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「怒り」から見るアドラーの目的論と課題の分離について 

「怒り」から見るアドラーの目的論と課題の分離について 





今回「怒り」一辺倒で通すが、実際怒りは使いやすい感情では有る。だが多くの場合「頼りすぎ」の傾向になる。

「怒れない」って人も中にはいるんだが、自己申告の割にはヒステリーなケースが多いんですけど。マジコワイ。








◆目的論

目的論のベタな例だと「怒りたいから怒っているのだ」あるいは「怒りたいからその目的を探しているのだ」といった形が多い。基本的には感情を含めた言動は「目的」の発露であり、言動そのものの実行が目的ではない、と捉えて構わない。

-◆「手段」としての怒り

「怒りたいから怒っているのだ」のケース。何か怒るような目にあった時、その解決の「手段」として「怒る」ということを自ら選択しているということ。

これにより否定されるのは「相手に怒らされた」という言い分だ。

・・・ああ、大丈夫、言いたいことは分かっているし、後でやるから。

-◆「エネルギー」としての怒り

「やりたいことをやるため」のエネルギーの確保として「まず怒る」ということ。

えらい簡単に言うと、どこぞの古代の部族の生贄の儀式とか想像してほしいんだが、ああいったのは一種の「祭り」であり、生贄の心臓を捧げるためには「テンションを上げる」ための手順が殆どの場合ある。

大体は事に及ぶのは「クライマックス」であり、それまで長ったらしく「盛り上げる」わけだ。

多分、そうしなきゃできなかったんだろう。大抵の場合、生贄は罪人ではなく、何らかの「価値ある人」だったらしい。神に捧げるわけだから、そこらの雑魚じゃあダメだろうね。そりゃあ。こうしてみると、生贄の習慣があったとは言え、無味乾燥にそれを実行できていたようには見えなくなるね。

これと同様に、「やるため」にテンションを上げる。この場合でも、「目的」事態は怒ることじゃない。

例えばゴミのポイ捨てとかを見て義憤に駆られたとしよう。明らかに自分とは直接関係ないとしよう。それでもそれを見て人は怒りを感じたりする。これはつまり、ゴミのポイ捨てを「止めさせよう」とするためのエネルギーを貯めようとしている、とも取れる。

確かに実行するテンションやエネルギーは溜まるかもしれないが(実際”抑える”必要があるほどに溜まるだろう)、これに頼りすぎると「すぐ怒る人」になってしまう。

で、前述の通り「目的」、この場合はマナーのないやつに注意をすることそのものに「怒り」が必要かと言えば、まぁ別のやり方も有るだろうし、そいつが通り過ぎた後にそのゴミをゴミ箱に入れてもいいし、少なくともこの場合でも「選択肢」はあるわけだ。

厄介なことに「とりあえず怒る」ということを人の脳は勝手にやることがある(他の感情でもあり得るだろう。とりあえず泣く、とりあえず笑う、とりあえず落ち込む)。そうなった場合、選択肢が目に入らずに「やるか我慢するか」の極端な二択になるので注意。簡単にいえば、視野が狭くなる。

また、このようにしてエネルギーを溜め、そのまま「手段」としても怒りを使うというのは、逆らえない立場の人間に対して(短期的には)非常に効率がいい。大抵の中間管理職は、胃に穴が開くか自己愛のような人間になるかの二択になるのは、後者の場合はこれを選択し続けた成れの果てとも言える。まぁ最終的には訴訟が待ってるだろうが。







-◆「混乱」としての怒り

「どうしたら良いかわからないから怒る」というケース。厳密に言えばパニック状態であり、「怒り」とは呼べないが。

こういった場合、軽率かつ行動的になり、何をしたらいいかわからないくせに、「何か」をやろうとする。人は自分を取り巻く状況に対して「何をしていいかわからない」時、かなり落ち着きがなくなる。

この場合でも「目的」があるわけだ。「一刻も早く方針を決めたい」という。ここらへんから交流分析も混ざってくるが、そういったドライバー(駆り立てるもの)として機能することもある。

そして何よりも、この場合状況把握こそが正当な解決の唯一の道だろう。暫定で何かするのは良いが、それは怒りのような「後戻りの出来そうにないやり方」であるべきではない。どちらかと言えば「念のため」といったような慎重な態度であるべきだ。

このように「目的」に対しての「手段」がつながっていない、間違っていることもある。だからこそ、「目的」は知る必要がある。「直感」の信者にはわからないかもしれないが、直感すら理性で再チェックする必要はある。時間が許せば、だが。

-◆「怒るための怒り」

前述の自己愛中間管理職のようなことを長く続けていた場合、ここでようやく「怒ること」そのものが目的になるようになる。逆を言えば「怒らないと何も言えないし出来ない」状態になる。

怒りに頼りすぎて、他のコミュニケーション能力が劣化した状態。こういうのはタイプAって言って、心臓病で死にやすいとする説もある。

また、他者の責任としてそれを責めるという形で「怒り」を表す者が居る。これは自らの課題を他者へ転嫁し、「だからお前がなんとかしろ」と言い張るという偉そうな甘ったれという不愉快すぎて面白い行為だ。ブレーマーって呼ぶことも有る。

言い方を変えれば、「すべての目的のために怒りを使う」ということ。「混乱」もそうだが、無知無能故に「とりあえず怒る」というのは結構多い。こういうのに限って自分を大物に見せようとするけどね。





-◆よくある誤解

まぁ目的論としての怒りにも「目的」の種類は色々有るわけだ。「怒りたいから怒る」だけが目的だ、ということはない。フラットに見れば、大抵の場合「怒る以外の方法がある」ことに自ら気づけるだろう。それが出来るだけでも目的論は価値がある視点だ。

これを全部混同して、怒った人間に対してとりあえず「お前はそうしたいからそうしているし、自分は悪くない」とか言うのはちょっと頭が残念だと言わざるをえない。これはもう、自分のせいじゃないということにしたいという「目的」で口にする屁理屈である。

人間たちの間には「怒ってはいけない」という一種の「神話」が蔓延っているが、怒るべき時は怒るべきだと思うよ。ただし、怒る目的は見失わないよう。相手を叩き伏せたところで、目的を果たせなければ意味がなかろう。
ここを大抵見失うかあるいは最初から気にしていないから、「いくら怒っても怒り足りない」なんてことがよくある。

さっきの「手段」としての怒りについてだが、残念ながら現実には「挑発」をしてくる者がいる。交流分析では「ゲーム」と呼ぶんだが、相手を怒らせることそのものが目的、相手に嫌われることそのものが目的という相当歪んだ「目的」を持って挑発してくる者もいる。

そのさらに奥には「自分は相手を怒らせる=影響を与えるだけの力がある」というラケット感情(偽の感情)を得たいだとか、自分は嫌われ者だということを再確認したいだとかの「目的」がある。
こういった連中が相手を怒らせた挙句「お前は怒りたいから怒っているのだ、自分は悪くない」とか言ったらもう、な。

余談だが、アドラー心理学は実践重視だったため、「生き方」として紹介されることも多い。確かに一部の哲学と似ていたり、同じだったりする部分は有るのだが、それでも「医学」であることに変わりはない。

何が言いたいかって言うと「治ろうとしている人」を中心にして見ているものであり、「手遅れで迷惑な奴らが絡んでくること」はあんまり視野に入っていない気がする。

拠って、「生き方」とするには他者からの悪意に対する分析が足りてないように思う。概ね言ってることには賛成なのだが、この点を忘れずに実践には慎重になるべきだろう。





◆課題の分離

「事が成就しなかったり、例え成就してもそれを恥じたりする場合、悲哀が生まれるからだ」 セネカ 心の平静について 12章1節


-◆ヒューリスティクス

まぁそんなわけで、「目的」を達成しない限りは言動には当人にとってやっただけの価値がない。だがその前に、目的のための言動を考える前に、その直感として頭に浮かんだ「目的」が妥当かどうかを考えよう。

まず言っておかなくてはならないのは、直感と同時に殆どの場合「こうしよう」というプランが頭の中に既に浮かんでいるということだ。
孫子は「兵は拙速を尊ぶ」、つまり多少バカでも速い方がいいと言ったが、脳も同様にこの価値観を持っていて、「すぐにやろうとする」。

これ(つまり感情や直感的な意志)に従うことが善や正義であるのだと人々は堅く信じているが、実際のところはクセ、成功体験、トラウマなどの寄せ集めであり、割りとガバガバな結論(笑)だったりする。大抵の場合、自分をセイギノミカタだと信じて疑わない人間は、既に誰かを理不尽な暴力で叩きのめしているか、騙されている。まぁみんなこんなんだが。

「人の言動」として見てみれば、拙速は軽率となり、多く後悔を産むだろう。何よりも人は成功か失敗かは覚えているが、速かったか遅かったかなんてあまり覚えちゃいないからだ。成功は成功としてあなたを唆し、失敗は失敗としてあなたを萎縮させる。だからこそ、「後悔しない成功」でなければならない。そのために速さが必要かというと、微妙な所。

-◆課題の分離

で、目的の再構築なり再検査なりをするには課題の分離・・・となるのだが。

アドラー心理学の課題の分離は、「人は人、自分自分」という観点が中心になる。これは拒絶や断絶ではなく(というかアドラーは共同体の一員として生きることを推奨してるわけだし)、「自分にできること/やるべきことかどうか」と「他人がやるべきこと」とを分離しろという意味。
逆を言えば、いちいち分離する必要があるくらい、私たちは普段混同している。

例としてはまぁさっきの「お前のせいだ」とかいう奴など。これは完全に課題を混同、というか押し付けて、自分の課題から逃げている。相手に対して自分のために自分の問題をなんとかしろと言ってるのと同じだから「偉そうな甘ったれ」だとさっき言ったわけだ。

厄介なのは、目的論のような「視点」を持っていない場合、「本気で相手のせいだと思ってる」こと。自分の感情ですら相手のせいにする。相手にとってはそれが現実であり、それ故に一歩も引かないだろう。迷惑である。

以前の記事で言った課題の分離は綺麗過ぎる、自分に使うに留めておけ、ということの理由の一つはこれだ。「まず他人には通じない」。ってか理解できないし、しようともしないだろう。「理解しないほうが楽だから」ってことすらある。
自分の問題を「みんなで協力して乗り越えよう^^」とかほざくのもいる。嫌になるね。

また、結構な頻度で課題は「癒着」している。1人の責任、というのはあるだろうが、それで影響を受けるのは複数人であることも多い。では影響を受ける人間たちは「当人の問題だから」と黙って見過ごすべきなのかと言えばそうではなく、「自分の問題として」、「自分の視点から」解決するべきだろう、ということ。

突き詰めればこれは「自己完結する問題解決の方法の模索と実行の推奨」になる。これはこのままだと誰もが「自分のため」「お前には関係ない」と言って好き放題やるようになるだろう。

必ず拡大解釈が起きる。やりたいことをやり、やりたくないことから逃げるのを「目的」として。まず困った奴らが「利用」を始める。だからこそアドラーは「共同体感覚」なんて概念を作ったのだろう。共存することはいいことだ、とする指針を。

注意しなければならないのは、目的論はまだいいが、課題の分離に限って言えば、「単品では破綻する」。恐らくだが。人類にはまだ早いのだろう。そして前述の通り大抵の人は「わかりたくもない」。自分だけ実行して、自分だけ声高に共存共栄を謳うのならば、まぁ、浮くだろう。





-◆「世の中が認識している」課題の分離

気になることがある。

例を挙げると、あなたが結婚して二人暮らしだったとする。共働きで。毎朝あなたが最初に家を出る。パートナーが次に家を出る。ちょっと迂闊なパートナーで、毎日必ず玄関の鍵を閉め忘れる、としよう。

空き巣の心配があるね。不用心にも程がある。そんなつもりはなくても、玄関が開いてることを知れば悪心を抱く者もいるかもしれない。これは問題だ。

あなたはパートナーに「しっかりカギを閉めるように」と頼んだとしよう。だがパートナーは「今まで空き巣に入られたことなかったし別にどうでもいい」として取り合わなかったとしよう。

ようするに、「当の本人が全く気にしてない/困っていない上で周りが大迷惑」という事態が、結構有るという点。本人は改善の意思がなく、周りの人間だけが正確に被害を予測し、対策を練るべきだとしている状態。別れちまえよと思わなくもないが。

酷く現実的な話としては、課題の分離の視点だとこの問題は解決できない。せいぜい自分の部屋にだけ自分の希少品を置いて、そこにだけカギをかけるくらいか。

離婚するにしたって「玄関に鍵をかけないから」じゃ分が悪いだろう。それとも実際に空き巣が入って来てから説教でもしようか。その時たまたま居合わせて居直り強盗でもされたらどうする。

要するに、課題の分離に限って言えば、相手が問題で尚且つ自分が困る状況の場合、危険予測の出来ない奴や悪人相手に極端に弱い。せいぜい「消極的自己解決」、悪く言えば泣き寝入りの悪あがき程度のことしかできない。

あるいは酷く極端に「縁を切る」といった形か。そして実際にこういった「わからずや」に言うことを聞かせるためにはそれこそ「相手の課題に踏み込んで」強く言うことも必要では有ることも指摘しなくてはならない。

これらが「社会」で通用するためには、共同体感覚やらなんやらの一般化が必要だが、あいにく世の中個人主義である。人間関係の「言動」として課題の分離を使うのは諦めたほうが速いだろう。ぶっちゃけてバカには通じない。そして人間はどこかしらバカである。

この2通りの「通用しないケース」は、世の中が認識しているであろう課題の分離を想定した。実際の所、現代でアドラー心理学を修めている学者なども「自分のために使うようにした方がいい」ということを言っているらしい。要するに、私がここで指摘した点は彼らにとっては「知ってるよ」程度だと思われる。

だが、生憎一般人の人格や人権に対するモラルの話で言えば、「心理学的テクニック」なんて「他人を思い通りにする方法」程度の認識しかない。だからこういった誤解とまでは言えないが「暴走」的解釈がどんどん広まる。騙されれば怒るくせに、騙す側になるときには何の抵抗もないのだから。

違和感ははじめからあった。他の要素は哲学のような匂いがするのに、課題の分離だけまるでそこらのおめでたい奴らが口にしそうな「破綻している綺麗事」のような印象を受けていた。ミームとして見ればこれは「拡散するために変質した」のだろう。学説ではなく、ただの流行に堕ちて。





-◆課題の分離で目的の叶える行動を考える

まぁ、一応フォローしておくと、課題の分離をすると自然な形で人に感謝できるようになる。他人が自分のためにすることを「義務」ではなく、「やってくれた」と自然とわかるようになる。まぁあなたがツンデレじゃなければの話だが。

さて、長くなったが、ようやく「神話」を壊したところで本題に。

目的やそれを叶えるための言動を決める際に「課題の分離」は必要になる。「他人に使う」のではなく、「自分に使う」こと。

要するに、みんな大好きな「責任の所在探し」は結構どうでもよく、自分が困ってんなら自分で解決せよと。

誰かがあなたの部屋に生ゴミを撒き散らかしたとして、「アイツが悪いから」といってそのゴミを放置するだろうか。「自分が困るから」片付けるだろう?

あるいは車に跳ね飛ばされたとして「アイツが悪いから」といって自分は救急車を呼ばずに道路に転がっているだろうか。「ほっといたら自分がやばいから」助けを呼ぶだろう?

これがなぜか、相手が言うことを聞きそうであれば有るほどに「自分からは何もしなくなる」。

理由は、もうわかるだろう。「相手がやってくれそうだから」だ。

課題の分離は、ある意味「諦めるため」にも機能する。「割り切るため」と言ったほうが聞こえが良いか。「自分のため」だと割り切って「自分のなすべきこと」を探す、ということ。

前述のパートナーの話とかもそうだが、相手が「テコでも動かん」のなら、それはもう相手の意志として固定して捉え、その上で自分がどうするか考えるべきだ。
さっきの自分の部屋だけカギしっかりかけておくってのも割りといい線行ってると思うね。一度や二度くらいは「お願い」してみるのもいいとは思うけれどね。案外理由があるかもしれない。ADHDとか。

薄々感づいていると思うが、それでも解決しない場合がある。誰も(本来は)問題が絶対に解決するための万能の方法なんて言ってない。個人の解決が無理なもんは無理です。合法的な強攻策、警察なり弁護士なり家庭裁判所なり病院なり上司にチクるなりも選択肢として出すときもあるだろう。

基本的に自分が「するべき」ことならば、無難なやり方を考えればいい。しかし、自分が「こうなって欲しい」と思うのならば、基本的にはそれは問題解決を相手に「頼っている」と言える。
そう思うってことは、自分一人の力じゃ無理だって認めてるってこと。出来ることに対して「出来ない」と思うのと同じであり、そのうち本当に出来る力を失う。他者のせいだったとしても、諦めるか、「協力を仰ぐ」姿勢かのどちらかとするべきだろう。

加えて「他人がそうするべきだ」というのはもう、それが事実だとしてもそれを急き立てるのはあなたの仕事じゃない。結構そうやって自分の「課題」から意図的に目をそらすクセも人間は有る。それは相手に任せることになり、それで自分が困るというのなら、自分の運命もついでに任せることになる。

前述の挑発、つまり「ゲーム」はストロークという心理的なエネルギーのようなものを奪う目的で行われるが、そういった場合の課題は相手の言ったこと、やったことへの対処ではなくて「そのゲームから抜け出すこと」にある。自分の「いま、ここでやるべきこと」を正確に知るためには、幾らか知識も必要になるだろう。判断基準がなければ是非もわからない。

そもそも、さっきまで話してきたように「個人」単位で問題は終わらないことが多いし、その解決の鍵を握っている人間が全くやる気がないこともある。上手いこと騙して唆すならいっそそのほうがまだマシだが、ここでその場限りの解決かただ「思いついたから」と怒って反発心が高まるだけの結果で終わるのは、それこそ「目的」とはかけ離れた結果だろう。

大きく横たわる問題としては、人は「解決するわけないのに怒りたい」ということが多いということ。つまり「混乱としての怒り」。

これも尚更に「目的」を理解するべきだろう。自分に解決能力がないのかもしれないし、他人の課題なのかもしれない。どうすればいいかわからないからという「感情の滅多打ち」ではなく、「こうすればいい」という理解と行動を求めるべきだ。やろうとしてることが違ってる。

とにかく、考えるべきは2つだ。

「何が目的なのか」、これは自身の内面を掘り下げる作業になる。

次に「それをどう表すか」。これは相手にもよるし、状況にも依るし、つまりは「外側」と噛み合うことを考慮しなければならない。殆どの場合相手がいる話なのだろうから。

これらが瞬時に頭に浮かぶというのも、初めは難しいものが有る。事前準備として心構えをしておくことは必要だし、その場での自制心も問われる。

イメージトレーニングなどは結構有効だ。具体的な「サンプル」は、過去の失敗(だと自分で思っているもの)を選べばいい。それを理想の形に「演じ直す」。何も今後失敗することを待つ必要はない。





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