこれに由来するのかもしれない。
だから
ブラック企業で自殺とかも普段精神力削られてて「決断する力がない状態」で居続けると、決断力の消費が最も少ない「そのままで居続けること=耐え続けること」を選び続け、限界が来ることも在り得る話になる。
こういった形骸化した「習慣」を打破した身近な例は、例えば我慢の限界だとかそんな感じで「感情のエネルギー」が湧いた状態が多い。
この決断力が枯れていてズルズルと続けるという状態はレアケースな話でもなく、連載漫画において「読者は読むのを止めるタイミングを見計らっている」、ソシャゲにおいて「ユーザーは辞める理由を欲しがっている」などの話はある。
一言で言うと、「好きなマンガが連載終了したのに惰性でしばらく漫画雑誌買い続けてました」みたいな状態。
運営がなんかやらかしてキレたユーザーが引退、なんてよく見るが、それまで続けながらも心のなかでは元から止めたかっただけかもしれない。
今回のお題で考えれば、実はそんなに重要視しなくていい。新しいものを見つければ勝手にそっちに夢中になり、時間や労力と言ったリソースは止めたいものにはどうせ向かない。
逆を言えば「止めると決断してから新しいものへ」とか考えてると無駄に大変な目に遭う。
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止め時やゴールが元からなかった
単純に「体験」が楽しいもの。これに飽きるとこうなりやすい。飽きてつまらなくなったのに惰性で続けてる状態。ちょっとした「期待」もあるのだろう。また刺激を与えてくれるかも、という。
どうも人間には自己実現欲求や知識欲なんてものが本能レベルで有り、要するに飽きることを嫌い、「新しもの好き」な傾向があるように思う。
年寄りが新しいもの嫌うのは単純に「わからないから」であり、新しい演歌歌手とか演歌の新曲には飛びついてるだろう。
つまり新鮮さは人間誰もが求めている。ノスタルジーだけじゃ物足りないのだろう。
こういった状態なのに習慣化してるからとか、「いやこれは面白いはずだ」とか思って続けてたりだとか。
ロボットと本能の意見が別れていて、形だけ現状維持の状態。
まとめ
面白さは過程にあり、ゴールにあるのは達成感であり、ゴールに着いても繰り返し続けようとするなら義務になる。
単純に達成可能な新しいゴールを作るのが一番だと思う。「やることない」のが一番つまらないだろう。また、「良さ」を意識的に探すような姿勢も身につけておきたい。
ゴールまでの最短最速を求めるのが人の自然体ならばそのうち飽きるのは必然であり、だからこそ「好きで居続けるための意識的な努力」はきっと必要になる。
義務感や「今までがもったいない」という気持ちを取っ払って改めて考えて、その上で「続ける価値」があるのなら楽しむための工夫を、それがないのなら新しいものに行ってしまっていいだろう。
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