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承認欲求の克服
最終更新:2017/04/21
自分自身の
承認欲求に手を焼かされる、というのは殆どの人間が現在進行形で体験していることだと思われる。
悩まないのは悟りでも開いたか、承認欲求と同化している手遅れかのどちらかだろう。
そうなると思うのは、「承認欲求を克服して自分を取り戻したい」みたいな方向の考えだ。
克服しようと考えている時点で平均以上にまともだと思われる。
克服できれば下らない悪目立ちや、他人の顔色をやたらと伺ったり「かわいそうな自分」を演じる必要もないし、見たくもないテレビを明日の話題のために見て時間をドブに捨てる必要もない、と。
いきなりキャラ変わりすぎるのも周りが戸惑うだろうが、そこまで極端じゃなくても「他人を気にしすぎる自分」がもうちょっとマシになるのではないかという希望があるわけだ。
では、承認欲求は克服が可能なものなのか。そのためには何をしたら良いのか。
■目次
■承認欲求について
■誰もが承認欲求を持っている
■脳は多分、そういう風に出来ている
■ウソでのその場凌ぎ
■バランサーとしての自己承認欲求実現
◆承認欲求の転換・昇華
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■承認欲求について
まずは敵を知ろう、ということで承認欲求そのものから。
承認欲求には、他人にこう思われたいという「他者承認欲求」、自分はこうなりたいという「自己承認欲求」がある。
多くの場合、悩みのタネは他者承認欲求だ。これは更に上位承認、対等承認、下位承認に分けることが出きる。
簡単に言えば、
上位承認は「威張りたい」
対等承認は「みんなと同じだと思われたい」
下位承認は「世話をしてもらいたい」
そんな欲求。
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■誰もが承認欲求を持っている
人間を「群れの生き物」として捉えれば、自分の立ち位置のアピールは自然なものだろう。
リーダーは発言権がなくてはいけない。
同列なら連携、共有が出来なくてはいけない。
保護が必要ならば守ってもらわなければ死ぬ。
別におかしなことじゃない。動物も自分の序列を確認するための習性が色々ある。
では何故、人間は自分の承認欲求に頭を抱えるのか。
私は単純に、人間は動物より頭が良く、満ち足りているからだと思う。
大抵の人間は明日の衣食住を心配しなくていい程度には生活に必要なものは足りている。
繁殖だけが目的なら、この時点でやることがもうない。
マズローの欲求階層説で言えば、殆どの場合下位欲求(生命に関わるもの、あるいは生理的欲求)が大抵足りている。
そうなると、より上位の欲求である社会的な自己実現、個人的な自己実現にシフトしていく。
つまるところ、私たちは動物たちと同じ意味での「生きること」の問題はクリアしているからこそ、自分の承認欲求に煩わされる。
動物からしてみれば「贅沢な悩み」なのだろう。
承認欲求自体の発生は動物からしてあるものだ。人間にあるのも、湧くのも不思議ではない。
承認欲求を「感じないようにする」のは、難しいだろう。
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■脳は多分、そういう風に出来ている
承認欲求は「群れ」の中での自分の立ち位置に関わる重要なものだ。
そしてそれらが叶った時(つまりは他人に望みどおりの認められ方をした時)、私たちは嬉しさを感じる。
努力が認められたり、頑張ったことを褒められたり。
これもある意味本能、脳がそういう風に出来ているからだといえる。
哲学者のダニエル・デネットは、私達が好ましく感じるものは、脳がそういった反応をしている「だけ」であるとしている。
実際には好ましい要素がないとしても。
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別にこれ自体は問題じゃない。「自分が」好ましいモノに対して脳がそう肯定するならば、何も問題はない。
だが現実には脳のテンプレ、「本能的に」好ましいものに対してそう反応している。
これは個人の美的感覚や道徳観念と言った物とは別にあり(むしろそれ以前からある)、人間という「動物」としての価値観だ。
私たちは基本、脳に支配されている。逆らうと(欲求を我慢すると)ストレスが発生し、「お仕置き」される。
人間社会での美的感覚、道徳観念、そして個人の価値観はそれらよりも後から作成された新しいものだ。
重要なのは脳がそれを知らない(適応できていない)点。
元から脳は目先のことしか考えられない傾向があるのだが、これが「人間」の考える将来自分のためになる様な意思決定の邪魔をする。
だから人は体脂肪率を気にしてジョギングを始めるよりも脂ぎった料理を食うことを選ぶ。
お脳様を喜ばせるために。
・ぶっちゃけ騙すことが出切る程度には脳はバカである。
だから嘘を言ってでも誰かが自分を認めれば、それで承認欲求は満たされ、脳は喜ぶ。
そしてこういうわけだ。「良いぞ、もっとやれ。それを続けろ」。
そのためにそれを「やりやすい」脳の神経配置になるだろう。
即ち性格が悪くなる。
理性的な「人間の自分」が嫌いな、感情的な、衝動的な「動物じみた自分」になっていく。
「脳に調教されている」と言ってもいいだろう。
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■ウソでのその場凌ぎ
承認欲求による行動、時には承認欲求そのものが何かをごまかすための「ウソ」、つまりは代用品であることが多い。
よくあるのが劣等感に苛まれた人間。
自己愛の様な(嘘をついてでも)目立つこと、自慢すること、他人を侮辱することで上位承認欲求を満たしたり、
あるいは自らトラブルを起こし、「世話をしてもらう必要がある」ことをアピールして「安心」を得たりする。
ここまでする理由が何かと言えば、言動とは全く関係ない本人自身のコンプレックスだったりする。
顔面とか。
これらに共通する点は、「自分の価値を他人が決める」という概念だ。
逆に他人に見てもらえないと自分には全く価値が無いと思っているかのような「必死さ」がある。
彼らは「他人」しか見えていないような偏りがある。
まるで「その分自分の問題を気にしなくて済む」と言わんばかりに「他人だけ」を気にする。
このせいで、本質的には相当迷惑な自分勝手な奴なのだが、外面は自分の中身が全く無いような言動を取ることが多い。
自己愛はどんなウソでも付くし、メサコンや
共依存は全力で相手に媚びる傾向がある。
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承認欲求を克服しようとする人は、恐らくこう言った「ウソ」による行動を取る人間、そして
「自分がない人間」に、あるいはちょっとそんな傾向のある自分自身に嫌気が差しているのではないか。
まぁちょっとくらいならあって普通なのだが。度が過ぎたらヤバイけど。
前述の通り、承認欲求とそれが満たされる喜びとは、脳の基本機能だと思われる。
完全な決別は無理だろう。
どの道、自分が克服した所でその他大勢は克服してない。
社会に生きる以上はそいつらと関わる必要がある。
「承認欲求サバイバル」というクソゲーに強制参加されていることは否めない。
今回は自分の頭の中だけに限って話をしているので対人面は割愛するが、完全な決別は無理だろうということは言っておく。
承認欲求、特に他者承認欲求を感じることはやめられないだろう。
他人のそれの相手をせざるを得ないことも。
というか、例えそれが出来ても浮きすぎてイジメられるだけだと思う。
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■バランサーとしての自己承認欲求実現
さっきの顔面の話、劣等感だが、アレは本来「自己実現欲求」だ。
自分を自分が認められる自分にしたい、という。
自分の全部の問題をコンプレックスのせいにしている場合もあるのだが、それにしたってその点さえ攻略できれば全部(気分的に)解決する。
気分的に解決すれば同じものを見ても違うように見えてくる。結果的に本当に問題が消えるケースも多い。
整形には賛否あるだろうが、整形手術をしたら性格が明るくなったという話が多いのは、ある意味自己実現をした結果、劣等感そのものが消えたからだとも言える。
要するに、各種の問題自体が「気にならない」くらいに自分が満たされている、そんな状態。
さっき迄話していた承認欲求の「ウソ」とは、「自己承認欲求を満たせない自分」からの逃避だといえる。
基本は自分の問題を解決していけば、他者承認欲求を満たさねばならぬという「不安を伴った衝動」は消えるだろう。
だが、満たしちゃいけないイリーガルな欲求もあるし、どうあがいても無理な願望もあるだろう。
が、脳はバカである。騙せる程度には。
要するに、脳が勝手に選んでやりたがるバカな他者承認欲求(本人はやらなきゃならない、やりたいと思いこんでいて、やった後に自己嫌悪する)をやってしまうことがが嫌なら、「代替行為」を自分で設定すればいい。
違う形での自己実現でもいいし、同じ他者承認欲求にしたってもっと無害・有益な「自分好み」の方法が幾らでもあるだろう。
◆承認欲求の転換・昇華
承認欲求、というか「欲」そのものはエネルギーだ。善も悪もない。
「承認欲求が強い」と非難される者は、結局のところ「やったこと」「目指していること」が批判者にとって迷惑、うざい、邪魔、気に入らないなどであるだけだ。
だからもしかしたら、そのままで何も問題がない可能性もある。
まぁ、方々で言われるのなら、やっぱり何かズレてるんだろうけれど。
やったこと・目指したこと、つまりは言動・頻度・目標が自分の価値観から見てもNGだった場合でも、ただ我慢するだけではストレスが溜まる。
恐らくこれを読んでいる人はそんな状態か、あるいはそれでもやってしまう自己嫌悪を感じているのだろう。
そうじゃなきゃ承認欲求の克服なんてキーワードで検索するまい。
結局のところ、承認欲求が「餓え」や「痛み」のような緊急性のある物に感じられ、それから早く逃れたくて「手軽な方法」に走るのが後悔の原因だろう。
・承認欲求は「認めてもらいたい」という欲望だ。
だが、何を認めてもらいたいのだろう?
ありのままの自分だろうか?
だったら悪目立ちで注目を集めるんじゃなくて多くの人に関わって、自分を知ってもらえばいい。
万人に受けが悪けりゃ性格悪いってことだから治す必要があるけど。
頑張っている姿だろうか?
だったら結果を出せば誰もが認めるだろう。
努力のアピールや「見てくれてる人がいるか」と周りをチラチラ見るよりも努力そのもののほうが優先度が高いのではないのか。
本当は自分はすごいということだろうか?
本当にすごいのか?
何がすごいのか?
妄想じゃないのかそれは。
すごいことを証明できたことがあるのか。
まさか「小学生の頃は」とか言うまいな。
だったら新しく何か取り柄を身につければいい。
単純に多くの人間に注目されたいのか?
だったらバカッターと呼ばれるようなことを「やらかす」のも一つの正解になるし、多くの場合こういった漠然とした欲求かもしれない。
だが、それでどうなるのか。何を得るのか。
隠れている「本当の欲求」はあるはずだ。
結局の所、人それぞれでどうするべきかなんて違う。
だからこそ欲求の本質を自分で探る必要はあるだろう。
単純に自分に自信がないからだという結論なら、まず自分の立場で求められている実力を付けたほうがいい。
ただそれだけで誰かにとっての「そこに居ていい」「そこに居て欲しい」人間になれる。
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