理想が高すぎる:自己承認欲求と完璧主義と心の餓え
自己承認欲求は「まとも」だとする声は多い。だがまぁ、度が過ぎて良いものなんて世の中にはめったにないわけで。
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他者承認欲求との違い
「他者に」認められたい、という欲求。大抵の場合の自己嫌悪の元だったり、「やらかし」の元だったり、何よりお手軽にこれを満たす方法が
ディスカウントや
マウンティングなので他人の他者承認欲求はうざいかムカつくかだったりする。
まぁこれだってやり方の問題で、例えばボランティアだとか、ちょっと周りに親切にするだとか、そんなんでも満たされたりするのだが。でもやっぱりそれに「中毒」になって
メサイア・コンプレックスになってるケースもあるし、「どこまでも追い求めるものじゃない」だろう。
自己承認欲求とは
自分が認めることの出来る自分になりたいという欲求。一見して成長欲求だが、こじれる余地があるので注意。
「望んだ自分になろうとする」と言い換えても良い。こじれる余地とは、理想が高すぎて一生背伸びし続けるような選択を自ら選び、足が吊って立てなくなることだ。端的に言えば「自分に厳しくなる」。
まぁストイックを目指しているならなにが問題かわからないかもしれないが、何事にも限度がある。で、簡単にその「限度」をぶっちぎる。
インナーゲームの時に言った通りに人間は「罵倒し、責め立て、なんとか思い通りにしようとする」ということを、無意識レベルで自分自身に行っている。自覚はあると思われるが、指摘されなきゃ見向きもしないだろう。これが悪化する。理想の高さに比例して、際限なく。
何よりも「そうしていればいつかはきっと」とか希望を持ってると、うつ病とかそういうのになる可能性も高い。
ぶっちゃけて言えば「夢見がちな目標設定」+「ペース配分一切考えてない(むしろ今すぐできるはずとか思ってる)」+「出来ない自分への失望、憎悪」とまぁ、精神を病む要素満載だったりする。
もちろん、理想の自分を目指すのは大切なことだろう。生きる意味かもしれない。だからこそ「うまくやる」必要がある。
さっき「ストイック」という言葉を使ったが、その語源であるストア哲学では「節制」もまた重んじている。心のバランスも含めてね。一般に言う「ストイック」とは、それとはかけ離れたただの形容詞であり、目指したところで、出来たところで、救いはないだろう。
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社会的評価(他者評価)とは必ずしも一致するものではない
「理想の自分」がモデルなので、他者評価は直接は関係ない。逆を言えば自分が満足しない限りは「餓え」は治まらない。
このため、並以下でも自分に満足できる者も居れば、並以上でも満足できない者もいる。自己肯定感、即ち「自信」としてみれば、前者のほうが健全なのだろう。
気に食わない?
・・・だろうね。
なぜ自分を認めることができないのか
目標値が高いのが大抵の原因となる。
大抵の場合、「理想の自分」を100点としての減点方式で見る。「足りない部分」ばかりが目立つ。「まだここがダメだから、満足する訳にはいかない」。
インナーゲームや完璧主義にも通じる話だが、「出来るか出来ないか(プラスかマイナスか)」ですらない「ダメかダメじゃないか(マイナスかゼロか)」というプレッシャーだけ多くて得るものがない二択で自らを見ている。
他者承認欲求もそうだが、「足りる」ということを知らないといつまでも追い求める。
もう1つの原因は「他者評価」が基準の世界だからだ。
「自分ではよくやったと思う。でも、世の中これができても当たり前」って感じだと、まぁ素直に喜べないのさ。
まぁ誰だって褒められたいわけだよ。相手は選ぶけど。でも褒められそうなことは全部「当たり前」に取って代わられる。あんまり褒められることはなくなっていくね。さっきの「マイナスかゼロか」の世界観になる。
さぁ、そんな世の中でも自分を見てくれていて、自分をわかってくれている人が1人いる。「自分」だ。でも、その自分すら世間と「同じ目」で「同じことを言う」のなら、まぁ詰んでるね。自分が「思い通りに動けるかどうか」を常に監視し、罵倒し、できたとしてもそれが「当たり前」じゃあね。
想定している「喜んで良いライン」が超人レベルだったりすると、いつまでたっても潤いがない。
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考えてみて欲しい。例えば、「あなたは100歳まで生きて、死ぬ寸前の一日は世界の誰よりも幸福になれるだろう。ただし、それまでの99年と364日は何の喜びもない、苦痛に満ちた惨めな一生だ」と言われて、よーし頑張って100まで生きるぞ-なんて思えるわけ無いだろ。
こんな碌でも無い「宣告」を自らに課しているのと同じ状態だ。「遥かに遠いゴールに到達することでしか満たされない」と自らに課すのは、こういうことだ。
それどころか理想が高すぎて「一生かかっても無理」なこともありえる。この例えのほうが幸福が一日が約束されてるだけマシなくらいだ。
人を見る目も厳しい傾向がある。「賞賛するに値しない」と。だって自分がそれやっても「あたりまえ」で片付けてるんだから。お義理で褒めても、内心バカにしてたりね。そういうのは「透ける」から、まぁ相手は不快かもしれないね。
覚えておいたほうが良いだろうが、「他人を見る目」と「自分を見る目」は大抵の場合連動している。自分が許せなければ、同じことをやってる他人は絶対に許すことはない。
これは交流分析で言えば「自分も他人もみんなダメ」という状態であり、まぁこの時点で大分煮詰まってるといえる。
裏を返せば、自らの些細な美徳を認めることが出来るのなら、他人の「良いところ」も勝手に目に入る。
そういった意味では
自信がある人間は心が豊かだという話も正しい。・・・ここで言ってるのは正しい自信な。自信だけしか無いやつのことじゃない。
くれぐれも言っておくが、「自分が許せない」、「自分に厳しい」というのは美徳ではない。ノイローゼだ。
全てがとは言わないが、代表格である
完璧主義がこの思考そのままだし、
うつ病もかなり自分に厳しい言葉を吐く傾向が強い。どちらも「思い通りにならない自分が憎い」とでも言わんばかりに。
自分の「いいとこ探し」すら許せなくなる前に、「自分が」自分を認める視点は養っておいたほうが良いだろう。
内心馬鹿馬鹿しいと思っていてもいいから、小さな目標を立て、達成し、「それに喜ぶ」ところまでセットでやるといい。特に最後。初めは頑張らなきゃ出来ないかもね。「自分のやれたことに喜ぶ」ってことが。
あるいは、自分の日常を振り返り「当たり前にできていること」に対して感動してみると良い。無理にでも。「探せば見つかる」。
別に自分を甘やかせってことじゃない。「認められる部分を見ようともしない」という「異常」を修正するべきだという話。そのくらい、人が自分を見る目は曇ってる。
まぁあんまり人前でやったら変な目で見られると思うが。こっそり養っておいたほうが良いだろう。精神衛生を自ら保つ、まぁ一種の「健康法」として。
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