「性格」と性格を変えることと、その中にある「神話」について
ここで言う神話とは、要するに原因から結果(あるいは解決)までのパターン化されたイメージである。まぁ、思い込みのこと。
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◆「性格」とは何か
まず、性格というものの捉え方について。大抵の場合、ここを間違えているのが性格についての悩みの根源になる。
「性格」という言葉ば、持って生まれたもの、幼少期に「固定化」されるもの、変えられないもの、運命であり一生従わなければならないと言ったイメージを持たせる。では実際にそうなのか。
厳密に言えば認識、思考、判断、決断を「一瞬で」人間は行い、その「結果」のみを直感や認識として「思いつく」。そう感じた、そう思った、確かに間違いなくこうだった、と実行として言動に移す。「やり慣れた」思考、言動。特にそれが「成功」した場合は強化され、「失敗」だった場合は苦手となる。
それらを無意識レベルで学習し、「次はもっとやりやすいように最適化」したもの。もっと言えば、「クセ」。その集大成。残念ながら、私達が「絶対視」している性格というものの正体は、なんてことはない、私達が繰り返し行った思考や言動の積み重ねという「成れの果て」だ。
もちろん、意識的にそれらに注意を払い、自らを鍛え上げてきた者にとってはそれは「訓練の賜物」である。だがまぁ、大体は成れの果てだ。心の鍛え方なんて小学校で習わんだろう。せいぜい我慢することを叩き込まれる程度じゃないか。
つまりは前述の「絶対性」が欠片もないものである。逆を言えば、性格を変えることは、出来る。「性格」と言うものに対して幻視する「不死性」が一つ目の「神話」だ。
この土着の民間伝承のような神話は根深く、一般向けの心理学の本の一部では誤解を避けるために「性格」という言葉の使用を避ける事があるほどだ。
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◆「個性」
「性格」という言葉の影にもう1つ神話がある。この幻想について言及しなければ話が進まないだろう。多くの者が憧れ、探し、誤解する「
個性」という概念だ。
固有のものとして「他の誰とも違うように」と1人で誰も頼まれてもいかないような所に転げ落ちていく者も居る。逆に憧れた何か、なりたい何かの真似をして、しょぼい結果に終わり挫折する者も居る。
これのどこが神話なのか。一つはやはり「揺るがない自分」のような何かがある、と思っているということだ。人は結構流される。朱に交われば赤くなる。
もう一つはその揺るがない自分とやらが「既にある」ものとし、それを探すからだ。これに悩むのは十代半ばが大半であり、「何にでもなれる」ときに何かになろうとせず、ないものを探す。
仮に満足できるご立派な個性が自分の中に既にあったとして、じゃあそれはいつ出来た。受精卵の頃か。それとも赤ん坊の頃か。それとも幼少期か。もしそうだとしたら「どんな人間になれるか」は既に決まっていることになり、全力で努力したところで人生の全ては消化試合、予定調和、ひどく生きる価値のない世界になりはしないか。これもまた、「性格」の神話に近い。
「個性」とは即ち、「自分」ということだが、これは絶対的なものではない。良くも悪くも人は変わる。
だからこそどうなりたいか(未来)、そしてどうありたいか(今)を己に問うことでしか見つけ、作ることはできないのに、多くは今までどうだったか(過去)しか見ずに今を見過ごし、未来を捕まえ損なう。「すでにあるはずだ」では「ポジティブな後ろ向き」のようなよくわからん状態になる。
個性とは、内面も含めた自己実現に依り言動として他者に観測される「結果」だ。恐らくあなたが個性的だと感じるその当人は、謙遜でもイヤミでもなく「それほどでもないのに」と思っているだろう。あんまり自覚があるものではないんだ。
まぁ、とにかくどんな自分になるか、どうありたいかは自由ではある。自由すぎて不安になっただろう。何をしていいかわからないほどに。だから人は適当に今すぐに何かを決めつけたがるんだ。そうしてまた見失う。
「迷子の状態」の方が道を探す必要性を自覚する分まだましなのに、間違った道でも「進んでいると思い込めればそれでいい」と言わんばかりに何かをやりたがる。
2つ目は、「個性」という名の運命論。まぁ目指そうとする分ポジティブかも知れん。
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◆目的論
性格により決定された「意志」は「言動」としてアウトプットされる。アウトプット、つまりは言動とは何らかの「目的」を持ったものである。
アルフレッド・アドラーの言うところの「
目的論」がわかりやすいだろう。
相手が自分を怒らせるようなことをしたから自分は怒っている、のではなく、その相手が起こした問題の解決法として自ら怒るということを選択しているのだ、ということ。
この場合なら怒りそれ自体が目的なのではなく、怒ることを自ら選択しているのであり、その「目的」を考えれば、よりよい方法が見つかるではないか、ということ。
アドラーの心理学は特に責任を自分自身に求める傾向が強い。無意識はない、
トラウマはない、その感情は自分で選択した、つまりは全て「そうしたいからそうしているのだ」と。彼自身がいくつもの
コンプレックスを克服してきた者であるし、そういった「強さ」を手に入れた者だった。
一例を上げればまぁ・・・、彼の身長、150cm。問題児のカウンセリングの際、こう言ったそうだ。「小さな僕たちは、大きいってことを証明しなければならないね」と。何かで読んだだけだからうろ覚えだが。その子も背が小さかったらしい。そして自己主張をするかのように暴れることで「問題児」とされていたんだとか。
だが彼の実績を見てみれば、自己顕示欲のようなものは殆ど見られない。自身の名を売りたいと言うような気配は殆ど感じられない。
あまりにもそういった欲がなさすぎて、今でこそフロイトやユングと並べて3大巨匠のような扱いをされてはいるが、それまで一般レベルでの知名度は他二名ほどではなかった。
お陰で自己啓発とか、例えば「7つの習慣」とかでパクられまくったと一部のファンは言ったりしている。
目的論としてこの話を見てみれば、彼はきっと、「目的(大きく見せなければならない)」を達成するための「違うやり方」を見つけたのだろう。心理学者として名を売ることのほうが容易だったかもしれないが、彼はそれよりも「なりたい自分」「あるべき姿」に目を向けた答えを見つけたのだろう。
これは「我慢」ではなく、恐らく目的の「昇華」だと思われる。
彼の「厳しさ」は甘ったれた人間を軽蔑するような、元喫煙者の嫌煙ファシストが振る舞うような傲慢な厳しさとは違うだろう。
彼が言う「そうしたいからそうしているのだ」という指摘の意味とは、「だからあなたはそれを自分でコントロールする力を最初から持っている」というアドラー心理学で言えば「
勇気づけ」の一種なのだろう。
この点において広まり方というか売り込み方と言うかで誤解されてる様に感じるが。特に
課題の分離が。
まぁ、些か綺麗過ぎるというか、前しか向いてないというか、そういった所に居心地の悪さを感じるのだが、まぁ私の性格が悪いからだろう。私は綺麗なものと汚いものとのコントラストが見えなければ落ち着かん。逆に後ろしか見えないような気持ちの時には救いになるはずだ。
余談だが、アドラー心理学はストア派の哲学にかなりにているように思う。
どちらも「より良くなるために」ということを、実践に重きをおいて追求したものだから、たどり着いた場所が似ていても当然なのかもしれない。
私は
エリック・バーンも好きなんだが。人間の天然の悪意をちゃんと見ているから。
目的論は一見関係ないように見えるが、次で必要になる。まぁ同じ神話なら、こういった「昇華」の神話のほうが健全だとは思う。
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◆そもそも「性格」の問題なのか
ハッキリと言ってしまえば、「性格」のせいにするのは大抵の場合は一種の現実逃避だ。クソのような性格だったところでそれ自体では大抵の場合問題にならない。
自分の問題が「性格のせいだ」と悩んでいいのは、言動が悪い者ではなく、自分の思考や発想が気に食わないと悩む者にしか許されない。
大抵の場合自分の性格に問題があると気付くのは他人のリアクションがトリガーとなっている。要するに他人が知覚できるような「言動」を当人がしていることが問題となる。拠って大抵の場合はその者の「言動」が問題だ。
他者からの視点を想定すれば、あなたの性格とは即ち、あなたの「言動」のことを指す。ちょっと心理学的な話になるが、人間は自分の言動は特に意味もなく行うこともあると自覚しているくせに、他人の言動は明確な決断と意思を持って行っていると決めつける傾向がある。
自分も独り言を言うくせに、他人が独り言を言ったときには自分に向けられた嫌味かなんかだと思いがちだろう。口からこぼれたとは認めず、「言いたいから言ったのだ」と捉えるだろう。だから独り言の多い奴は結構嫌われるわけだ。近くにいられるだけで落ち着かないから。
まぁとにかく、あなたの言動から、相手はあなたの「性格」を幻視する。そして自分の性格に問題があるかもしれないと思うのも、他者観測できる状況が多い。つまりは他人に何か指摘された、あるいはリアクションが芳しくなかったか、あるいは自分自身で自分の言動にドン引きしたかが多い。
もう一度いうが、殆どの場合は「言動」の問題だ。「性格」のような根源的問題ではない。先のアドラーの話のように、自分の問題有る言動の「目的」を知り、それを叶えるための効果的、且つ(自分で思うところの)健全な振る舞いを試せばいい。それを積み重ねていけばその内それが「性格」として取り込まれていき、やがて自然体になる。
ベストじゃなくていい。
完璧主義は一歩も動けなくなるか、やりすぎるかのどちらかで終わりやすい。ベターでいい。「今よりましだろう」程度でいい。
さて、綺麗事だけというのは趣味じゃないからこれもハッキリ言っておく。それをやったとしても、最初は落ち着かない。「馴染みがない」からだ。
「解決した」という気が欠片もしないだろう。あなたから見て「最善の行動」をしたとしても。このことについては覚えておかなければならない。「スッキリはしない」。
そういった終わり方を期待し、あまつさえ求めるというのなら、また泥沼にハマる。しばらくは最善の行動をしたところでモヤモヤするだろう。「それが性格として馴染むまでは」。つまりは、その行動が良かったか悪かったかを「感覚」ではなくて「理性」で判断しなければならない。
ここでの「神話」は「性格を直さなければ言動は治らない」としてしまうこと。これは客観的に見れば意図的に運命論に仕立て上げ、問題の解決から目をそらしていると言える。
言動だけなら今すぐ変えられるだろう。そしてそれが続けば「性格」になる。性格による言動は気を抜けばでしゃばって「やらかしてしまう」ものでは有るが、意志によって抑えることが出来る。抗えない運命ではない。まぁ疲れるだろうけどね。
つまり、治す順序は言動→性格だ。言動一本に絞っていい。そしてこの神話ではそれが入れ替わっていて、治しようがなくなってくる。「性格が治らないから、言動が変わらない」と。
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◆わるいまじょ
さて、自らの言動を性格のせいにした人は、自ら「性格を直さなければ言動は治らない」という神話の世界に落ちることになる。
神話になぞらえれば、彼らは自らを「英雄」とする。問題を解決する運命にあり、「必ずそうなる」運命にある主人公とする。
だから自分の「性格」に不満を持つ者の一部はひどく自然に「犯人探し」をする。「倒すべき相手」が必要だからだ。何よりも人間は「出来ることがない」状態にはいられない生き物だ。例え捏造でも「出来ること」を作ろうとする。
大抵は親だとか教師だとかいじめっ子だとかになる。幼児体験が人格形成に影を落とすのはまぁ、十分に有り得る話では有る。この点に於いては大体あってる。大体は間違っていない。
「敵」を見つければ手段はそれぞれだが戦いを挑む。まぁ実際には恨みつらみを愚痴るような、つまりは「憎む」という消極的手段でだが。
まるで自分は「呪い」をかけられていて、「悪い魔女の首をはねたら呪いが解けてみんな幸せになりました。めでたしめでたし」みたいなおとぎ話の主人公のように。
だが、現実にはここはそんなファンタジーな世界ではない。実際に幼児期体験によって形成された
禁止令などのネガティブな思考・行動パターンを「呪い」と称する人々もいるし、まぁ確かにそうとも言えるのだが、その「呪い」は、「悪い魔女を倒しても解除されない」。
まさかリアルに首をはねるつもりもないだろうが、拉致監禁してボッコボコにしようが、相手が泣きながら土下座しようが、相手が後悔の念にかられて首を吊ろうが、「あなたの性格は治らない」。
最早それは「犯人」からは独立した「あなたの問題」になっていて、その問題解決に焦点を当てなければ改善は見込めない。
今のバイオレンスな表現、あながち冗談でもなく、20代だか30代だかの者が子供の頃のいじめっ子を刺した、なんて事件も実際に有る。まぁ性格改善を願って刺したわけでも無いと思うし、刺したところで性格が治るわけがないが、そのくらいに恨みは燻るものだ。やった方は忘れているのだろうが。
まぁ、大抵はこんなアグレッシヴなことやらんだろう。それは逆を言えば、「一生恨みに思って、一生その性格のまま」であることが十分に考えられる。ここは問題だろう。
最後の「神話」は、「呪いをかけた悪い魔女を倒せば呪いは解ける」と思っていること。そしてこの神話の終わりは、「社会的な人生の終わり」か、「一生その性格のまま」かの最悪な二択になる。
この神話だけは、早急に抜け出すべきだ。「
いま、ここ」での為すべきことは何かに
視点を向けたほうがいい。
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