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アドラー心理学の違和感と問題点、批判。

 

アドラー心理学の違和感と問題点、批判。





アドラー心理学がなんかおかしい。おかしいってか「使えない」。

個々の理論を思考のツールとして使う分には問題ないんだが、例えば自分の視点を取り戻すために課題の分離とか、自分の衝動や感情を知るために目的論とか。

だがそれ以外で役に立ったことがない。というか、ツッコミどころがありすぎて使えたもんじゃない。

何かがおかしいと思う。










「目的論」について

鵜呑みにすると動機が全部ストローク飢餓か怠惰ってことになる。かまってほしいから問題を起こす、やりたくないからやらない理由を作り上げる、全てがこういうことになる。トラウマもPTSDも引きこもりも何もかも「わざとやってる」と。

また、インナーゲームという別の理論の話になるが、人間はセルフ1と呼ばれる「自らを見る目、叱咤する言葉が異様に厳しい」という傾向を持っている。

正直、目的論を知ったところで大抵はまともに自分を分析できるとは思わない。他に知っておかなきゃいけないことが多い。「大嫌いな人間を追い込むような」結論を自分で作る可能性は高い。付け焼き刃では悪化するだろう。

他人に使うことを想定してみようか。例えばベタだが怒ってる奴に対して支配したいからそうする、やりたいからやっていると指摘したとしようか。「そうだよ」って返されて終わらん?

心の中なんていくらでも嘘つける。本人が認めない限り全く意味はない。だってこちらの目的はこの場合「相手の行動阻止」なんだから。また、当たってたところで本人に本気で自覚がないから認めないケースはある。

「トラウマは存在しない」について

あるじゃろ。

脳のシステム的に十分ありえる。強い記憶が「焼き付く」ことは。また、連想するようなものを見たら思い出すし、強く焼け付いているほど思い出す条件は広くなる。

PTSDだと脳のスキャンで「見りゃわかる」くらいに変化があるらしい。うつ病でも脳に変化がある。

そもそも、アドラーはこんなこと言ってない可能性が高い。例の本の著者の持論に過ぎない可能性が高く、同業者からも苦言を呈されている。

これは目的論由来のもので、「こうしたいからそのトラウマを自分で作ってるんだ」的な意見なんだが。

例えば犬に噛まれたから犬見たらトラウマが蘇ってビビる、ってのは「犬に噛まれないために近づかない」、という「目的」があるって説だね。

これはそういう目的がある→目的論で自分でやってんだからトラウマじゃないというガバ理論らしい。トラウマ全否定は言い過ぎに思えるね。

シューベルトの戯曲「魔王」ってあるだろう。

子供が魔王がいるって言ってんのに父親は気のせいじゃろって言ってて、目的地についたころには子供死んでるんだよねあれ。

・・・別に、他意はないさ。

「承認欲求の否定」について

「共同体感覚」と矛盾している。この点についてなんやかんや理屈をつけてつじつまを合わせようとしているが、結局の所「集団の一員として認められる」ことを目指した活動の推奨に変わりはない。

これまたアドラーはこんなこと言ってない可能性がある。

これは真に受けるとなんというか、「心の栄養」みたいなものが枯れる。

承認欲求には自己承認、他者承認の2つがあるが、ここでは後者のほうだろう。前者は「自分に対しての劣等感」として成長の動機と方向性としてアドラーは扱っている。

他者承認欲求にしたって、「手段を選ばない」と言った連中が悪目立ちしているだけで、人として自然なものだ。人間は群れの動物なのだから。

人にどう見えるかを気にするってのは、自分がどう扱われているかを気にするってことでもある。そう考えるとある程度は気にするのは自然なことだし、全く気にしないのは危険だってのもわかるだろう。

また、世間の「承認欲求の全否定」をアドラーがこんなこと言ってるせいだとする意見もあるんだが、SNSに限って言えば単純にマウンティングディスカウントがうぜぇだけだと思われる。普通に嫌いなんだろう。

ただ、これらのウザイのや自分の承認欲求への振り回され具合から、元々承認欲求に対しての嫌悪感のようなものを持っている者は多かったと思われる。つまり「ウケる余地」が元からあった。





「課題の分離」について

これは他人に使うと「それは甘えだ」、「お前がどうなっても知ったこっちゃねーよ」という意味にしかならない。

まぁその通りなこともあるが。使い所はわきまえる必要があるだろう。

実際「嫌われる勇気!」「課題の分離!」とか言ってたら離婚してくれって言われたって女性がちらほら。

何でもかんでも自己完結で、他人のことなんて知ったこっちゃないって態度じゃあ、まぁおかしかないね。相手からしてみれば「いきなり裏切った」のと変わらない。

また、これは他人の悪意、軽率さ、狂気に対して自ら相当に無防備になる。「巻き込む」ような立ち回りが自然と身についている人間はいるものだ。

特にまぁ、「意地でも自分で課題はやらない」ってのはいる。自分の課題を本気で相手の課題だと思ってるってことね。その上であなたがそれを「受け取らない」のなら、まぁ「正義の名の下に」、「何としてでも受け取らせようと」するかもしれないね。

アドラー心理学全体に言えるんだが、「精神年齢低いやつ相手だとめちゃくちゃ弱い」。で、厄介さんなんてみんな精神年齢低いだろうがと。

また、巷で言われてるのは基本的に「合わなきゃ見捨てろ」の一点張りなんだよねこれ。それが出来たら苦労しねーよと。

「人生の嘘」について

なんやかんやの「心の問題」に対して、「それを言い訳にして自分が今やるべきことから逃げている」として「人生の嘘」と呼ぶ。

これについてははっきり言っておく必要があると思うが、ガバガバだ。

人間は基本的に自分を見る目は「かなり厳しい」。客観的に見て情けない甘ったれだったとしてもだ。逆に理想が高すぎて「諦めてる」可能性すらある。つまり、自分で見極めるのはかなり難しい。真面目な気質の人間ほど何でもかんでも人生の嘘に思えてくるだろう。

また、問題の大小と重要度は直接関係あるとも限らない。

人の心理として、直面に迫った問題は重要度が増し、将来の心配事は重要度は低くなる傾向がある。この上で、これで「正解」だろう。下痢腹抱えてる状態で明日の準備なんてしないね。トイレ行くよね。

冗談抜きで、タイムリミットってもんが大体はある。「人生しか見てない」のは明らかに間違いだ。

で、実際に現実逃避として忙しいフリするってのはあるんだが、これがトラウマやPTSDや本人が「どうしても出来ない」って泣きながら悔しがるようなことに対して言うんだったら、なんつーか最悪じゃないかね。

「盲点」

ぶっちゃけると、世の中の人間全てが「まとも」であることを前提としているとしか思えない。現実には「手遅れ」はいるわけで。

意図的に人に実害を与えることで、「他人に自分の面倒を見させようとする」者もいる。

ストローク飢餓、交流分析のゲームの中毒者など、「化物」はいる。課題の分離なんてノンキしてないで、殴り倒してでも遠ざけなければいけないようなのは現実にはいる。

また、自分だけがこれらを実践する場合、簡単に破綻する。周りの人間はこんなもん知らんからだ。やばいセミナーにでも行ったのかとしか思われないだろう。あるいはカモられるか。

「錯覚」

致命的な問題点が、「アドラー心理学で人間関係の問題は解決しない」こと。まぁ、ほとんどが。

これはただの誤解なんだが、「全ての悩みは人間関係に起因する」がスローガンなのが大体の原因だろう。

蓋を開けてみれば課題の分離、目的論、トラウマはない、承認欲求を否定せよ、これらは「自分」に向いている。後述するがそれが真理ってわけでもなく「言い聞かせ」に近い。

結局の所「強くなれ」、「自分が変われ」としか言ってないようにも取れる。まぁ実際それも答えの一つだが、たちの悪い事にこれを掲げて「人間問題が解決シマース」「あなたの悩みが解決シマース」みたいな売り方をされている。

加えて、他人に使おうと思えば使える。例えば勇気づけは「子供に言うこと聞かせる方法」みたいな紹介のされ方をしているところもある。まぁよく読んでみればただのオペランド条件付けにまで堕ちてるが。

もうわかると思うが、アドラー心理学はそのまま何も考えないで他人に使った場合「誘導」か、「自分でなんとかしろ」って言う拒絶、あるいは「お前なんぞどうなっても知らんわ」という無関心、あるいは「見捨てるぞ」という脅迫のメッセージにしかならない。相手はそう受け取るだろう。

これで、「人間関係が解決します」? 
そうですか。





アドラー心理学そのものの「目的」について

「治す」のが目的だったとして、人格的、心理的なものというのは本人の「治そうとする姿勢」が殆どの場合必要になる。で、患者をそう「仕向けるため」の方便に見える。彼らの言い方を借りれば、アドラーの主張とされているものは「勇気づけ」に近い。

実際、アドラーの言葉だと伝えられているものに対して「極論だ」とする声もある。

また、彼らは人の心を取り扱うわけだが、今でもそういったところはあるんだが、ぶっちゃけ「治りゃなんでも良い」みたいな所がある。
で、そのために患者に「説得」する必要がある。どっかで読んだが、「患者が認めないならそれは間違い」として次の「やり方」を探すべきだ、みたいな意見もあった。診断・治療においての話だぞ。それでいいのかと。

ユングなんてアレだ。「夢で見たから」なんて頭イっちゃってる理由でその日予約はしてるけどまだ会ったことのない患者の病状決めてたことがあったぞ確か。「医学・科学」に属するものとして扱って良いのかどうかの疑いは残る。

ここまでのまとめ

強調しておくが、これらはあくまでも「一般的なイメージ」とそこから推測される感想について語っている。

えらく簡単にいえば、みんな(人に向かっていうのは)大好きな「自己責任論」に似てるんだよこれ。

「お前気を引くためにそうしてんだろ?」

「お前苦しみたくて苦しんでんだろ?」

「自分でやりたくてやってるんだから知らないよ」

「「「お前がそうなのは、お前自らの選択であり、お前の責任だ」」」

みたいなさ。「自業自得だ」って吐き捨てるのと変わらんね。

で、たちの悪い事に一部の人間にはこういうのこそが「受けがいい」ことがあって、そういった意味で当たったってのはあるね。「自分が嫌い」って人も結構多いもんで、そういった人が自分自身を責めるツールとして使うかもしれないし。

要するに、一時的に「弱ってる人間」の役に立つどころか周りの人間、或いは本人自身が「トドメ」として使いかねない。本人が励ましのつもりでも、「暴力」として機能する。アドラーの名の下に。

冗談抜きで黙って何もしないほうがまだマシだった、知らないほうがまだましだったって結果にもなり得る。

ぶっちゃけると

とっくの昔に死んだ人間に責任押し付けて弱った人間狙ってクソみたいなマウンティングしてませんかねぇ?

という気持ちがそこはかとなく。

アルフレッド・アドラーについて

アルフレッド・アドラー。

六人兄弟の二番目。両親は共にユダヤ人。後に嫁になるのもユダヤ人。

幼いころに声帯の痙攣、くる病、肺炎、弟の死などから医者になることを志す。

劣等感について多くの意見を残している。初期の彼の説では劣等コンプレックスは身体的弱点に由来するとしていた(後にその他にも様々あると変更している)。

彼自身、前述の病弱さに加えて身長が150cmで運動音痴、くる病だったせいか歩くことも万全ではなく、子供の頃に二回馬車に跳ねられている。身体的コンプレックスは強かったと思われる。

身長や身体能力は動物的な優劣の価値観にかかる要素であり、要するに比べやすいしマウンティングされやすい。即ち例え本人は初め気にして無くても周りから「バカにされやすく」、最終的には気にせざるを得ない要素だからだ。ストレスだっただろうね。

声帯の痙攣については彼は克服している。

なぜならアドラーは、いつも患者にやさしく穏やかに語りかけ、歌声はとても美しかったと伝えられており、彼の講演は多くの人を魅了したからである。


母親との仲は良好ではなかったらしい。

自分よりも兄を可愛がっていたし、弟の葬式の時に母が「笑っていた」というのが尾を引いていたらしい、という話もある。

まぁ本当だったとすると、身体、つまりは物理的に「弱点」があった彼にはこれは恐怖だっただろう。

兄のほうが「価値があり」、それ以外が例え死んだところで「邪魔者がいなくなったと喜ばれる」と解釈したとしたら。

おそらくは死んだ弟の葬式に自分を投影したのではないだろうか。「自分が死んでも、同じように母は喜ぶのか」と。

もちろん少年アドラーの視点であり、母親が本当にそうだったのかは定かではない。笑っていたというのも友人の慰めに対して愛想笑いを返しただけかもしれない。こっちのほうが現実的な解釈だろう。まさか手を叩いて大笑いしてたわけでもなかろうて。

だが一度こういった「シナリオ」が頭の中にできてしまい、「根拠」となり得る劣等感を感じているものがあった場合、これはなかなか頭から離れない。

眼科→内科→フロイトの著作『夢判断』を読んで感化されてここから精神科へ。

フロイトの弟子、つまりユングとは同門とされることが多いが、wikiによれば実際には「共同研究者」らしい。フロイトと最初から同列だった。

フロイトに招待されたことにより「水曜心理学会」に参加。これは後の「国際精神分析学協会」に発展する。

その後フロイトとは袂を分かつ。この時水曜心理学会からいくらかメンバーがアドラーについてフロイトから離れた。彼らは自由精神分析学会を立ち上げ、これは後に個人心理学会に改名されることになる。





フロイトの主張はまぁ、御存知の通りあっち方面(性欲)に拘っていたし、アドラーはそれよりも「劣等感」に注目した。劣等感をこじらせた果ての「偽物の優位性」などに。まぁフロイトとは基本的に反りが合わなかったようだ。

なんでもフロイトは偉そうで頑固だったんだとか。後に可愛がってたはずのユングからもサヨナラされている。

偽物の優位性とは、簡単に言えば「なにやっても勝てないから自分が勝ってることになる屁理屈や価値観を捏造しよう」ということ。ディスカウントの動機になるだろうね。

第一次世界大戦には陸軍病院の神経精神科に所属。

精神は思考や感情などのパーツとして切り分けて考えるものではなく、全体像として捉えるべきだという視点を持っていた。それは個人心理学と呼ばれ、現代では「アドラー心理学」とされている。

本人は僅かな著作・論文しか残していない。

児童相談所を設立したり、スクールカウンセラーのようなこともしていた。

アドラーは前向きな性格だったとされている。 まぁ、母親の件も吹っ切れたか割り切れたかしたのだろう。

また、講演などで結構人気があったのだが、ちやほやされるのは嫌いだったようだ。

アドラーは心理学の講義を行った後、用意された昼食を学生たちと楽しんでいた。
だが、1人の女性は、サンドイッチと飲み物だけの昼食が続くことに腹を立てて言った。「毎日先生にサンドイッチを食べさせるなんてひどいって言ったのですよ。先生のような偉大な方に」と。
アドラーは女性にこう言った。「いいですか。もしも私の中に偉大さというものがあるとすれば、私が食べたもののためではありませんよ」。偉ぶらず、質素な生活を好む人柄が表れる話である。

(1分間アドラー 人間関係の悩みをゼロにする77の原則)より引用

比べられるのが嫌いだったのだろう。身体的ハンデがあり恐らく周りからはバカにされただろうし、親からは兄弟たちと比べられ、うんざりしていたのではないか。

まぁそんな経験した者は多いが、有名になってから=つまり有利な立場になってからもそれを否定できるのは人格者と言って差し支えないだろう。

なんてーか、必死で媚び売ってくる人っているよね。アレはアレで序列に勝手に組み込もうとしているように感じてなんかいやですね。

この点でおかしさを感じる人も出てくるだろう。少なくとも日本で言われてるような「きつい言い方」なんてするような人柄には見えないからだ。加えて、現場主義というか、ちゃんと「人を見ている」風景もイメージできる。
そのあたりに見落としがあるようなことを言うとは思えない。それに恐らく彼なら「誤解のないように言葉を尽くす」ことをするのではないかと思うのだ。

やたらと「アドラーは言っていた」と言われるが、パーソナリティとしてみるとそれは本物のアドラーは「言うわけがない」と思えるような言い方をしていることが多い。

アドラーは、個人心理学の未来について次のように述べている。

誰ももう、わたしの名前など覚えていないときがくるかもしれません。個人心理学という学派の存在さえ、忘れられるときがくるかもしれません。
けれども、そんなことは問題ではないのです。なぜなら、この分野で働く人の誰もが、まるでわたしたちと一緒に学んだように行動するときがくるのですから。

—アルフレッド・アドラー、"Alfred Adler as We Remember Him" (1977)[3]
印象としては「トラウマサバイバーで人格者」と言った感じ。神格化されている可能性ももちろんあるが。実際に彼の後を追ってフロイトから離れたものがいたことも事実だろう。

哲学者

本人が健在の時から「アドラー心理学の自助グループ」の活動が盛んだったわけだが、座学、実践、それらについての仲間同士の議論が重要視されていたという。己の内面について行うのなら、これは哲学ににている。

で、「例の本」の著者もまたアドラーは哲学者に近いと思っている、とか書いてるらしい(読んでない)。

例の本、引用なら読んだけど、なんてーか、中二病が対話式の古典の哲学の本真似て書いた二次創作ってーか・・・。書く分には、楽しそうっすね。メアリー・スーの匂いがするが。

まぁそれは置いといて、「心理学者」の一番身近にある「サンプル」は何だと思うだろうか。そうだね、自分の内面だね。

で、自分の内面を探り、システムを把握し、なにが正しいのか、どうあるべきか考え、そのように自らを律しようというのはストア哲学だとか、そっちの系統にかなり近い。

視点について

アドラー心理学は恐らくセルフ・ヘルプを想定している。自分で自分を助ける、或いは専門家の力を借りずに相互補助で、ってやつ。

だからこそ、「本人がやる気が出るように」というのが基本的な主眼になっているようにみえる。全体的に「勇気づけ」の匂いがするのもこのためだろう。

メッセージとして受け取れば、「あなたには自分で自分の問題を解決する力がある」というニュアンスが強い。

この点から考えて、「一般向け」としての属性は強かったはずだ。本当は。





大体合ってる

一番厄介なのは、大体合ってるってことだ。ただ、高度というかなんというか、言葉だけ聞いてもまずわからないし伝わらない。

例えば目的論。これは別に間違っちゃいない。そのままでいたいって動機で自分の行動を制限するような思考スキーマが脳内に出来上がることはある。やりたいことを「やっていい」とするために理由を捏造することもある。まぁ大体は、やっちゃった後で言い訳探してる感じだと思うけど。

自分で自分の脳内にそういうのを作るんだから、まぁある意味自業自得とは言えるだろう。

ただ、それは「意思決定」ではない。人間が、自分の意志で自分をこうしようとしてそうなった、というわけではない。

ココらへんがややこしいところなんだが、要するに無意識だとか本能だとか、そういったレベルの次元にまで突っ込んでおいて「だから自分の責任」ってことにするもんで、言ってることあってるけど糞の役にも立たないって状態になってる。

えらい簡単にいえば、花粉症ってあるだろう。アレ自分の免疫の過剰反応だよね。呼吸も辛いような重い症状の花粉症の人間を指差して「自分の免疫のせいだからお前が悪い。花粉は悪くない。そんざいしない!」とか言ってるやつがいたら、頭おかしいだろう。

挙句にその「解決法」が「鼻摘んで目を閉じてたら良いよ!」とか偉そうに言うって、そんなレベルだったらどうだ。殴りたい。

話のスタート地点「だけ」があってて、その後の思考と言うか論理が狂ってる。

仮説やシミュレート、最悪思いつきレベルの事が、「アドラーは言っていた」とラベルを貼られてばらまかれてるかのような。

話を一旦戻して、アドラーは哲学者に近い、と言ったが、著名な哲学者っていうのは私が知ってる限り全員が「内観」のスキルが異様に高い。要するにメタ認知。自分の心理を監視、観察、分析する能力。

また、アドラーと同世代の心理学者も内観スキルが高いように思える。ユングは行くとこまで行っちゃって「無意識の世界の開拓者」のような扱いをしている本もある。

ユングと言えばアニマ、アニムス、グレートマザー、老賢者、そしてシャドウなんかが有名所だね。そしてユングは自分の老賢者に「フィレモン」と名付けた。

一方ソクラテスもまた自分の中に「自分が間違ったことをしようとしている時にそれを止める直感的・霊感的なもの」の存在を察知しており、「ダイモン」と名付けている。擬人化してるからややこしいかもしれないが、要するに頭の中にそんなシステムがあるのさ。彼らはそれに自力で気づいた。

直感のシステム、つまり人間が「動機」と感じるものは直感的な目的に沿って「後から用意されたもの」であることもまた、彼らなら恐らく自力で分かる。現代で言うと、認知バイアスにやらかす前に自力で気づけるレベルの領域。

これまた証明されてるんだよね。電気信号=脳波が最初で次に体が動いて、最後に頭が働くってことは。

要するに、
見る→やろう→やった ではなくて、
見る→やった→やっちゃったからやろうと思ったってことにしよう、というのが人間のデフォルト。

この最後の部分が意識としては「最初に頭に浮かんだこと」だからそれが理由だって人間は勘違いする。そこから「逆算」して本当の目的を知るのは価値はあるだろう。

だがそれだってクセや本能に近いものだ。人間性やらなんやら、ましてやそれを「自分のせいだからなんとかしろ」じゃあ、何の役にも立たない。出来ない以前に自覚がない/出来ないのが問題だからだ。

これらはほぼ「体感」しなければわからないことであり、「言っても伝わらない」ことを偉そうに言っていることになる。禅でいうところの「悟り」に近い。ほぼ「セミオート」の通常の人間の意識状態では観測できないだろう。

禅者の著作でも読んでみれば恐らく分かるが、「悟りとはどういうことか」は言語化が不可能に近い。「体感」だからだ。他に例えようのない。

うんまぁ、話がめんどくさくなってきたから切り上げようか。

要するに、例えるなら「自転車の乗り方を話してもらったところで乗れるわけじゃない」。

「知ればすぐに役立つ」みたいなものじゃない。知った上でも理解するために試行錯誤が必要な領域だということ。何よりも「自分が使えなければ意味がない」知識である。

裏を返せば、内観の「ツール」としてはかなり役に立つ。特に目的論は自分が本当はどうしたいのか、それに適した「もっとうまいやり方」を考えるのにも使える。動機そのものが自分でろくでもないと思うのなら、やめようという方向で考えてみる理由にもなるだろう。自分から。

・・・例の本とかもそうだが、ウリ文句考えてるやつってマーケティングの知識は豊富だろうが心理学や哲学の知識なんて無いと思うぞ。

結局の所は「自分が悪い」なんて取られるのも、「開き直り」に使われるのも、アドラーの本意ではないだろうね。自分の中で起きていることで、だから自分でよく出来るよってのが本来言いたいことだったんだと思う。

言い換えてみようか。

「あなたの心の中には視点を切り替えるスイッチがあるし、それはあなたの手がとどくところにある」。

すぐには見つけられないかもしれない。

長らく使っていなくて、硬くて最初は動かないかもしれない。

錆びついていて、最初は不協和音を奏でるかもしれない。

周りは変わろうとするあなたを「元に戻そうとする」かもしれない。

それでも、スイッチはあなたの中にあるし、あなたの手がとどくところにある。

要するにこれは、説教でも、罵倒でも、ましてや死体蹴りでもなく、「励まし」だったはずだ。アドラー心理学そのものが「勇気づけ」なのではないか。

「お前が悪い」ではなく、「あなたにはその問題を解決する力がある」という。誰だって今より良く変わることが出来る、と。

そのはずが、売り物になってこじれたもんだね。はっはっは。

人間関係においては正直交流分析のほうが役に立つと思うよ。個人的にはアドラーよりももっと色々掘り下げてると思う。エリック・バーンのほうが40くらい若かったはずだし。特に「ゲーム」にラケット感情、ディスカウントについては非常に興味深い。

エリック・バーンはアドラーの影響を受けてることを認めている。まぁ本来はそのぐらいの注目すべきものだった。





心理学者・・・?

アドラーはフロイトに誘われるまでは「眼科医、内科医」だったし、その後も「実験的な心理学」を学ぶことはなかったらしい。

要するに、「医学・科学」としてではなく、「人を観察して」見つけたこと、あるいはそこから立てた「仮説」、「推測」が元になっている。
要するに、「研究」じゃなくて「観察と考察」がメインだったようだ。

哲学とか、思想家とか、そっちの属性のほうが強かったのではないか。

実際、アドラーはカール・ポパーという哲学者に「学者」としては見限られている。
個人的に接触のあったアドラーについて、彼はこう述べる。 

 「アドラーについては印象ぶかい体験がある。私が、なんらアドラー的とも思えない子どもの例をもちだした時、彼はその子どもを一度も見たことはないのに、劣等感の理論によって説明してみせた。
私は、少々驚いて(あきれて?)、どうしてそのように断定できるのか、とたずねたところ、彼は、今までに千事例も経験しているから、と答えた。」
ポパーはいささかの皮肉をこめて、「これであなたの事例は、千と一回になったわけだ」と言ったという。つまり、その事例が、彼の理論にてらして説明できるというだけのことであって、これはべつにどうということはないのだ。
(『推測と反駁』P61)  
 ポパーは、マルクスやフロイドそれにアドラーの信奉者たちが、これらの理論に共通するみかけ上の説明力に幻惑させられていることを指摘する。
これらの理論は、その扱う分野でおこるありとあらゆるできごとを説明できる。それぞれの理論は、理論というよりは知的信仰、啓示の効果を持ち、それを知らない人にはわかりそうもない隠された真理を示すかのような効果を持つ。

ひとたびこの理論に帰依すると、世界は、その理論の正しさを示す例で充ちあふれることになり、その理論の真理性が明白なように思えてくるのである。 
まぁちょっと苦笑い。的を射ているね。この引用中のアドラーの言い分は、要するにこうだ。こじつけておいて「この理論と一致してるんだからこうなんだよ」。

少なくともポパーの視点ではそう見えたのだろう。ポパーはフロイトやアドラーについては結局の所、持論にこじつけてるだけだとの印象を持っていたようだ。

この話、これ自体がトップダウン的思考、要するに「目的論」だね。「持論が合ってるということにしよう」という目的から始まった思考だから、「そうなる」、と。

ポパーから見たアドラーのこの態度は、半端にかじった連中に良く見られる。私を含めて。あーブーメランが痛い。
そしてポパーから見たフロイトやアドラー自身もまたこうだったかと思うと、当時の心理学全体が疑似科学レベルだったのだろうか。そうなると「今更なんでアドラー心理学?」ってことになる。この点についてはビジネス本の出版社の陰謀論も見かけたが。

引用中に信仰、啓示の効果を持つ、とあるだろう。めんどいことに患者にとってはこういった「説得力」があってそれを信じれば実際に治るケースも有る。メスメリズム(暗示療法)が最たる例だし、ぶっちゃけばあちゃんのまじないでもオカルトでも白魔術でもインチキ宗教でも病気が治ったり人生の迷いが晴れることだってある。あれだ、鰯の頭も信心。

フロイト、ユング、アドラーは心理学の三大巨頭と言われていたりもするが、時代的に「開拓者」にあたり、だから活躍「できた」、という意味ではないのか。

例えば「エジソンがいなかったら電球は発明されなかった」なんて事を言うやつがいるが、そんな馬鹿なことがあるわけがない。

必要な上で求められていたからライバルは多かった。エジソンがこの世に生まれなくても必ず誰かが使えるレベルの電球を発明していた。その世界ではこう言われるだけだ。
「●●がいなかったら電球は発明されなかった」。

彼らもまたそういった立ち位置だったのではないか。

新種の化石を発見したら、発見者の名前がつく。新しい星を発見したら、発見者の名前がつく。植物もそうだ。そのせいで仲の悪い植物学者二人がお互いに新種を発見しては相手の悪口を盛り込んだ名前をつけまくったという話もある。何やってんの。

要するに。例えばパラレルワールドを想像して欲しい。時代は現代。ただし、アドラー心理学が存在しない世界。その上で現代にアドラーが生まれ、「アドラー心理学」と同じ理論を発表したとして、「心理学」として受け入れられるだろうか、ということ。思想としてはありかもしれないが、多分心理学としては無理なんじゃないか。

アルフレッド・アドラーに対しての個人的な結論としては、「思想家としてみるべき」とする。彼の理想にはたしかに魅力があるのだろう。ただ、その方法は些か不足している。

例の本について

例の本の書き手に対しては私は関心がない。どうでもいい。と言いたいところだが、見つけちゃったから言うけど、

あの本、つまり「嫌われる勇気」、おかしいってさ。おかしいと思った人が北米アドラー心理学会元会長にメールして聞いてみたら「うん、おかしいね」って返事来たってさ。

要するに、個人の持論と拡大解釈をアドラーの名を使って広めてるよねってさ。やっぱ読まなくて正解だったな。

また、「トラウマは存在しない」については別人の説と混同しているだけでアドラーは言っていない、「承認欲求の否定」はメディアの承認欲求バッシングに乗っかったんじゃないか、と上記リンクの方は指摘している。

トラウマについては「別の意味を持たせて克服しよう」というのがアドラーの意見だったのだとか。

かなり「拡大解釈」と「強い言い方」が目立ち、そのせいで極論と化しているらしい。・・・漫画でもアドラーが同じこと言ってるのがあったよーな。アレは元からあんなノリだからいいっちゃ良いような気もするが。

例の著者に話を戻すが、特に言い方はかなり悪いらしい。本物は「あんまりやらんほうがいいよ」「気にしないほうが良いよ」程度のニュアンスとかなんとか。

著者は哲学者であり心理学者である・・・、少なくとも肩書は持っているようだが、「実態を知らないのではないか」とする指摘もある。特にトラウマは存在しないという主張については犯罪被害者、災害被害者などをわかっていないとする批判もある。・・・課題の分離ですかね。「しらねーよ」っていう。

でもこれだと、「ニセモノ」が蔓延してるってか、ニセモノしか世の中に流れてない状態ってことになるのか。

ついでに調べてみると、アドラーが生きてた頃は第二次世界大戦中だったわけだが、アドラーの弟子たちはナチに捕まりまくったし、少ない生き残りはアンチフロイトな気質だったらしい。原因論と目的論のコントラストが象徴的だろう。
なんかもう、「アドラー心理学」って言っちゃいけないくらい変質してないか、この時点で。

まぁ、フロイトはユングにもアドラーにも嫌われてたっぽいし、アドラー脱退時にはメンバー半分同時に抜けてるし、何やったんだあのヒゲは。アドラーに人徳があったのか、ヒゲに人徳がなかったのか。どっちもヒゲなんだが。アゴヒゲvsチョビヒゲ。

また、推察どおり「アドラーは何かを強く否定するような言い方はしない」ってさ。キャラと言い方が全く違うからまぁ気づいてた人多いと思うけど。





それどころか、「全ての悩みは人間関係から来る」というのすら、例の本の著者の捏造だ、と上記ブログでは言っている。まぁ、私も同意する。腹減ったとかカネがないとかは人間関係と無関係だろう(雑)。

残念ながらこの記事は車輪の再発明、いや四角い車輪の再発明に終わってしまうことになるが、まぁスッキリしたから良いとしよう。おかしいと思ってたらマジでおかしかった。合ってた。やったね!

何かがおかしいどころか根本的な所からおかしかったっていうね。正直「計算」しないとここまで「ウケの良いこと」のてんこ盛りにはならないと思うんだが。確信犯じゃないのか。

たちの悪い事にこの著者、アドラーの本の翻訳までやってるらしく、特に「言い方」に独自解釈が混じっていないかと不安になるな。

オリジナルの情報源から世の中に行き渡る間にただでさえ情報の「劣化・変質」は起きる。

今回の場合は特にアルフレッド・アドラーの「思想」がメインであり、それを形に残すのはほぼ不可能だ。ソクラテス然り、古人の糟粕然り、クオリア然り。加えてもう半世紀以上も時間が経っている。

挙句の果てに例の本については、アドラーの発言がオリジナルソースなのではなく、著者のオリジナルだったというオチだったわけだ。彼は大分「承認欲求」を満たしたんじゃないですかねぇ。

で、面白いものを最後に紹介。

2015年7月、岸見は朝鮮日報とのインタビューで、「私の本が韓国でベストセラーになっているという現象について、日本のメディアは報じていない」と日本メディアを批判した[3]。
ああ、もう、罵倒したい。まぁ冷静に二点指摘しておこうか。

「それは承認欲求では? それを頭から否定している者が求めるのか?」

「メディアが報じる報じないはメディアの課題では? 課題の分離って知ってる?」

これを書く時にはここまで言うつもりもなかったが、もう「日本のアドラー」には「関わるな、避けろ」と言うしか無い。

著者の「持論」は救いはないただのマウンティングだ。アドラーになら救いはあったかも知れんが、残念なことに現状出版されているアドラーの翻訳本の半数程はこの著者の翻訳だ。だめだこれ。はい撤収!

余談だが、「悩まなくて済む方法」なんてのは、全部間違いか狂ってるか極論なんじゃないのかと思った。決めつけりゃ悩まなくて済むからね。

人は、後悔したくないし、争いたいわけでもないし、自分を満たしたいし、できれば相手も満たしたい。でも視点も都合も違うわけで、だから悩む。何か選ばなきゃいけない。何か諦めなきゃいけない。だから。

この悩みに「いつだってこうすればいいよ!」みたいな馬鹿の一点張りな答えなんて、元から存在する余地なんて無いのではないだろうかと。

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