「いま、ここ。」 交流分析とアドラー心理学
交流分析や
アドラー心理学で言われる「今、ここ」という概念について。
目次
普段の「いま」は
「いま、ここ」とは
一休
世界五分前仮説
ゲシュタルトの祈り
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普段の「いま」は
人の、通常の「今」 人間は数瞬先を常に予測している。
また、
ワーキングメモリ(短期記憶)内には履歴やログの用に「ちょっと前にあったこと」は何秒分か覚えておく領域がある。
つまり日常的に見ている「今」は、目の前にあることだけではなく、そういった未来と過去に幾らか幅があるものだ。「予測」と「記憶」。
逆に「いま、ここ」だけを見ている状態が
集中状態。
人の通常の意識の場所
DMNと呼ばれる「思考や記憶を撹拌する機能」が人間の脳にはある。
また、自動思考や
スキーマと呼ばれる独自の「解釈の仕方」、そして
ヒューリスティクスや認知バイアスと呼ばれる「勝手に決めつけて対処する」機能すらある。
まぁ、全部必要なものではあるのだが。強い記憶や体験のせいで度が過ぎる事があるのも確かだ。
この上で例えば何か嫌なことを思い出した場合、「眼の前の現実」ではなく、意識は記憶の中に引っ張り込まれる。現実に対する認識はこれによって疎かになる。
ドラマや漫画で「悩み事のせいでミスをした」なんて描写は多く、共感も得られるのはこれが日常的な現象だからだ。というか現実に体験したことくらいあるだろう。
具体的には、人は一日の内47%は未来や過去といった「いま以外」の世界に頭を突っ込んでいるとする説があるくらいだ。そして内容の大半がネガティブだとも。
人の意識は「今」にいない
人は日常的に未来か過去へ囚われている。
過去の失敗をくやみながら、あるいは同じ目に会わないように恐れながら、あるいは目をそらすために反対のことをしながら、老後のカネを蓄えるわけだ。
まぁ別にそれはそれで必要なことだろうが。
それが「クセ」になり、常に「今」にいない、そんな状態にやがてなる。
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干渉できるのは
今の積み重ねで未来に到達する。過去は「今」の履歴である。要するに、人が外世界に干渉できるのは「今」しかない。良くするのも悪くするのも。
アタリマエのことではある。だが、前述の通り未来への不安、過去への後悔などで人の意識は「今」にいないことが多い。
もちろん過去や未来を気にするべきではあるだろう。だが「青写真」や「ログ」は、それを加味して「
行動する人間」がいてこそだろう。じゃなきゃペラい紙にすぎない。
そして人は、時にその行動力のリソースすら不安や後悔に使う。
「いま、ここ」の必要性
要するに、過去や未来を気にするのは別に悪いことじゃない。
ただ、それが「自然体」になってしまうと、永遠に「今」が来ない。
未来の奴隷か、過去の囚人か。
で、本来の「基本形」、つまり「私達が居るべき場所」は「いま、ここ」であるべきだ。そういう話。
「いま、ここ」とは
交流分析での「いま、ここ」 交流分析での「いま、ここ(here and now)」は「大前提」とされている。
人は「いま、ここ」に居るのであり、過去の記憶の中で生きているわけではないということ。
「過去と他人は変えられない。変えられるのは自分だけである。」
「人は自分の運命を自ら決め、そしてそれは変えることが出来る。」
後述のアドラー心理学でもそうなんだが、重要視しているのは
「コントロールできるものは何か(いま、ここの自分)」、
「どうコントロールするべきか」にある。
簡単に言えば、「自分の過去や未来に対しての」主体性、自律性。
大事なのが「いま、ここ」で、そのためには過去のなんやかんやを「解除」していかなきゃならなかったり、呪いじみた「
人生脚本」を書き直さなければならないというスタンス。
人が自動的にやってしまう人間関係上のクセなども範囲に入っている。この状態の人間は「いま、ここ」ではなく、過去の成功体験やトラウマに意識が行っている。
アドラー心理学の「いま、ここ」
「いま、この瞬間を生きる」ことを説いている。
人は普段は「可能性の世界に生きている」とされている。たられば話とかの空想の世界。
「導きの星」という概念はアドラー心理学独自、かもしれない。
人生の目標だとか在り方だとかそういった「大きな目標」は、人生の指針として掲げよ、とする話。
アドラー心理学ではこの部分が「他者に貢献する」に固定されているが、まぁ人それぞれだろうここは。 産まれちまったら命は手前のもんだってどこぞの鬼が言ってた。
導きの星は、多分あなたがそろそろ気にしだしていた「いま、ここにしか注意しないんだったら人生設計とかどうなるんだ」的な心配に対しての答えだね。
もうちょっと書くことあると思ってたんだが、交流分析と丸かぶりで困る。
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合理化
人間はバカかもしれない
どうも人間は頭が駄目な方向でいいらしい。
なんでもチンパンジーは目の前のことに対する認識能力は人より遥かに上なんだとか。
代わりに人間は過去や未来を想像したり思い出したりして、「あの時ああしておけば」、「もしかしたら悪いことが起きるかもしれない」なんて考える分、現実認識能力が甘いらしい。
まぁこれは野生の世界の生き物に比べ、「瞬間的な判断」がそれほど必要ではない人間特有の思考形態というだけの話なんだが。
また、他人に対しても「お前があんなことをしなければ」、「お前が準備をしておくべきだ」とすることが多い。まぁそれが(人から見て)正しいことも多いだろうが。
だが、フラットに見てみればこれは「自分が気にしていること」や「自分の後悔」の責任の場所を自分以外の何処かに置いているということになる。
いつもの例え話
例えばあなたが結構立派な家に住んでいて、その外壁にどこかのバカが派手に落書きでもしやがったとしよう。ご丁寧に水で洗っても消えないような落書きを。
そいつをとっ捕まえてボコボコにしたところで、その落書きは消えないよね。
挙句弁償させようとしたところで相手が一文無しで身よりもなかったらどうだろう。完全に赤字だ。やられ損。
まぁ実際には警察や弁護士がアドバイスくらいするかもしれないが、彼らがポケットマネー出すわけでもなかろう。
要するに、「落書きを消す」ことは自分の課題になる。
「他人が100%悪くても」だ。
さらに言えば自分以外には誰も直そうとしない。「きたねぇからさっさと消せよ」くらいは言うかもしれないが。それはただのヤジだろう。
要するに、理不尽に「自分がやるしか無い問題」が降って湧くこともある。
こういう時、なぜか人は「犯人探し」をすれば済む問題だと思っているフシがある。
こういった謎理論による問題の(解決してない)
合理化を、結構人は「自然な考え」で行う。 これをこじらせて「
人のせいにすれば自分がやらなくても良くなる」まで行っちゃった手遅れもいる。
まぁこんなんが無意識レベルの思考だとすると、ぶっちゃけて「人間個人の問題解決能力はサル以下だ」ということになる。まぁ一部は。
というか、頭を「自分がやらなくていいという結論を探す」ことに使っている。
考えれば考えるほど「目の前の問題」が行方不明になる。
それも「自分に責任がない問題」であればあるほどに!!
流石にサルに負けるのは嫌なので、建設的な方向に頭を使いたい。
さぁ、あなたならどうするだろうか。
「自分の責任じゃないから」と落書きは放置したままか、それとも。
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一休
一休宗純。一休さん知らない人もそうはいないと思うが。とんちで有名だね。結構長生き。
実際には戒律クソ食らえなロックなライフスタイルだったらしい。当時の仏教の在り方の批判だったのだともされている。遊女と歌を送りあっていちゃついてるエピソードとかもある。「地獄太夫」で検索してみると良い。
まぁそれはともかく一休だが、私が読んだ小話にはこんな話があった。
悩める青年が一休(ジジイ)を訪ね、「私はどうしたら幸せになれるのでしょうか」と問うた。
一休は青年の胸ぐらをつかんで
「幸せになれ!いますぐ幸せになれ!さあ幸せになれ!」とか騒いだんだとか。
まぁ・・・ボケちゃった可能性は置いといて。
「いま、ここ」という概念を見てきたから多分もうわかると思う。
これは「なろうと思えばすぐにでもなれる」という寓話だ。
ストア派の哲学でも病気になったり怪我したり恥辱を受けたときも幸福であることを目指すとかそんなのがある。そのために必要なのはやっぱり「自律」だとも。
また、以前読んだ禅僧の手記のような本では「賢しら」という単語がやたら出てきたことを思い出した。
さかしら、ね。余計な考えだとか余計な知恵だとかそんな感じの言葉として使われていた。
自動思考だとかもそうだが、「人は余計なことを考えすぎる」という意見は、そう珍しいものじゃない。
まぁ問題はどこからどこまでが必要でどこからが余計なのかわからんことなんだが。多分そのせいで「考えすぎる」のだろう。「導きの星」で十分なのだろうか?
私達人間は、考えすぎて本来できるはずだったことができなくなっているのかもしれない。
世界五分前仮説
世界五分前仮説と言うものが哲学の世界にはある。バートランド・ラッセルが提唱。
なかなか面白くてね。その名の通り「世界は五分前に作られた」という暴論なわけだ。
1:世界は五分前に作られた。
2:人の記憶や木の年輪、遺跡などの「長い年月が過去にあった証拠」は「その状態で初めから作られた」という説で全て潰せる。
とまぁ、なんだ。ガキの屁理屈みたいな感じなんだが。
でももしも。未来への不安や、過去の後悔を抱えて自分が「五分前に作られた」と思い込んでみたら。
そんなガラクタ放り投げて、今を生きようって気がしてこないか。
「いますぐ幸福になれる」という一休の話も現実味が増してくる。
・・・逆を言えば、「いま、ここ」にしか幸福はないのかもしれない。
過去の幸福は今と見比べるモノサシになるし、それだと「今は不幸だ」という苦しみの元になるだろう。
「未来の不安」への対策を追い求めるだけならば「いま、ここ」が犠牲になり、それは「未来」の奴隷である。
まぁ元から幸福は根拠がある実体というよりは、「感じるもの」であるからな。
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ゲシュタルトの祈り
今回割愛したが、ゲシュタルト療法でも「いま、ここ」の概念がある。
禅やマインドフルネスに至っては「いま、ここ」はゴールですらある。
というかゲシュタルト療法が禅を一部取り込んでるとされている。
ゲシュタルト療法だけざっくり言っておくと、
いちいち理由なんぞ考えないで
「いま、ここ」で
「どのように」、
「なにを」しているかに意識を向けろ、
というもの。
要するに、「いま、ここ」という概念は多分昔から広まっていたのだろう。
今更注目されるのは、人々がそれを忘れたからか、情報が世界中に行き渡るようになったからか。
ゲシュタルト療法の創始者であるフレデリック・パールズの詩に以下のような物がある。
私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。
出会えなくても、それはしかたのないこと。
-Wikipediaより
なんというかこう、考えすぎる人はもうちょっと思考をぶん投げて野生を思い出したほうが良いのかも知れん。
文中のリンク
交流分析における「ゲーム」:心理学
アドラー心理学:課題の分離
ワーキングメモリとは?
集中力についてとその使い方:ライフハック 自動思考
(DMN)とフラッシュバック
スキーマとは 頭の中のプログラム
認知バイアスとは
何が普通か、普通はあるのか。何が異常か、正常はあるのか。
行動力がない人と行動力のある人
あなたが「それ」をしてしまう理由:ミニ脚本:心理学
認知的不協和:後出しの「つじつま合わせ」
何でも人のせいにする「ブレーマー」
マインドフルネスとは?
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