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なぜ「自分がない人」は生まれ変わろうとして失敗するのか

なぜ「自分がない人」は生まれ変わろうとして失敗するのか





自分がないってのも自己評価だろうが、「自分がない」って思ってる人は、大抵「何か」になろうとして、頑張って、失敗する。



殆どの場合、それは「やり過ぎ」、あるいはろくに知識もないのにそう振る舞おうとした「見切り発車」、理解がないのに人の「真似をしようとした」結果として。



彼らはなぜそうしてしまうのか。そして、どうすればその「何か」になれるのか。










◆なぜ失敗してしまうのか。

-◆加減も詳細もわかってないから。

身もふたもないこと言えば、完全にアウェイなことを「出来るフリ」して振る舞えば、そりゃボロが出るだろう。「原因」としては単純だ。そう振る舞うだけの知識と実力が足りないから。



そうなると気になってくるのが、「何故それに気づかず”負け戦”のようなことをわざわざやらかしたか」である。



自分から進んで、一生懸命に、まるで家族でも人質に取られてんのかといったような必死さで、それでいて「こうするのが当たり前」だと振る舞いたいかのような強張った「余裕の笑み」でやらかすのはなぜか。



軽率、とも違うだろう。彼らはなぜか、「そうしなきゃいけない」と言った強迫観念のようなものを持って、率先してやらかす。



-◆中二病とか邪気眼とか。

中二病というか、邪気眼というか、ああいう特定の年齢によくある根拠不明に自己愛が増大化し、自分を過大に見せたがる状態。これは青年期、つまり14~25才くらいによくある、とされている。



まぁ流石に25になって中二病もないだろうが、精神年齢中学生な25才ならまぁ、そこらにいるだろう。いくらでも。



で、そういった特定の条件下で高確率で自然発生する心理的現象ってのはそれなりに「原因」か、「効果」がある。大抵の場合、あまり健全ではないのだが。



現代では中二病とか邪気眼とか言われる、大人になって思い出した時にのたうち回るほど恥ずかしいアレの「効果」とは、「絶望や自殺抑うつのリスクを抑える」こと、なんだそうな。まぁ自信だけ肥大化してるんだから、その反対側からは逃げられるだろうな。



このままでいたくないという不安、新しい自分になりたいと言った欲求が強ければ強いほど、「じっとしていられない」だろうね。やりすぎてしまうほどに。









◆どうすれば「何か」になれるのか。

それが本当に「なりたい自分」ならの話だけれど。



「練習」は必要だ。できないんだから、当たり前だろう。「周りにそう見られればそれでいい」のだとしても、それすらできてねーんだから練習しましょう。



まぁ、それだけだね。大抵練習でなんとかなるよ。的を絞って1つずつ攻略していきましょう。もう一度言うが、それが「本当に」なりたい自分の姿なら、努力することに遠慮なんていらないだろうさ。



さて、本題だが、ただ周りに合わせるためだけだとかだったら、もうちょっと考えたほうがいい。そもそも「やるべきなのか」から。まぁ処世術として一理はある。「溶け込むため」ってのは。ある意味、身につけるべきなのかもしれない。



それはそれでいいとして、じゃあ、「自分が本当にやりたいこと」は、本当の「なりたい自分」はどこへ行ったのだろうか。そもそも「生まれ変わりたい」だなんて大仰な自己啓発をするのは、自分が嫌いか、「からっぽ」だと思っているからだろう。



今の自分じゃなければなんでもいいのか、といえばそうでもないだろう。上には上がある様に、下には下があるし。それを判らず自分から転がってく奴も居るが。



特に自信喪失状態なら尚更だが、自分で自分のことを「自分がない人」として、なんとかそこから抜け出そうと「焦っている」者は、「外部」から「お手本」を探す。自分の中は何も見ない。「どうせ何もない」と思っているからだ。



これではそれこそ「誰か」にしかなれない。これでは、「なれたとしても」、「満足できない」。どこぞの統計じゃ、金持ちの「人生の満足度」は庶民より低いらしいよ。



もっとハッキリ言おうか。自分に「安心」したいんだろう。自分は自分の人生を生きていける者である、と。誰かのマネじゃ、その安心は得られない。「結果的に同じだった」とかなら全然かまわないんだけどね。



その不安は「自分がわからないから」であり、自分がわからない限りは消えないだろうさ。何の予定もないのに何やってても不安で落ち着かない、だとかそんな話はザラにある。



理想的な「モデル」が見つかったんだとしても、誰かとそっくりになればその人と同じになれるわけじゃない。いつまでも後発、大抵は「偽物」。「自分」は誰にも認められていないどころか、誰にも見えないからだ。



また、ここでいう「自分」というものも、広大な地下世界のようなものであり、何か見つけたからおしまい、というわけにもいかない。ずっと、一生、探検し続ける世界だ。
誰もが望むような「劇的な解決」は有り得ない。少しずつ自分がわかり、少しずつ実現していくものだ。時には間違えるかもしれない。だが、一歩進むごとに、心が軽くなっていくだろう。



◆根本的な話。

はい、ここからは説教臭いし長いから読まないほうがいいですよー。お疲れ様でしたー。







自分がない人、つまり自己評価が低い人は「自分の良さ」に目を向けていない。ここで言う良さとは他人が評価する点ではなく、「自分で自分を好きになれる部分」のことだ。自分から見た、自分が認めることの出来る、自分の良さ。



「そんなものはない」と思ってるんだろう? まぁ、見えなきゃないのも同じだからね。


これが「見えていない」か、認めることを自ら「禁止している」事が多い。



だから平気で「今の自分」を投げ捨てて、いや投げ捨てたことにも気づかずに、「憧れた何か」になりきろうとする。今の自分の価値が分かってないから、大事にしない。未練もない。



やるべきことはそうじゃない。自分ってのは作っていかなきゃならない。何の積み重ねもなしに、何かにはなれない。
生まれ変わろうとして失敗する根本的な理由は、「今まで」すら投げ捨てたゼロの状態で形だけ真似ようとするからだ。何かになろうとして捨ててはならない。何かを取り込むならまだしも。



持って生まれた使命でもあると思っていたのか。大抵は親の老後の面倒見るくらいしか「産まれてきた理由」なんてないだろう。どちらかと言えば産んだ理由ですかね。ハハハ。嫌なら投げちまえ。



例えば「内向型」と称される、あるいは自認している人間。外向型の人間の大げさな自慢話や派手なパフォーマンスに押されて自分が消極的で、暗く、つまらない人間だと思いがちだ。



そんな人は、セネカの「生の短さについて」という本を読んでみるといい。きっと視野が開けるだろう。



セネカはむしろ「騒がしい連中」たちのことを指して、それどころか「忙しい人間」全てに対して、「不精な多忙」、「怠惰な忙事」と称し、ボロっクソに言っている。「生きていない」と。「死人だ」と。



ついでに言うと暇を持て余して途方に暮れる人間も叩いている。なんかもう、全員叩いている。



「君たちが例え千年生きるとしても、それは”短い”と感じるだろう。悪習が全ての時間をことごとく食い潰すからだ」、とも。



そして、その上で、「自分の人生を全うするには、人は十分な寿命が与えられている」としている。









まぁ要するに。自分を良くするために自分の時間を使わずに、仕事や享楽に時間を浪費する人間は全員叩いている。現代社会だと恐らく全人類が叩かれるような厳しさで。ちょっとは遊ばせろよと思わなくもない。



セネカはストア派の哲学者であり、ストア派は「ストイック」の語源だから厳しいのも納得かもしれないが。



もし、自分がない人間も、自分があると思ってる人間も、目くそ鼻くそ程度の違いしかないのだとしたら、「自分がない」と自覚して、悩んでいるあなたこそ、セネカを理解できる場所に近いのかもしれない。



ところで、逆に聞きたいんだが、自分がないと思っている人は大抵劣等感というか、「自分だけが」自分がないみたいな世界観に生きているようにみえるのだが、どういう人を「自分がある人」として見ているのだろうか? 
案外ハッタリに騙されてるだけで、誰も彼もが同じかもしれないよ。



何れにせよ、必要なのは変わることじゃない。まず「自分という視点」を取り戻さなきゃならない。何かを見たり感じたりするのは「自分」でなきゃならない。



「自分の好きなものが合ってるか間違ってるか他人の顔色をうかがう」のではなく、「自分がこう思った」ということが分かれば本来、それでいいんだ。言動は空気読むべきだが。



とにかく、それ以外の場所に「自分の意見」なんてあるわけないだろう。
なんで他人が自分にとっての好き嫌いを決めるんだよ。おかしいだろう。だがそのおかしさに気付けない事がある。



◆自分を見失っている人

「自分が見えていない状態」こそ早急に脱出するべき事態だ。全てが空転する。



何故自分が見えなくなるのか。
自分がないと思っている人は自分に自信がない、自己評価が低い状態になっている。この状態からだと他人が「脅威」に見えてくる。



自分で自分の価値を低く見積もっているということは、他人からもそう見えるだろうと予測して自然だろう。見透かされはしないか、近寄ってくる敵は攻撃者ではないのか、今はそうでなくても自分のことを知られたら変わるのではないか、と。そんな脅威に見える。



こういうのも自意識過剰って呼ぶ。自信がなくてもそうなるんだ。







危険度の高い「仮想敵」に見えるから、注意を他人に向けざるを得ない。その副産物として、自分と他人の「違い」がイヤでも目につく。
気にしなくていいような、本人の本来の価値からしたら「どうでもいい」ようなことすら、まるで義務を果たしていない・できなきゃいけないと責められているかのような痛みを伴って「見える」。



自分から見て本当に「ああなりたい」のか?


自分は「何になりたい」のか、それを考える「頭と心の自由」を持っているのか?


ただ単に、自分と周りの「目立つ所」を見比べて、勝手に焦ってはいないか。「自分がない」と。


自他の差異に気付くのは結構なことだ。それは己を知ることでもある。だが、ただの「差異」だ。まだ優劣ではない。本当にあなたが「そう」したくて、そしてそれが相手の方が優れていた場合、初めてあなたの中で「優劣」になる。



人が自分と他人を比較するのは本能らしい。猿を使った実験で、片方にだけ芸の報酬を豪華にした時、もう片方がヒステリーを起こした実験結果がある。



人も同様に無意識レベルで自分と他人を比較はするが、価値観は猿よりは複雑化している。何を良しとするのか、何を嫌うのか、それらは個体によって異なる。



その中でも「自分が気にしていること」は、尚更他人のそれと見比べるわけだ。どんな理由で気にしているのかは忘れて、違いだけが見え、単純に上か下かしか見ていない。



これについて、当人だけに原因があるとは言えまい。現実に、勝手に競ったり比べてきて、勝手に始まってもいない勝負で勝ち誇るような、そんな「うるさい奴」は多い。こう騒がれちゃぁ時には不安にもなるだろうさ。



それが(本来の自分の価値観で)あなたの「勝ちたいこと」でないのなら、そんなもんゴミだ。何の価値もない。勝ちたいことであった場合は、まぁさっさとパクってから用済みとしてサヨナラすればいい。



何で勝ちたいのか。何になりたいのか。誰かに思わされるのではなく、「自分が」そう思えるものは何か、知らなければ何も始めることはできない。
まぁ仮初でもいいさ。人生通しての大目標なんてのじゃなくていい。重く考えず「とりあえずこれを目指す」でいい。それだけの時間は人生にはある、みたいなことをセネカは言っている。なくってもセネカのせいだ。









「自分からやりたい・なりたいと思えること」を探そう。そのためには「自分を観察し、知ること」。何かとの比較抜きで。その上で探せ。



ハッキリと言っておくが、自分のことすら考えなきゃわからないよ。人間は五感で知覚できる以外のモノは、関心を払わなければ見つからないし、考えなきゃ価値も意味もわからない。



休日は本当は何をしていたい? 

つまらない授業や仕事の最中に夢想する「家に帰ってまずやりたいこと」は何だ? 

好きなことは? 

好きになりたいことは? 

反対に最も恐れていることは? 

自分はどうすれば「満ち足りる」? 

自分にはなにがある? 

何に自信を持って(あるはずだ)いる? 

そして、「どんな自分になりたい」?



自信がない、自分がない、自己評価が低い状態の(あくまでも状態だ。運命でも一生変わらない呪いでもない)人間は、その自己評価の基準が「外部」にあることが多い。
ああ言われたから、あんな目にあったから、あいつはああだけど自分はそうじゃないから、だから自分は・・・、と。


趣味が周りと違う、ただそれだけで「自分はおかしいんじゃないか」なんてところまで考えがいってしまう者もいるし、実際に「お前はおかしい」とかほざくバカもいる。


でもそうじゃない。自分の好きなこと、やりたいこと、そして自分の価値を自分で認めることに「他人」は一切必要ない。心の中で、自分のことを自分で好きになることに誰かの許可なんていらないだろう。



精神状態的な意味でだが、そういった「好きになれそうな自分」が絶対に見えない「視点」というものはある。これは意識的に切り替えることは可能だ



すぐには見つからないかもしれないが、だからこそ「探せ」と言っている。すぐに、常に。そのためには観察が必要だ。自分のストーカーにでもなったつもりでいるといい。割りと冗談抜きで。



パリピになりたきゃなりゃいいが、「なりたくもない」くせになろうとしたら、そりゃ失敗するし、成功したとしても大抵はその居場所は苦痛だし、長続きしまい。



まれに「なりきり」に成功してしまうケースが有るんだが、歪んだ自信を身に着けたのか、それとも偽物だとバレないためにスケープゴートがほしいのか、前述の「勝手に比較して勝ち誇る」タイプのバカになりがちだ。



まぁ、そういうのに理不尽な煽りを受けて焦っているだけではないだろうか。そんなの相手にしてないで、1人の時は自分を探れ。見ろ。何になりたいのか。そこに、すでに、そう願っている「自分がある」だろう。



その後で顔芸腹芸の出番だけどな。社会とは適合している必要はあるし、ある程度自分を隠すことは必要だろう。
残念ながら、周りの人間がまともな補償はどこにもないのだから。



加えて言えば、なんというかこう、「自己実現しようとしている人」を全力で邪魔する、邪魔しないと自分が死ぬみたいな謎の使命感持ったキチガイとかがいるから。やれやれ。



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